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  エー ゲ海地方  

パムッカレ Pamukkale
エー ゲ海 Ege Bölgesi

エーゲ海地方はトルコ南西部に位置します。沿岸部はペルガモン(ベルガマ)、イズミール、 エフェソス(エフェス)、ボドルム、マルマリス、フェティエあた りまで。内陸部にはキュタフヤ、アフヨン、パムッカレといった街があります。
観光で訪れる機会が一番多いのがこの地方でしょう。文字通り古代ギリシア・ローマ遺跡の宝 庫です。地中海地方とともに古代オリエントの昔からさまざまな文 化が花開いた、豪華絢爛な歴史の舞台ともいえます。イオニアIonia、カリア Caria、リディアLydiaといった古代都市はこの地方にありました。
地中海性気候で夏は暑くて乾燥が激しく、冬は温暖。内陸部では寒くなるところもあります。 茶色の大地にどこまでも続くオリーブ畑が印象的です。アーモン ド、杏、いちじくなどの果樹園も多く、豊かな土地柄がうかがえます。綿の栽培も盛んで、内 陸部では繊維工業が発達しています。
海岸沿いはどこもリゾート地として整備され、夏にはトルコ国内ばかりではなく、各国からも 観光客が訪れて大にぎわい。海水浴はもちろん、クルージングやダ イビングなどのマリンスポーツが盛んです。日本とはだいぶ趣が違いますが、温泉の湧く地域 もあって人気があります。
パムッカレの石灰棚とヒエラポリスは、1988年自然と文化の複合的世界遺産に登録されて います。〈2011.9.25.〉






コンテナターミナルに囲まれた遺跡



キュメ



古代の港





港のブロック



城門



城壁



水道管も残る



城塞跡



無休・見学自由。
エーゲ海地方イズミール県はトルコで3番目の人口(4.425.789人・2021 年)を有します。この県には広大なギリシア・ローマ遺跡のエフェソス(エフェス)や ペ ルガモン(ベルガマ)、海岸沿いのリゾート地チェシメやフォチャといった地域があり、 毎年多くの外国人観光客でにぎわう地方です。どこも開放的な明るい雰囲気に満ちていま す。県都はイズミール。

そのイズミールの北西40キロほどのエーゲ海沿い、ネムルト湾の波打ち際にキュメの遺 跡があります。前2000年末ごろギリシア中部のアイオリスAeolis方言を話す 人々がレスボス島に渡り、ちょうどその対岸にあるアナトリアに入ってこの街を興しまし た。勇敢な女性戦士で有名なアマゾン族がこの街を設立したという伝説もあり、ここで発 行されたコインにはその姿が刻印されています。キュメはコインを発行した最古の都市の ひとつでもありました。
前8世紀この地域一帯に12の都市国家が形成され、アイオリス同盟を結んでいました。 なかでも港を持つキュメは、同盟国の中で最大の都市としてエーゲ海域の交易に重要な役 割を果たすようになります。おもにワインやオリーブオイル、葡萄、小麦といった農産物 や陶器などが取り引きされていました。歴史家のエポロスEphorus(前400年〜 前330年)はキュメ出身と伝えられます。
前5世紀までにイオニア植民地のひとつとなり、その後リディア、ペルシア、マケドニア などの支配を経て前133年ローマのアジア属州に。この間2回起きた大地震の後もその 重要性は失われず、ビザンツ時代にはエリアが拡大されました。
現在遺跡のある地域は、「アイオリス」を彷彿とさせるアリアーアAliağaというト ルコ語名で呼ばれています。

キュメは今まで訪れた遺跡の中でもちょっと不思議な場所にあります。街からかなりはず れたほこりっぽい一本道を入っていくと、何もない殺風景な海岸に出ます。コンテナター ミナルに囲まれたその一帯は浜辺にゴミが打ち寄せられ、人影もありません。木々が茂る 小高い丘のふもとに、そこだけポツンと取り残されたように遺跡が広がっています。道し るべも遺跡を保護するフェンスも何もなし。かろうじて金属製の解説パネルがいくつか 建っているので、ここが発掘調査中の遺跡だということがわかるくらいです。

波打ち際に古代の港のブロックが見えます。濃紺の海の色からすると、陸地からいきなり 深くなっているようで、当時から優れた自然港だったことがうかがえます。港からはヘレ ニズム時代のブロンズ像などが発見されました。
港の近くに前4世紀の安山岩の城壁や門が残っています。港を守る城塞もあり、現在確認 できるのは12世紀ビザンツ時代建造のものです。十字架が彫り込まれた石板も見られま す。



列柱の通り





神殿や邸宅






神殿跡?



アゴラ



アゴラには柱の並ぶ道が残っていました。ヘレニズム後期の小さな神殿を中心に、前4世 紀ごろの邸宅や2世紀のローマ時代の建築物が密集しています。アレクサンドロスがこの 地のアポロン神殿にブロンズ製の燭台を寄進したという話が残りますが、この神殿がそう なのかどうかはわかりません。



野外劇場





半円形に並ぶ客席



広大なストア







丘の傾斜を利用した劇場は中規模のもので、ヘレニズムからローマ時代の建造です。残念 ながらあまり姿をとどめていません。大理石の床の下には古い時代の碑文が刻まれた床が あり、さらにその下からも石碑が発見されたそうです。
海岸に沿ってストアがあります。今は平らな地面に溝があり、基礎部分や石畳が見えるだ けの空間です。当時列柱に囲まれた面積は15メートル×125メートルという広さで、 これは世界最大のストアのひとつとされています。

遺跡から風力発電の風車が見えますが、イズミール県はトルコの風力発電量の20%を産 出するということです。海からの風が強い立地であることがわかります。
解説パネルの地図によると、北側の丘にはアルテミスやイシスなどの神殿とネクロポリ ス、南側の丘にはローマ浴場などがあるようです。しかしその方角を見渡しても、森があ るばかりで道もありませんでした。

海辺の遺跡なので、南北の丘を除けば平らで歩きやすくなっています。解説パネルは海風 にさらされて文字や写真が見づらく、長年放置されたままという印象です。トルコ語とイ タリア語の解説が多く、英語はごく一部しかありません。いずれの遺構も写真と比べると ずいぶん劣化しているように見えます。遺跡保護のために、一度発掘したものを埋め戻し てしまったということもあるかもしれませんが。
キュメは19世紀後半からベネチア人によって発掘が始まり、20世紀に入ってからはト ルコのチームも加わって1979年から1984年にかけて大掛かりな発掘プロジェクト がありました。しかしその後発掘はストップしたままでいつ再開されるかわからず、遺跡 はそのままになっているようです。

ここを訪れた2年後の2019年、「キュメは再発見される必要がある」というタイトル で、発掘が進まず困窮を訴える記事がヒュリエット紙電子版に掲載されました。かつて繁 栄した古代都市、「兵どもが夢の跡」なのかもしれません。さらなる調査研究が待たれま す。〈2022.3.13.〉



 


遺跡地図



山頂からの眺め



古代の階段

無休・夏期8:00〜19:00、冬期8:00〜17:00
エーゲ海に面したキュメ(アリアーア)から北東へ40キロほど入っ た山あいにあるのがアイ ガイの遺跡です。アエガエAegaeと記述する場合もあります。ギリシャ北部のヴェルギナ Verginaにも同じアイガイという古代都市がありますが、そちらはマケドニア王国の首 都でした。
ここ、小アジアのアイガイもキュメと同じアイオリス12都市同盟のひとつで、前1100年 ごろからギリシアのアイオリス人が移り住み、前6世紀にはこの地方の経済と文化の中心地と なりました。
沿岸部の街ではないため、貿易よりも農業や畜産が盛んだったようです。アイガイという名前 はギリシャ語の山羊という言葉に由来するそうで、「山羊の街」とも呼ばれていました。

その後リディア王国、アケメネス朝ペルシアの支配を経て前3世紀にはペルガモン王国の一部 となります。このころアイガイは繁栄を極めました。ペルガモン王国の首都ペルガモン Pergamon(ベルガマ)はアイガイの北西30キロと近い距離にあり、現在も広大な遺 跡が残されています。
前129年ローマ属州となった後の17年、街は地震で崩壊し、時の皇帝ティベリウスが街の 再建を援助したということです。



古代の道



ネクロポリス



ゆるやかな坂道



北の公衆浴場



石積みの壁

遺跡の入口はギュン山Gün Dağı北側の中腹にあり、そこから頂上にかけて街が残されています。石畳で舗装された古代の道は広々として状態がよく、両脇に茂る野生のオリーブがいか にもエーゲ海地方という雰囲気を醸し出しています。
のどかなハイキング気分でゆるやかな坂を登っていくと、石棺が次々と現れます。山の北側は ネクロポリス(墓地)になっており、アルカイック期の前8世紀から後3世紀までのお墓が発 見されました。

やがて道の両脇は石積みの壁となり、北の公衆浴場跡が見えてきます。街で一番大きな2世紀 建造のローマ風呂ですが、まだ完全に発掘はされていません。
道の脇にある石の壁は「新しい門」に連なります。地震の後ティベリウスが再建したためこう 名付けられましたが、34年から35年に作られた歴史的な古い門です。この周辺に遺跡管理 のための柵や扉があり、「野生動物から遺跡を保護するため、出入口は閉めてください」と看 板が出ています。確かに足元を見ると、小動物の糞がたくさん落ちています。紀元前に栄えた 街は、現在野生の王国になっているようです。



議事堂



ストア



アゴラ



生鮮食品市場

議事堂は後期ヘレニズムの前2世紀建造。階段状の座席が半円形に12列並び、約150人が 収容できました。
ストアは前150年にできた一層の建物で、8メートル×65メートルという大きさです。こ れは用途を変えて12世紀から13世紀まで利用されていました。
その隣にあるのが同じころ造られた3層のアゴラで、高さ11メートル、幅82メートルとい う巨大な屋内市場です。近くに1世紀に建造された径8.5メートルの円型マーケット(マセ ルムmacellum)も残っています。こちらは肉や魚を扱っていた市場で、床の石材に石 灰モルタルを塗って防水加工を施してありました。にぎやかに物が売買されていた市場は街の 南東の端に当たり、この先はほとんど崖に近い斜面です。



ギムナシウムと浴場



斜面に建つ





道標にしたがってさらに進んでいくと、山の南西側に出ます。大きなギムナシウムとそれに付 属する公衆浴場がそびえています。ギムナシウムは青少年たちが心身を鍛えるための体育館や 運動場ですが、アイガイの青年のなかにはペルガモンに送られて教育を受ける者もいたそうで す。公衆浴場の冷浴室からは、ポセイドンが描かれたモザイク画が近年発見されました。
この総合施設は斜面に造られており、アイガイの遺跡のなかでもとくに重要なものとされてい ます。いずれも2世紀から3世紀の建造です。



劇場のあったあたり



神殿跡







その隣にある野外劇場は、残念ながらほとんど形をとどめていません。西側の斜面ぎりぎりに 建てられたせいか、建材が崩れてスロープの下に滑り落ちてしまったようです。ただし、ここ からの眺めは素晴らしいものでした。
この劇場は約6000人収容という大きさで、客席部は通常の劇場のように半円形ではなく、 扇形をしていたそうです。ペルガモンのアクロポリスにある野外劇場も、急勾配の斜面に扇形 に広がる客席部を持っています。
この斜面のはるか下にスタジアムがありますが、傾斜が急でとてもそこまで降りていくことは できませんでした。

劇場のすぐ裏は神殿です。詳細は不明ということですが、立地条件などがペルガモンのアテネ 神殿と似ているため、おそらくこれもアテネ神殿ではないかと考えられています。縦 11.40メートル、横19.35メートルという大きさは、ペルガモンのそれよりわずかに 小さいものでした。他に地母神デメテルやコレの神殿も同じ場所にあったということですが、 現在はいずれも基礎部分しか残っていません。
山の西側にかたまってある一連の建造物はペルガモンと密接な関係が見られるのが特徴的で す。

山を下って東5キロの川のほとりにはアポロンの聖域があり、高さ6メートルの神殿が前1世 紀に建造されたということです。また、アイガイの街は水源のない山に築かれたため、雨水を 利用した水道システムなども貴重なものとされています。



  フラグメント


 




遺構



遺跡の主?

ギュン山は標高376メートル。高さからすると丘と言ってもよさそうですが、途中から勾配 が急になってきます。スタート地点の古代の道に比べると頂上付近は足元が悪く、崩れた遺構 の建材などでやや歩きにくい箇所もあるため注意が必要です。
新しくきれいなパネルが至る所に完備されており、解説や地図もたいへんわかりやすくなって います。主要な遺構すべてにパネルがついているため、目の前の建物や瓦礫の山が何なのか悩 むことがなく、道に迷うということもありません。トルコにあるギリシア・ローマ遺跡の中 で、ここまでパネルがきちんと整っている遺跡はあまりないような気がします。

街を囲む城壁は1.5キロということでそれほど大きな遺跡ではありませんが、ヘレニズムの 美しい石積みの建物、アクロポリスからの眺めなどがとても印象的です。コンパクトで見応え があり、おすすめできる遺跡です。ただし、山道を登りながら見学するので意外と時間はかか りますが。
遺跡周辺に民家はありません。赤茶けた大地とオリーブの茂み、なだらかに起伏する山ばか り。遺跡の入口にチケットブースとお手洗いがあります。売店等はまったくないので、訪れる 際は飲料水その他の準備をお忘れなく。
ブースにいた係員は「この10年以上日本人が来たことはなかったかなあ」などと言っていま した。この時は日本人どころか他にまったく人がおらず、ゆっくり見学することができまし た。
(アイガイは行政区分上イズミール県ではなくマニサ県に属しますが、アイオリス同盟の都市 ということでキュメと並べて入れました。)〈2022.7.27.〉



 


メトロポリス



入口にあるヘレニズムの大理石像



パネル地図

無休・夏期9:00〜19:00、冬期8:00〜17:00
イズミールの南東45キロ、トルバルTorbalıの西のはずれにメトロポリスがありま す。大昔に「メトロポリス」というSF映画やそれをベースにしたアニメなどがありました が、こちらは古代都市の遺跡です。
メトロポリスというと通常は「大都市」の意味で使われます。これは、古代ギリシア世界でギ リシア人が最初に入植した中心的な都市を「母なる女神Mother Goddessの街」という意味でメトロポリスと呼んでいたことに由来します。そんなわけで同じ名前の都市は各地で見られ、前12世紀から前7世紀に栄え たフリュギアPhrygia王国にもメトロポリスがありました。

トルバルのメトロポリスは新石器時代から街があり、青銅器時代にはヒッタイトとの交流が あったと考えられ、ヒッタイトと似た象形文字が描かれた物が発見されています。また、前 14世紀から前12世紀のミケーネ地方の陶片なども残されていたということです。
スミュルナ(イズミール)とエフェソスを結ぶ交通の要衝と して発達し、良質のワインなども 産出されました。前3世紀から1世紀のペルガモン王国時代に文化、経済が栄え、現在残る遺 跡の多くはこの時代のものです。街はローマ時代に拡張されビザンツ時代まで機能していまし たが、15世紀オスマン時代に廃れてしまいました。



野外劇場





客席



貴賓席



杖のモティーフ



ツタと松かさ







階段の装飾





小高い丘の中腹にある遺跡です。たいへん立派な野外劇場があります。前2世紀中葉の建造で 4千人収容。典型的なヘレニズム建築で、自然のスロープを利用して造られたギリシア様式の 劇場です。ローマ時代に改修され、貴賓席は舞台の近くに移されました。
この貴賓席の椅子がユニークで、背もたれの裏にツタと松かさ、蜂、杖などの文様が彫刻され ています。これはその座席に座る貴賓の家柄を表しているそうです。ここに置いてあるものは いずれもレプリカで、オリジナルはイズミールの考古学博物館に収蔵されています。
ツタと松かさは演劇と酒の神ディオニュソスの標章です。蛇がからまり翼が生えた杖は商業や 旅行、発明の神ヘルメスが持つ「伝令の杖」で、ケリュケイオンと呼ばれます。医神アスクレ ピオスが持つカドゥケウスと似ていますが、そちらには翼はついていません。とはいえ、両者 は混同されることも多くあるようです。
2001年に観客席の下段までの部分が修復完了となりました。大理石の床板や階段脇にある ライオンの足の装飾も美しく整えられています。当時の豪華さがそのまま伝わってくるよう で、他ではちょっと見られない素晴らしさです。



モザイクホール



ディオニュソス



さまざまな場面



議事堂



アクロポリスへ向かう道



城壁



劇場に隣接するのはモザイクホールです。ローマ時代のもので、ディオニュソスとその妻アリ アドネを中心に神話的な場面が描かれています。ここは個人の邸宅ではなく、劇場のレセプ ションホールのような場所だったと考えられています。杯を持つキューピッドや魚、鳥などの モティーフもあることからバンケットホールの役割があったとされ、裏手から台所や食料貯蔵 庫、飲食物を入れる壺などが発掘されました。飲食歌舞音曲を楽しむのは古代人も現代人も変 わりありません。

アクロポリスに向かう途中に議事堂があります。劇場と同じころのもので、約400席があり ました。馬蹄形に並ぶ座席は、さらに古い時代の劇場を改造して造られた名残だということで す。
その隣には13世紀のビザンツ時代に造られた城壁がアクロポリスまで続きます。



発掘現場



赤い木の実



たわわに実る柑橘類

遺跡はトルバルの中心からはずれており、周囲は畑ばかりの牧歌的な風景が広がります。ゆる やかな斜面にある敷地全体はだいぶ広いものですが、かなりの部分が発掘調査中で立ち入るこ とができませんでした。上記の他にはストア、公衆浴場、ギムナシウム、ビザンツ教会などが あるということです。
近年の調査では、前2世紀から前1世紀の高さ140センチという大型の女性大理石像が新た に発見されました。今後モザイクの清掃修復、貯水施設や教会などの発掘プロジェクトが進め られていく予定です。数年後に訪れたら見違えるようになっているかもしれません。
アクロポリスに至る途中までは階段などが整備されて歩きやすくなっていますが、何しろまだ 大がかりな発掘途中ということで、時折足元が悪いところもあります。パネルは随所にあり、 図や解説は丁寧でわかりやすいものです。お手洗いの他に売店などはありませんでした。



トルバルの中心部



商店街



西瓜とメロンだけを売る店



肉屋に下がる牛肉ソーセージ



おもちゃ屋



公園のカフェ

古代のメトロポリスがそうであったように、現在のトルバルもイズミールからエフェソスへ向 かう幹線沿いに発達した街で、鉄道も走っています。人口は201,476人(2021 年)、最近は少しずつ増えているようです。観光地ではないごく普通のおだやかな雰囲気、明 るい陽射しと木々の緑が好ましく感じられる街でした。〈2022.8.29.〉






クラロス

無休・夏期8:00〜18:30、冬期8:30〜17:30
クラロスの遺跡はイズミールのほぼ真南約30キロ、小高い山に囲まれた平地にあります。こ こは13キロほど北にあったコロフォンの街に属する聖域で、古くから アポロンの神託所とし て宗教的に大きな役割を担っていました。
コロフォンはイオニア同盟12都市のひとつですが、この同盟は政治的な同盟というよりも宗 教的な性格が強い同盟です。この場所に聖域があるというのも、イオニア同盟が大きく関係し ているのでしょう。アポロンの神託所といえばギリシアのデルフォイにある神殿が有名です が、小アジアのディディマにはそれより大きな神殿がありまし た。
クラロスでは前1000年ごろの構造物が発見されていますが、聖域そのものの起源は神話の 色が濃く、はっきりしたことはわかっていません。発掘調査によると、前9世紀ごろから泉の 近くに聖域があったと考えられています。
後2世紀から3世紀ごろもっともにぎわい、4世紀ごろまで参拝者が多かったということで す。



「聖なる道」



参道のクーロス

ここから約2キロ南のノティオンの港まで、幅4.07mの道「聖な る道」が続いていまし た。前6世紀の道です。後に道幅は4.20mに広げられ、参道には奉納神像のクーロスやコ レが並んでいました。4体のクーロスが出土され、現在はそのレプリカが置かれています。



アポロン神殿



神殿の地下構造も見られたはず



完全水没



パネルの神殿図

前3世紀に建造が始まったアポロンの神殿は、イオニア地方の神殿では唯一ドリス式の柱が使 われていました。神殿最奥部に至聖所が2つあるのも特徴的です。手前の至聖所は神官や書 記、請願者の控室、その奥の至聖所には聖泉があり、神託が行われるエリアにはここからしか 出入りできませんでした。至聖所と神託所は青い大理石でできた通路で結ばれていたというこ とです。
この大理石はプロコネソス島Proconnesos産のもので、ヘレニズム後期にこの地方 に50トンの大理石を運んでいた貨物船が沈没したということが明らかになっています。プロ コネソス島は現在のイスタンブルに面したマルマラ海南西寄りにある島で、この島の大理石は アヤソフィアや大英博物館にも使われています。



生い茂る葦の向こうに祭壇

神殿の27メートル東に9m×18mのヘレニズム期の祭壇がありました。祭壇からの発掘物 には供犠のテーブルが2つあり、一方はアポロン、もう一方はディオニュソスのためのものと 考えられています。また、供犠にされる動物をつなぐブロックが神殿と祭壇の間にあり、こう したものが発見されたのはクラロスだけということでした。



巨大神像



前2世紀にはアポロンの双子の妹アルテミスと母親レトの神殿も建てられ、聖域内には7m以 上の神像が3体ありました。現在そのレプリカ像が建っています。近くで見るとかなりの迫力 です。大きく破損していますが中央に座しているのがアポロン、向かって左が衣装の様子から アルテミス、右がレトだと思われます。



宿泊施設



水没ホテル



水没遺構

クラロスは宗教儀礼のための神聖な場所でした。人々が生活する街とは異なり、アゴラや議事 堂、住居などはありません。とはいえ、遠方からやって来る参拝者のための宿泊施設はあった ようで、現在のホテルのような居室や台所、浴室などが備わっていました。

この遺跡は20世紀初頭に発見され、現在も発掘調査が続いています。神殿や祭壇を見ると、 他にはあまり例がない独自な様式を持っている聖域だったことがわかります。アポロン信仰の 中心地としてのクラロスの重要性を表しているように思われます。
同じエーゲ海地方のラギーナやギリシア北西部のドドニといった他の聖域に も通じることです が、祭祀のためだけにあった聖域には一種独特の空気が漂っているように感じます。市場や公 衆浴場といった生活感に満ち満ちた建造物の遺構がないせいかもしれません。そういう意味で も深く印象に残る遺跡です。



イオニア式



フラグメント



まだ青い無花果

夏はほとんど雨の降らないエーゲ海地方ですが、何故か大部分の遺構が水没しています。神殿 も祭壇も宿泊所も。数日前に雨でも降ったのでしょうか。あるいは地下水などが染み出てきた のかもしれません。
そもそもアポロン神殿は水に関わる場所に建てられることが多いものです。ここも神殿内部に 泉があったくらいですから、水が集まりやすい地形なのでしょう。神殿には迷路のような地下 構造がよく保存されているということでしたが、これでは何もわからずちょっと残念でした。

敷地はそれほど広くなく、水浸しの場所を除けば歩きやすく整備されています。解説パネルも 写真入りで、発掘当時の様子などがわかるようになっています。ミュージアムショップとカ フェもありました。いずれも新しくきれいで、ショップでは関連書籍やちょっとしたお土産も 扱っています。遺跡周辺には何もないので、見学後にお茶を飲んで休憩できるのはありがたい ことでした。〈2022.12.04.〉



コロフォンKolophonとノティオンNotion



コロフォンのパネル



敷地内





向こうに見えるエーゲ海



野山の花







ノティオンの地図



ノティオン







美しいビーチ

コロフォン、ノティオン:無休、見学自由
ク ラロスをアポロンの聖域としていたコロフォン(コロポン)は、クラロスの北約 13キロの 場所にあります。ここはイオニア同盟12都市のうち最強の都市とされ、優れた騎兵隊と贅沢 な生活で有名でした。前1000年ごろから街があり、前8世紀から前7世紀に商業都市とし て繁栄を極めます。金権政治が行われていたそうです。前665年リュディアのギュゲスが征 服、後にペルシアやアテナイの支配下となり、前306年ディアコドイのリュシマコスに破壊 されました。以降都市としての重要性はエフェソスミ レトスへと移っていきます。
前6世紀の哲学者クセノファネス(クセノパネス)が生まれ、前3世紀の哲学者エピクロスが 住んでいたのもこの街でした。

小高い山のふもとにかなり劣化したパネルを見つけ、喜び勇んで山を登って行ったのですが、 道らしい道もなく林のなかをさまようばかり。めぼしい遺構も見当たりません。いったい何と したことでしょうか。山の中腹の開けた場所から彼方にエーゲ海が見えるばかりでした。

一方、コロフォンからクラロスを経て、南に15キロほど下ったエーゲ海沿いにあるのがノ ティオンです。ここは本来コロフォンの外港として栄えた場所でしたが、コロフォンが廃れた 後しばらくはこちらがコロフォンと呼ばれていました。しかし前1世紀までにその名前も消え てしまったということです。
こうしてみると、コロフォンの街やノティオンの港が滅びてしまっても、クラロスの聖域だけ は生き続けたということになります。当時の人々の信仰の力がそうさせたのかもしれません。

ゆるやかな小さな入り江の脇にノティオンがあります。入り江の東側にある丘一帯に遺構の形 跡が認められ、そのふもとにパネルが建ってました。丘は茫漠とした雰囲気で、手前にボート の浮かんだ小川があって渡ることができません。遺跡というよりも絶好の海水浴場と釣りのス ポットという印象です。近在の人々でしょうか、ビーチでのんびり過ごす姿も見られます。静 かな海と空がきらめいていました。〈2022.12.04.〉



 


クラゾメナイ



遺跡入口周辺

無休・夏期8:30〜19:00、冬期8:30〜17:30
クラゾメナイはイズミールから海岸沿いに南西39キロほどのところにある古代都市です。現 在のウルラUrla港近くにあり、付近では前4000年ごろから人が住んでいた痕跡がある そうです。イオニア人が街を興したと伝えられ、イオニア同盟12都市のひとつとして前6世 紀に栄えました。
その後前5世紀にアテナイ、前4世紀にアケメネス朝ペルシアの支配下に置かれ、後にローマ 帝国の属州となります。
伝説によると、この街の主神アポロンは毎冬白鳥が引く車に乗り、極北にあるとされる理想郷 ヒュペルボレイオイからここを訪れていたということです。実際にクラゾメナイは白鳥の飛来 地でもありました。
イオニア学派の系譜を引く自然哲学者アナクサゴラス(前500ごろ〜前428年)はこの街 の出身です。前480年にアテナイに移り、イオニアからアテナイへ最初に哲学を持ち込んだ 人物と伝えられます。



オリーブオイル製造所



石臼



オイルと灰汁を分別するタンク



人力作業



アンフォラ



二層建

この街はオリーブオイルと陶器の製造輸出が盛んでした。前6世紀のオリーブオイル製造所が 発見されており、これはギリシア本土より2世紀も早いもので、地中海世界で最古のものとみ なされています。2005年に1階と地下階のある工場が敷地内に再現され、当時どのように してオリーブオイルを作っていたかがわかるようになっています。石臼でオリーブの実を絞 り、油分が水に浮く性質を利用してオイルと灰汁を分別していました。



陶器の窯跡



出土品の石棺

また、オイルなどの液体の保存や輸送に必要な陶製の容器アンフォラ、美しく装飾された石棺 や陶棺もこの街の特産品でした。クラゾメナイ産のアンフォラは地中海世界各地でも発見され ていることから、広い地域と交易があったことがわかります。この街は貨幣を発行しており、 活発な経済活動が行われていました。



季節の花々





遺跡は海に近いせいか平坦でだだっ広く、閑散としています。敷地内の歩道はロープが張って あり、歩きやすくなっています。アルカイク期の建造物などがあると聞いていましたが、オ リーブオイル製造所と陶器の窯の遺構しか見えません。パネルの解説によると、前2200年 頃の防御壁や前11世紀の墓所、前4世紀の住宅などが発見されています。
ペルシアの襲来当時、人々は本土から向かいの島に避難し、そちらの方に劇場や住居、アクロ ポリスなどが残されているようでした。いずれにせよ、今後見学可能な遺構としての整備が期 待されます。エントランス周辺に咲き乱れる花の鮮やかさは見事なものでした。 〈2023.6.27.〉



  エフェソス遺跡  Efes Harabesi


エフェソス遺跡

街全体が遺跡として 残されているのがよくわか ります(※)

ケルスス図書館

2世紀頃建てら れたケルスス図書館(※)

野外劇場

野外劇場。 1〜2世紀頃(※)

古代の公衆お手洗い

古代の公衆お手 洗い。腰かけているのはガイド のフズリさん

パムッカレのヒエラポリスにくらべると、建物が建物らしい状態で残されているため、当時の 街の様子を容易に思い起こすことができます。観光客も多く、にぎ やかなところに来た感じです。目抜き通りには神殿や高級住宅、公共のお手洗い、浴場、娼館 などがひしめいています。〈2009.7.26.〉







  アルテミス(※)



  メナンドロス(※)

無休・夏期8:00〜19:00・冬期8:00〜17:00
エフェソスは、アポロンと双子の女神アルテミスArtemisを祀った街でもありました。 街中にあるア ルテミス神殿は広大なものだったそうですが、今 では ごろごろと崩れた石材が転がる空き地に、円柱が一本残っているばかりです。考古学博物館に は特異な姿をしたアルテミスの像が展示されています。
この女神はアナトリアの地母神キュベレと習合した女神と考えられています。確かにここのア ルテミス像を見ると、ギリシア神話の女神とはだいぶ違った印象を 受けます。胸の周りにたくさんついている房状のものは、豊穣、多産を意味する乳房や牛の睾 丸を表すといわれていましたが、現在の考古学の世界では女神がま とう衣服の装飾とみなすのが一般的なのだそうです。
もう一体ある小さいアルテミス像には、胸元に黄道十二宮のシンボルが彫られていました。か つてこの地にさまざまな宗教、文化が混在していた様子がうかがわ れます。



  ガラス製品(※)



  (※)



  壁の装飾(※)

メナンドロスMenandros (BC342-292/291)はアテナイの喜劇作家。ちょうどヘレニズム時代の人物です が、この像は4世紀のものです。当時のアテナイでは、ディオニュ ソスの大きなお祭が定期的におこなわれていました。お祭ではさまざまな出し物があり、演劇 のコンペティションなども催されていましたが、メナンドロスはそ こで数々の賞を獲得しています。
他にも信じられないくらいよい状態で保存されているガラス製品や巨大な石像、小さなキュー ピッドの像など、非常に充実した博物館です。中庭には出土品が無 造作に置かれていてびっくりします。もっともこういうワイルドな展示の仕方は、トルコの他 の博物館でも多く見られます。発掘物がたくさんありすぎて、館内 に全部収まりきれないのかもしれません。何ともぜいたくなことですね。 〈2010.7.26.〉



  ヒエラポリス  Hierapolis 


霞たなびく石灰棚

霞たなびく石灰棚 (※)

自然が生み出した石灰棚と、広大な古代都市遺跡が隣接するパムッカレ。
かつてはかなりの範囲に渡って石灰棚のなかを歩けましたが、現在は保存のため立ち入り可能 なところは限られています。温泉がひたひたと流れている印象です が、わたしたちが歩いたところはところどころ乾いていました。流すお湯の量を調節している そうです。温泉は思ったより冷たいし、おまけに石灰の石畳のうえ を裸足で歩くと相当痛い。足裏刺激効果満点でした。

野外劇場

 野外劇場。彼方に 光っているのは石灰棚 (※)

糸杉の並木道
 
糸杉の並木道(※)

ネクロポリス
 
ネクロポリス(※)

ヒエラポリスは「神 聖な都市」の意。1世紀から2 世紀頃の街が残されています。
街全体の規模もさることながら、街の外の北西に広がるネクロポリス( Necropolis 死の街)が圧巻。ここはアナトリア最大規模の墓地遺跡です。さまざまな様式の墓標 が並んでいます。夕闇迫るころ、誰もいないお墓の間を歩いていると、その へんからひょいと何かが現れてきそうな雰囲気でした。〈2009.7.26.〉



 


ヒエラポリ ス入口(※)



  大浴場跡(※)

月曜休館・夏期8:00〜19:00・冬期8:00〜17:00
石灰棚を抜けて遺跡が沈んでいる温泉プールに行く途中に、ヒエラポリス考古学博物 館があります。
この博物館は、ローマ時代の大浴場を修復して1984年にオープンしました。ヒエ ラポリスやラオディケイアLaodiceia(現・デニズリ南西にあるエ スキヒサルEskihisar)などの出土品が展示されています。



レリーフが 美しい石棺(※)



トルソ(※)



  トリトン像(※)

こじんまりとした博物館ですが、とても状態のいい石棺や大理石像といったヘビー級 のものから、装飾品、ガラス製品、コインなどの小さなものまで、貴重なコ レクションが並んでいます。大理石像はおもにローマ時代のもの、小さな展示品は青 銅器時代からヘレニズム、ローマ、ビザンチンを経てオスマン時代のものま で。
これだけの長い時間をかけてこの地の文化がさまざまに変転していったことを思う と、いつもある種の感動を覚えます。おまけにそれがローマ時代の建造物のな かに展示されていて、しかも一歩外に出れば自然の作り上げた景観と古代都市遺跡が 広がっているのです。博物館としてこれ以上ないくらい絶好のロケーション ですね。
トリトンはギリシア神話の海の神さまポセイドンの息子。上半身は人間、下半身は魚 という姿で表現されるのが一般的です。いってみれば人魚みたいなもので しょうか。とはいえ、筋骨隆々の肉体に魚というよりも海蛇みたいな尻尾がくっつい ていて、おまけにそれがうねうねとうねっているという、なんとも迫力のあ る姿をしています。ヨーロッパの街角にある噴水の装飾でもよく見かける姿です。た いてい頬を大きくふくらませて法螺貝を吹いていたりしますが、このトリト ンはいったいどんな顔だったのかなあ、と何だか気になってしまいました。 〈2010.7.26.〉



  アイドゥン Aydın







大通り







路地の商店 街



コーヒーの 粉を売る店

アイドゥンはエフェソスか らパムッカレに 向かって車で1時間足らずのところにある街で、トルコ語で「明るい、賢い」という 意味の通り、さんさんと日が降り 注ぐ明るい街です。この街を県都とするアイドゥン県は、エーゲ海沿岸のリゾート地 クシャダスから東はパムッカレの少し手前あたりまで、暴れ川として有名な メアンドロス川(大メンデレス川)に沿った肥沃な地域に広がっています。県全体の 人口は約104万人、県都は約27万人(いずれも2014年)。

典型的な地中海性気候で、夏は乾燥して気温が高く、冬は温暖です。いたるところに オリーブやいちじくの樹が茂っています。アイドゥン出身の知人の家にはオ リーブオイルの圧搾機があり、彼のお祖父さんは自宅で作ったオイルしか口にしな かったという話を聞きました。この地方は良質のオリーブオイルやいちじくの 一大産地で、「スミュルナ(イズミール)のいちじく」と称して世界各地に輸出され る高級ドライいちじくは、実はここアイドゥン産のものだそうです。
古来より東西交易の盛んな土地で、イランやシリアといった東方からの物品がここに 集まり、この地方で採れた穀物などとともに、当時エーゲ海に面していたミ レトスの港からギリシアやエジプトに運ばれました。このあたりには紀元前7000 年ごろから人が住んでいたとされ、実際にアイドゥン県にはエフェソスを始 めとしてミレトス、プリエネ、ディディマといった名だたる遺跡がひしめいていま す。

県都のアイドゥンはとくに観光地というわけではなく、ガイドブックにもあまり取り あげられていません。しかし街の北側に、カリアやリュディアに属していた 古代都市トラレスの広大な遺跡があります。現在は鉄道の駅を中心に北側が旧市街、 南側が新市街、西側はさらに新しく開発された地域といった感じでしょう か。駅が街の中心にあるので、鉄道で移動する際も便利です。
街の大通りは、南国特有の開放的な雰囲気にあふれています。2015年6月に訪れ ましたが、日射しが強烈で日中の暑さは30℃を優に超えていました。



キュルリエ



商館



ジャーミー



古い水飲み 場



霊廟



ハマム?





趣のある廃 屋



現役民家



資料館



展示室

旧市街には多くの歴史的建造物があります。ナスフ・パシャ・キュルリエ Nasuh Paşa Külliyesi は1708年建設、2007年に改修されました。キュルリエとはジャーミーに附属 する神学校、ハマム、商館などの総合施設のことです。二階建ての木造校舎 が、中庭中央にある水場をぐるりと取り囲むように建っています。木造建築が日本の 昔の小学校を彷彿とさせます。キュルリエの一部であるジンジルリ・ハン Zincirli Han (商館)は修復中でしたが、2015年の9月に工事が終了したということです。
ジハンオール・ジャーミーCihanoğlu camii は1756年建立、2004年に修復されました。近くにはもう使われていない水飲 み場(チェシメ)や、14世紀に建てられたままのアリハン・ババ・イスマ イル廟Alihan Baba İsmail Türbesi、屋根にぺんぺん草が生えているハマム跡なども。
歴史を感じさせる民家も見かけます。建築様式や色合いに、他ではあまりない独自な ものを感じます。アイドゥン市の商工会議所が運営する歴史文化資料館( カフヴェジ・ビラール・アー・コナウKahveci Bilal Ağa Konağı )は、1924年から1930年の間にハンガリー人によって建てられた家を改修し て、2007年に開館したものです。トルコの資料館というとオスマン時代 の展示物が圧倒的に多いのですが、ここでは共和国以降1950年代までのモダンな ドレスなどが展示されていました。



アーケード のある商店街





八百屋いろ いろ



ハーブや天 然石鹸を扱う伝統的な薬局



フローズン ドリンク



ラフマジュ ン(薄焼きピザ)



ラフマジュ ン調理人

街の中心部にはいろいろなお店がひしめいています。物価はイスタンブールより2、 3割ほど安いようで、とりわけ野菜や果物は新鮮でバカ安。ちょうどラマザ ンの最中だったこともあり、暑い日中は人出もまばらですが、夕方涼しくなってくる とにわかに活気づき、夜遅くまで人通りが絶えません。大学がある街のせい か、メインの通りでは若い人たちのライブパフォーマンスもあり、夜更けまでにぎや かです。
街の人々は気さくで、あちこちで話しかけられます。イスタンブールのように外国人 と見ると物を売りつけようとすることもなく、単に東洋人の旅行者がめずら しいから声をかけてくるようです。オープンで住みやすそうな印象を受けます。いわ ゆる「観光地」ではない普通の街の良さでしょうか。



さまざまな 塩や穀物



仔羊串焼き



市のゴミ箱



モダンな駅 舎



陸橋から眺 めたホーム



列車



運転席の風 景

繁華街には、特産のオリーブといちじく、そしてこの地方に伝わる民族舞踊のモ ティーフが描かれたゴミ箱が置いてあります。写真を撮っていると、地元の人か ら「こんなものが面白いんですか」などと言われてしまいました。
駅舎は比較的新しくできたようで、なかなかモダンなデザインです。これはイズミー ル、イズミールの空港、エフェソス、デニズリを結ぶ路線で、観光にも便利 です。空港からアイドゥンまで1時間半程度。とはいえトルコの鉄道は大幅に遅れる ことが多く、わたしが乗ったときは2時間半もかかりました。
車両はエアコンが効いていて快適、車両内に大型の液晶画面が据え付けられ、自然を テーマにした番組や大人が見てもくすっと笑えるショートアニメなど、独自 のプログラムが放映されています。運転席と客席を隔てるドアがなく(あったのかも しれませんが解放状態)、運転中の様子がそのまま見えるのには驚きまし た。しかし、車掌が客席の下にあるコンセントを使って電気ポットでお湯を沸かし、 お茶を飲み始めたのにはもっとびっくりしちゃったのでした。 〈2015.10.29.〉



  トラレスTralles;Tralleis



ギムナジウ ム









公衆お手洗 い



釜戸や水道 管が残る飲食店

トラレスはアイドゥン市の北部、メソギス山(現ケスターネ・ダーウ Kestane Dağı )中腹にある遺跡です。トラレスという名前は、古代ギリシア時代のトラキア人がこ の地に街を興したことに因むという説や、ここを占領したアマゾネスの名前 から採られたという説もあります。
この街はヘレニズム時代に繁栄を極め、セレウキア(セレウコス朝時代)、アントニ ア(ペルガモン王国時代)と名前を変えてきました。前26年の地震で街は 崩壊しましたが、ローマのアウグストゥスが再建したことからカエサレアと呼ばれる ようになります。ローマ、ビザンティン時代を経て、13世紀末にセルジュ クトルコに支配されます。しかしその後の地震で街は修復できないほど被害を受けた ため、人々はここを離れて山の南側の斜面に移住しました。新しい街は14 世紀にアイドゥン候国の領土となり、15世紀オスマントルコの支配下に置かれま す。現在のアイドゥンという名前は候国の名前に由来するものです。



コリント様 式の柱頭



武器庫



南に広がる アイドゥンの街





遺跡に咲く 花

発掘された遺跡はヘレニズム時代以降のもので、ローマ時代のギムナジウム、公衆浴 場、アゴラ、住宅などが見られます。かなり規模は大きく、エフェソス簡略 版という感じです。ギムナジウム近くに巨大な公衆お手洗いがありました。何と一度 に65人が用を足せたそうで、この大きさはエフェソスの比ではありませ ん。アナトリアにあるローマ遺跡のなかで最も広い部類に入るということです。少し 離れた場所には、野外劇場や競技場もあるようでした。
また、ここでは1882年に「セイキロスSeikilosの墓碑銘」が発見されま した。アイドゥン・イズミール間の鉄道建設時のことです。これは世界最古 の楽譜が刻まれた墓碑で、前2世紀から後1世紀の間にセイキロスが妻エウテルペの ために建てたと考えられています。
楽譜といっても歌詞に旋律を表す記号が刻まれたもので、「おたまじゃくし」がある 現在の楽譜とはだいぶ様子が違います。「生きている間は輝いて/けっして 嘆き悲しまないで/人生は短く/そして時は終わりを求める」といった歌詞に、古代 ギリシアのフリギア旋法によるメロディがついています。この墓碑はさまざ まな経緯を経て現在コペンハーゲンの国立博物館が所蔵しており、トルコはデンマー クに返還を要請しているということでした。
イスタンブールにあるア ヤソフィアの設計に携わった数学者・ 建築家のアンテミオス Anthemius (474年-534年)や、前1世紀ごろに活躍した彫刻家アポロニオス Apollonios などもトラレスの出身です。アポロニオスは、ナポリ国立考古学博物館にあるローマ 時代の模作「ファルネーゼの雄牛」の原作者と伝えられています。 〈2015.11.29.〉






博物館入口



館内の様子



アイドゥン 県にある遺跡の地図



ニュサ出土



トラレスの エロス像

月曜日休館・9:00〜17:00
アイドゥン考古学博物館は1959年にコミュニティセンターの一部として開設さ れ、独立した博物館となったのが1973年、その後2012年に現在の場所 に移転しました。以前は駅の近くにあったようですが、今は駅から3キロほど東に 行った街はずれにあります。
新しいだけあって、実に立派な博物館です。何よりも質の高い収蔵品の素晴らしさに 圧倒されます。それもそのはず、アイドゥン県にはトラレスを始めマグネシ ア、ニュサ、アラバンダといった古代ギリシア・ローマ遺跡がひしめいており、ここ にはそれらの出土品が集まっているからです。遺跡略図を見ると、大メンデ レス川(マイアンドロス)やチネ川など、川沿いに多くの古代都市があったことがわ かります。
照明は全体にやや暗めですが展示品が美しく見えるように計算されていて、それぞれ の解説も丁寧で申し分ありません。玄関には世界最古の楽譜とされる「セイキロスの墓碑銘」にある歌詞 が掲げられています。



彩色テラ コッタ



トラレスの ガラス製香油瓶



アラバンダ 出土の装飾品





甕の注ぎ口

館内は8つの地域別エリアの他、彫像、コインの部に分かれています。館内中央には オルトシア出土の巨大なモザイクの床が広がり、橋を渡して上から見られる ような工夫もされていました。トラレスのネクロポリスから出土されたテラコッタ像 はヘレニズム時代のもので、トルコ国内でも最高の状態にあるそうです。ニ ケ像や空をひらひらと飛び回るようなエロス像には、きれいな色が残っています。
アラバンダのベルトと髪留めは、それぞれヘレニズム時代とローマ時代のもの。柔ら かな光を放つ黄金が魅力的です。



子供とイル カ像



マグネシア 出土のサテュロス像



パンイオニ オンの出土品



パンイオニ オン



博物館中庭

ギリシア神話に登場するサテュロスはディオニュソスの眷属で、森に住む精霊といわ れています。半人半獣の姿で描かれることが多いのですが、マグネシアのも のはほぼ人間の姿のようです。奇妙な笑い顔が印象的。
パンイオニオンは都市というよ りも、前7世紀ごろイオニア同盟に 加盟する12の都市が共同で設けた聖域です。加盟国はここに海の神ポセイドン・ヘ リコニオ スを祀り、「全イオニア祭(パンイオニア)」を執り行っていました。別の時にその 近くを通ったので寄ってみましたが、松林のなかに劇場とおぼしき遺構がわ ずかに残っているだけでした。〈2016.1.13.〉



  ニュサNysa





広々とした アゴラ



野外劇場



劇場遠景



劇場のレ リーフ

アイドゥン市から東へ30キロほど行った山のなかに、カリアの古代都市ニュサがあ ります。ちょうどスルタンヒサールSultanhisar という町の北側です。ニュサはヘレニズム時代の紀元前3世紀ごろ興った都市で、交 通の要所であったことからローマ、ビザンティン時代にかけて非常に繁栄し ました。とりわけここは文化教育が盛んな街で、地理学・歴史学者のストラボン Strabo(前63年ごろ〜後23年ごろ)は黒海地方にある故郷のアマスヤ からこの地に移って教育を受けたということです。
この遺跡の特徴は何といってもその立地でしょう。普通は山の中腹や頂上など見晴ら しの利く場所に街を築きますが、ここは急な渓谷の両岸にわたって街が拓か れています。水害に対処するための治水システムも発達していました。
遺跡は広い範囲で両岸に点在しており、全体としてはかなりの規模になります。現在 も発掘が進められているので、まだまだ新しい発見が期待されるところで す。

約8800席を持つ野外劇場は保存状態がとてもよく、舞台奥の壁にディオニュソス の一生を描いたレリーフが彫られています。ただしこれはレプリカで、オリ ジナルはアイドゥン考古学博物館に 保管されているということです。
ディオニュソスはゼウスの腿から生まれた後、密かに「ニュサ」で育てられたという 神話があるように、この地はディオニュソスと深いつながりがあると考えら れてきました。ディオニュソスという名前には「ニュサの神」という意味もあるそう です。「ニュサ」と呼ばれる場所は古代ギリシア世界にいくつかあり、本当 の「ニュサ」がどこだったのか諸説ありますが、ここもそのうちのひとつとして「マ イアンドロス(メンデレス)川のニュサNysa on the Maeander 」と呼ばれています。







さまざまな 遺構



約700席 ある議事堂



トンネル



3万人収容 可能な競技場と橋



2世紀に建 てられた図書館



ギムナジウ ム

劇場の右脇を舗道からそれて下っていくとトンネルがあり、通り抜けられるように なっていました。ローマ時代の橋も3つ残っており、治水に関する建造物が充 実していたことがわかります。競技場は渓谷の両岸にまたがるようにして作られてい て、実にユニーク。斜面を利用した観客席の一部を見ることができます。
劇場から左手の丘を登っていくと図書館があります。付近では広い石畳の道路も発掘 中で、エフェソスの ようにこの図書館も街の中心にあったようです。図書館 がある遺跡は意外と少なく、トルコではエフェソスのケルスス図書館の次に保存状態 の良いものだとされています。
劇場、競技場、図書館、ギムナジウム、複数の公衆浴場とそろっていて、たいへん充 実した遺跡です。この街が文化的なことがらや教育に熱心だったということ もおおいにうなずけるのでした。

これほどの遺跡ですが、周囲には民家も何もありません。松やオリーブの茂みばかり です。規模の大きい遺跡にはカフェや売店などが併設されているものです が、それもまったくなし。かろうじてお手洗いだけはありました。夏場に見学する際 は日射しが強く気温も高くなるので、くれぐれも帽子、サングラス、水、栄 養補給できるものをお忘れなく。〈2016.2.6.〉



  アフロディシアス  Afrodisyas (Aphrodisias)





テトラピロ ン



アフロ ディーテの神殿



野外劇場



イオニア様 式



北のアゴラ



南のアゴラ

無休・夏期8:00-19:00・冬期8:00-17:00
アフロディシアスの遺跡は、ニュサのあ るスルタンヒサールからさらに幹線を東へ40キロほど行き、そこから南へ 25キロ入ったあたりにあります。石灰棚で有名なパムッカレにかなり近いとこ ろです。ここはとても 大きな遺跡で、主要な遺構が2キロ四方にまとまっています。街としては前6世紀ご ろからあったと考えられていますが、現在見られる遺構はそれより後のもの です。
アフロディシアスという名前の通り、この地では美と性愛の女神アフロディーテの信 仰が盛んでした。街の入口にはアフロディーテ神殿へと続く門、テトラピロ ンがそびえ立ち、宗教的な儀礼に使われたとされています。建造は2世紀ごろで、現 在の形に修復されたのは1991年のことでした。
神殿は前1世紀に建立され、後2世紀に拡大、5世紀から12世紀にセルジュクトル コに支配されるまでは教会として使われてました。前1世紀に造られた野外 劇場は1万人収容という堂々たるもので、非常によい保存状態です。街の中心部には 北と南に分かれた広大なアゴラが横たわっています。この街は最大時で人口 1万5千人だったと考えられており、活気ある当時の様子がしのばれます。残念なが らこの時は発掘調査中で、アゴラ内部に立ち入ることはできませんでした。



議事堂



ハドリアヌ スの浴場





フラグメン ト



競技場



セバステイ オン



移動バス?

2世紀建造の議事堂や広々としたローマ風呂も、いい状態で残されています。スタジ アムは楕円形のトラックと、それをぐるりと取り囲む30列の観客席がはっ きりと見られます。約3万人収容、トラックは225m×30mという規模です。こ こはギリシアのデルフォイにある競技場よりも大きく、地中海世界ではもっ とも保存状態がよいもののひとつとされています。
セバステイオンは神格化されたローマ皇帝を祀るための一種の神殿で、それに連なる 庭とともに聖域とされていました。かつては廃墟でしたが、1970年代の 調査で周辺から膨大な数のレリーフが発掘され、現在の形に修復されました。三層に なった建物の外壁には190もの大理石のレリーフが刻まれていたというこ とです。いずれもギリシア神話や皇帝の偉業を表したもので、オリジナルは敷地内の アフロディシアス考古学博物館に展示されています。

国道沿いの駐車場から遺跡入口の切符売り場まではやや距離があり、トラクターに馬 車の荷台をつけたような牧歌的な車で移動することもできます。周囲に民家 はありませんが、駐車場付近にカフェや食堂、土産物店が。遺跡の敷地内にもカフェ やミュージアムショップ、ギャラリーなどがあり、休憩できるようになって います。時間をかけてゆっくり見学したい遺跡のひとつです。暑い時期に訪れたの で、見終わった後にカフェで味わったフラッペも最高でした。 〈2016.6.1.〉






アフロディ シアス博物館



セバステイ オン・ホール



ネロと母親 のアグリッピナ



三美神



アフロ ディーテ







完成度の高 い彫像群

無休・夏期8:00〜19:00・冬期8:00〜17:00
アフロディシアス遺跡の敷地内にある博物館です。1979年開館。この博物館の収 蔵品はすべてこの遺跡で発掘されたもので、だいたい前1世紀から後5世紀 ごろまでのものが中心となっています。膨大な数のレリーフや彫像が一堂に並んでい る様子は圧倒的です。街の遺跡と出土品をほぼ同時に見られるので、どの場 所にどんな彫刻が置かれていたのかがよくわかり、当時の街の情景を生き生きと感じ とることができます。
アフロディシアスは優れた彫刻家を輩出したことで有名で、一連の作品は「アフロ ディシアス派」と呼ばれ後世に大きな影響を与えたといわれています。街のす ぐ近くで、彫刻の材料となる良質の大理石が潤沢に採れたことが関係しているのかも しれません。

館内は歴代皇帝の像を集めたホールや、悲劇を司る女神メルポメネ・ホール、アキレ スとペンテシレイアのホールなど、ギリシア神話の神々の名を冠したセク ションに分かれています。セバステイオンの外壁を飾ったレリーフを一気に展示した ホールが圧巻です。
街の由来となったアフロディーテの彫像は、アフロディーテ・ホールに置かれていま す。後2世紀のもので、議事堂に安置されていたということです。しかしこ れは、わたしたちが普通思い浮かべる「美と愛の女神」とはまるで違う姿をしていま す。もっと古色というか、どちらかというとエフェソスのアルテミ スに似ているようです。この地方ではアフロディーテやアルテミスは地母神と 結びつけて考えられていたそうで、古代の神々がさまざまに混淆している様子がうか がえます。胸のあたりに見えるのは、アフロディーテに仕える三人の美神 (喜び・優美・無垢)が踊る姿です。



二面の胸像



ソクラテス



クセノフォ ン





中庭

興味深い彫像がありました。ひとつの彫像に2つの顔がついています。片方はソクラ テス(前469-399)で、もう一方はソクラテスの弟子のクセノフォン (前427ごろ-355ごろ)というものです。先生と弟子をひとつの像で表現する という発想がなかなかユニーク。
展示品はどれも保存状態が素晴らしく、見応えがあります。どのセクションも照明や 配置などが工夫され、解説も丁寧です。遺跡そのものと相まって、非常にレ ベルの高い博物館だという印象が強く残りました。〈2016.7.14.〉










野外劇場





客席階段部



貴賓席



通路

無休・夏期8:30〜19:00・冬期8:30〜17:00

エフェソスのあるセ ルチュクから南下すること約40キ ロ、 マイアンドロス(ブユック・メンデレス)川の河口近くにリディアの街ミレトスがあ ります。この街 の歴史は古く、前13世紀ごろにはすでにクレタ人が住んでいました。クレタはエー ゲ海最南端の島で、ミノア文明が興った場所です。
ミレトスはエーゲ海に突き出した半島の街であったため前7世紀には貿易港として大 いに栄え、古代イオニア最強の都市国家と目されていました。黒海沿岸地方 を初めとして各地方に60もの植民都市を作り、当時の一大先進的文化都市だったこ とが伝えられています。

ここはギリシア哲学発祥の地でもあります。ギリシア哲学というとまずソクラテス (Socrates 前469年頃〜前399年)が思い浮かびますが、それ以前にタレス(Thales 前624年頃〜前546年頃)やアナクシマンドロス(Anaximandros 前616年頃〜前546年頃)といった哲学者たちがミレトスにいました。それまで はこの世界にあるものは神話に基づいて説明されていましたが、彼らは万物 の根源を自然界にあるもの、「水」や「火」、「無限なもの」などのうちに見出そう としました。この一派がミレトス学派で、この地方に生まれた一連の思想は イオニア自然哲学と呼ばれるようになりました。

前5世紀にペルシアによって街は破壊されましたが、前334年アレクサンダー大王 に開放されて再建され、ヘレニズム時代、ローマ時代を通じて再度興隆を極 めます。しかしやがて土砂が堆積して海が埋まり港が機能しなくなったため、後6世 紀に衰退してしまいました。現在は海から10キロほど内陸に位置していま す。





イオニア式 ストア(列柱廊建築)







さまざまな 遺構



街の大通り



かわいらし いミュージアムショップ



カフェ兼食 堂



マイアンド ロス川

堂々とそびえ立つ野外劇場が印象的です。平地に造られたローマ様式の劇場で、1万 4500人収容という立派なものです。街の南東に向かって客席が広がり、 港から街に上陸する際には一番最初に劇場が目に入るようになっていました。そのた めこの港は「劇場の港」と呼ばれていたそうです。素晴らしい保存状態の劇 場で、階段脇の客席下にライオンの足の形をした装飾や、貴賓席も残っています。1 世紀の建造。客席から舞台を見渡すと、その向こうにかつて海だった平野が 広がっています。当時どれほど華やかで活気に満ちた街だったのかが思い起こされま す。

かなり広い敷地です。劇場近くの港の他に街の北西にも港があります。そのあたりは 湿地帯のようになっていて足場が悪く、遺構に近づけないこともあります。 白く輝くイオニア式ストア、公衆浴場、アゴラ、神殿、スタジアムなどが敷地内に点 在しています。いずれも1世紀から2世紀に造られたものです。街は規則正 しく碁盤目状に道が走っていましたが、現在は大通りの一部しか残っていません。起 伏のある野原をさまよってそれぞれの遺構にたどり着くという感じです。

小さなミュージアム・ショップとカフェ兼食堂が併設されています。周辺には何もな いので、休憩所があるのはありがたいことです。遺跡近くのマイアンドロス 川はギリシア神話にも名前が出てくる川なのに、トルコ語で「大メンデレス川」と呼 ばれるほどなのに、妙に小さい川で半ば拍子抜けしてしまいました。 〈2017.8.13.〉






ミレトス博 物館



展示室



オケアノス



アポロン



スフィンク ス



椅子に座る 巫女の像

無休・夏期8:30〜19:00・冬期8:30〜17:00

ミレトス遺跡の近くに博物館があ ります。収蔵品はミレトスで発掘さ れたものの他に、ここから25キロほど北にあるプリエネ、南に約20キロのディディマか らの出土品です。1973年に開館し、2007年から2011年にかけて改築さ れ、現在に至っています。
オケアノス像は2世紀に建造されたフォスティナの大浴場に置かれていたものです。 オケアノスはギリシャ神話の海神で、オリュンポスの神々より古い神々の一 族に属します。彫像はこの神の性質から浴場や泉など水にかかわる場所に置かれるこ とが多く、上体を起こして横たわる姿で表現されます。
ミレトスはまた、アポロン信仰の盛んな土地でした。アポロン神殿から出土したアポ ロン像は、この神がイルカに姿を変えたという神話に関連して「アポロン・ デルフィニオスApollon Delphinios」とも呼ばれます。この街ではアポロンを祀るため、年に一度 「聖なる道」を通ってディディマにあるアポロン神殿まで行進をするという 宗教儀式が行われていました。その道の両側にはテラスのある建物が並び、スフィン クスや巫女の像などで飾られていたということです。



  アフロディーテの聖域から出土



  クーロス



プリエネ出 土品





中庭

鬼瓦のような陶板は、美と愛の女神アフロディーテの聖域からの出土品です。クーロ スは直立青年裸像とも呼ばれ、前7世紀から前5世紀のアルカイク期に多く 造られました。この像に頭部はありませんが、その顔に神秘的な「アルカイク・スマ イル」を浮かべていたことでしょう。両腕をまっすぐ下におろし、左足をや や前に出した姿が一般的です。プリエネにあるアテナ神殿から出土したライオンのフ ラグメントは、列柱上部にある梁の最上段(コーニス)を飾っていた連続的 な装飾の一部。ライオンのモティーフはこの地方でよく見られます。

小さいながらも見応えのある博物館です。新しいだけあって照明や解説などに工夫が あり、展示物もたいへん見やすくなっています。大型の彫像の背後にはそれ が置かれていた状況を図で示してあるので、当時の様子がよくわかり、説得力あるも のとなっていました。〈2018. 2. 17.〉






入場門



かつて海 だった平地を望む



整った城壁



緻密な都市 計画



アテナ神殿



イオニア様 式



議事堂

無休・夏期8:30〜19:00・冬期8:30〜17:00

ミレトスから25キロほど北に位 置するプリエネは、イオニア同盟 12都市のひとつとして紀元前4世紀に栄えた古代都市です。この街は、同盟に参加 する諸都 市が共同で祀っていた聖域パ ンイオニ オンを管理していたことで重要視されていました。
前1000年ごろギリシアのテーベからやってきた入植者が街を興したとも、それ以 前にカリアの人々が住んでいたともいわれ、街の起源の詳細ははっきりしま せん。前7世紀ごろからペルシアなど他民族の圧迫に苦しみました。度重なる地震 (一説には川の氾濫とも)で街が崩壊したため、前4世紀に現在の遺跡がある ミュカレー山麓南側の斜面に再建されました。最初に街があった場所はよくわから ず、おそらくここから数キロ北にあったのではないかと考えられています。
再建されたプリエネはマイアンドロス川の河口にあり、ちょうど海をはさんで向こう 側にミレトスを望む港湾都市でした。その後ペルガモン王国などに占領さ れ、前129年ローマの属州となります。
湾はやがて土砂が堆積して海が後退してしまい、現在はエーゲ海から20キロほど内 陸部にあります。海抜380メートルの高台にある街の南にはギムナジウム と競技場跡があり、ミレトスからプリエネにかけてかつて海だった場所に平らな土地 が広がっているのを見ることができます。

 ヘレニズム時代のもっとも美しい都市計画のひとつと称される街で、素 晴らしい保存状態です。背後にあるミュカレー山が土砂崩れを起こして街が すべて埋まっ てしまったため、18世紀から19世紀にかけて発掘された時はそっくりそのままの 形で出土されました。街を囲む城壁は全長2.5キロ、最盛期には約 6000人が住んでいたと推定されます。
巨大なアゴラを中心に、街のなかを規則正し い碁盤目状の道が走っています。こ れは前5世紀ミレトス出身の建築家ヒッポダモスHippodamosによる都 市設計をさらに発展させたものです。ミレトスもヒッポダモス設計の街でしたが、現 在のミレトス遺跡にはこれだけ緻密な通りや町並みは残されていません。



野外劇場



貴賓席



劇場舞台裏 の通路









さまざまな 遺構

アゴラの近くにアテネ神殿があります。前335年、アレクサンダー大王がここを訪 れて寄進したものです。アクロポリスを背景にそびえ立つ5本のイオニア式 列柱が印象的です。神殿の設計は、この街の出身で前353年ごろ活躍した建築家 ピュティオスPythios。ピュティオスは古代世界七不思議のひとつ、ハ リカルナッソス(現ボドルム)のマウソロス廟の設計者でもありました。この霊廟は 前353年以前に着工され、前350年より後に完成したと伝えられます。

街の北東にあるヘレニズム様式の野外劇場もよく保存されています。オリジナルは街 が再建された前4世紀の建造ですが、その後数回にわたって改修、拡張さ れ、最終的に6500人収容の劇場となりました。ライオンの手足つき貴賓席や、舞 台裏の通路など興味深いものがあります。
議事堂は前150年の建造で640人収容。住居や商店などの他に、神殿や聖域が多 いことに気づかされます。それほど広くない街の中心にアテネ神殿、ゼウス や医術の神アスクレピオスの聖域が置かれ、東側にイシスやセラピスといったエジプ トの神々の聖域、北側に地母神デメテルとその娘で冥界の女王となったペル セポネを祀った聖域があるのです。エジプトの神々を祀ったというのも意外で、この 街が古くからエジプトと交易があり、関係が深かったことを示しているので しょう。

こぢんまりと整った遺跡で、かなり歩きやすくなっています。松の茂みの間を縫って 遺構が次々と姿を現すという感じが素敵です。売店やカフェなどがあるとい う情報もありましたが、残念ながらこの時は見当たりませんでした。 〈2018.2.17.〉






  壮大なアポロン神殿



そびえたつ イオニア式列柱



神殿内部の 聖所



聖所にある 祭壇跡



聖所への出 入口



通路

無休・夏期8:30〜19:00・冬期8:30〜17:00
ディディマはミレトスの南約20 キロの海岸近くにある遺跡です。現在トルコでディディムDidimと呼ば れる街の北部に、古代ギリシア世界の最大にして もっとも重要だったアポロン神殿が残されています。
ここにはイオニア人が定住する以前から地神の信託所があり、その後紀元前8世紀ご ろからアポロン神殿の建造が始まりました。ディディマはかつてディディマ イオンDidymaionと呼ばれており、これがギリシア語で「双子」という意味 から、アポロンと双子の女神アルテミスが祀られていたという説がありま す。アルテミス信仰は、この街から北へ50キロほどの場所にあるエフェソスで盛んでし た。ま た、アルテミスはアナトリア起源の地母神キベレーと混淆した女 神とみなされることから、アポロン以前の信託所に祀られていた地神はキベレーと関 係するのではないかと考える文献学者もいます。一方でディディマイオンの 語源はギリシア語ではなく、この地方に古くからあるカリア語だという見解もあり、 このあたりの事情はやや錯綜しているようです。

当初の神殿は現在の規模より小さく、着工から2世紀近くを経て前550年ごろ完成 しました。しかし前493年ペルシア軍によって破壊され、その後長く廃墟 のままとなっていました。前334年にアレクサンダー大王がこの地を解放した後に 再建され、完成したのはローマ時代になってからの後2世紀ごろと考えられ ています。現在見られるヘレニズム様式の神殿はこの時期のものです。
アレクサンダーが神殿跡を訪れると、それまで枯渇していた聖泉から水が流れ出した という伝説があります。前300年ごろ、セレウコス1世がかつてここに収 められていたブロンズ製のアポロン像をペルシアから取り戻して奉納したということ です。
神殿はビザンティン時代の5世紀に教会に転用されて使われ続けましたが、1453 年の地震で崩壊してしまいました。

壮大な神殿です。全長108.5メートル、幅50メートルのヘレニズム様式の神殿 で、現在は高さ20メートル、直径2メートルのイオニア様式の柱が3本 残っています。建設当時は全体で124本の柱が使われていました。アポロン神殿と いうとギリシア本土にあるデルフォイの神殿が有名ですが、デルフォイの神 殿は全長60メートル、幅23メートル。ディディマの神殿の方がはるかに大きなも のでした。



グリフィン のレリーフ



解説パネル の神殿全体図



メドゥーサ の頭



柱のモ ティーフ



周囲に広が る遺構



東側から見 た神殿



南側に残る 柱

設計したのは、エフェソスのパイオニオスPaioniosとミレトスのダフニス Daphnis。パイオニオスはエフェソスにある古代世界七不思議のひと つ、アルテミス神殿を設計した建築家でした。現在アルテミス神殿跡には柱が一本ぽ つんと立っているだけですが、この神殿もとんでもない大きさで、全長 115メートル、幅55メートル、柱は127本あったということです。七不思議の ひとつに数えられるのももっともだとうなずけます。

儀式が執り行われる神殿内の聖所には、建物の両側にふたつある狭い出入口を通って 入ります。この聖域は一般人には解放されておらず、巫女や神官などごく限 られた人々しか入ることはできませんでした。大理石の厚い壁でおおわれた通路の天 井に、ギリシア雷文が描かれているのがわかります。ギリシア雷文はこの地 方を流れる暴れ川マイアンドロス川に因む連続文様で、メアンドロス模様とも呼ばれ ます。四方を高い壁に囲まれた聖所には神託所や聖泉があり、その一番奥に アポロン像が安置されていたということです。

鷲の上半身とライオンの下半身を持つグリフィンのレリーフが聖所にいくつもありま した。この神話上の動物は、天上の神々が乗る車を引くという役目を担って いるとされます。
神殿のまわりには地震で崩れた遺構が広がっています。メドゥーサはギリシア神話に 登場する怪物の三姉妹ゴルゴンのひとりで、その姿を見た者は恐ろしさのあ まり石になってしまうと言われています。ギリシア世界でメドゥーサの頭のレリーフ は魔除けとして使われていました。

強烈な印象を受ける神殿です。大きさと整った美しさに圧倒されます。柱などに施さ れたさまざまな装飾レリーフも保存状態が素晴らしく、細部に至るまで見飽 きることがありません。
遺跡は街中にあるため、すぐ近くにレストランや土産物店などが並んでいます。食事 や休憩に便利です。ここから数キロ離れたディディムの海岸は「黄金の砂 Altınkum」という名前の美しい砂浜になっており、内外から多くの観光客が 訪れます。遺跡ばかりではなく、こぢんまりしたリゾート地の雰囲気も味わ える魅力的な街だったのでした。〈2018.2.17.〉



ムー ラ Muğla
 


中央広場



街並み





オスマン様 式の文化センター



センター正 面玄関の天井



商店街

ムーラ県はアイドゥン県の南、西はボドルムから東はフェティエまで、エーゲ海沿い に1.000キロ以上の海岸線を持つ地域です。県下にボドルム、マリマリ ス、ダルヤン、フェティエといったマリン・リゾートの世界的観光地を抱え、夏には ヨーロッパからの直行便が頻発されることもあり、どこも観光客でにぎやか になります。
とはいえ、県都のムーラはやや内陸に位置し、特に観光地というわけではないため静 かで落ち着いた雰囲気です。オスマン時代の家屋がきれいに修復されて、あ ちこちに見られるせいかもしれません。道路沿いには大きな街路樹が茂り、南国風の 明るい日差しと乾燥した空気を感じます。トルコで初めて女性知事が出たと いうことで、地方都市にしては進歩的な側面もあるようです。
県全体の人口は988.877人(2014年)、ムーラ市は68.173人。観光 業のほかに農業や林業がさかんで、県の特産は大理石や蜂蜜など。とくに松 の花の蜂蜜が有名ですが、これは独特な味と香りがあり好みが分かれるところです。
また、この地方は古代のカリアやリキアに属し、クニドス、カウノス、テルメッソス といった遺跡も多く点在しています。かつては交通の便がよくない地域だっ たので、それぞれの文化が混淆することなく残されていたそうです。



街一番と評 判のキョフテ(肉団子)屋



本格炭火で 調理



焼きたて キョフテ



付け合わせ の揚げた青唐辛子



チャイバフ チェ(青空喫茶店)



青果市場



季節の果物



花ガラつき ヒマワリの種



詰め物用 ズッキーニの花

遺跡巡りの途中にちょっとだけ街に寄りました。のんびりして暮らしやすそうな街と いう印象です。お昼にキョフテを頂きましたが、付け合わせに出てきた唐辛 子が半端じゃない辛さでびっくり。地元の人々はおいしそうにむしゃむしゃ食べてい ます。この強烈な辛さがいいのだそうです。暑い地方の味覚でしょうか、イ スタンブールではあまりお目にかかれない辛さでした。
街の中心部に屋根付きの大きなバザールがあり、買い物客でにぎわっています。農業 がさかんなだけあって、ぴかぴか元気いっぱいの野菜や果物が充実していま す。ヒマワリの種はトルコでスナックとして人気があり、普通はバラバラの種だけを 量り売りにしたり、袋入りにして売っているものです。花についたままの状 態で並べているのは、新鮮さを強調したのか単なる手抜きなのか。ちょっとした発見 でした。〈2016.8.29.〉






正面玄関



玄関脇の展 示物



展示ケース



アルテミス



アフロディ テとエロス



ヘルマフロ ディトス





テラコッタ 像各種



埋葬者

月曜日休館・8:00〜17:00
ムーラ市の中心部にある博物館です。文化観光省のオフィスの一角が展示室になって います。こぢんまりしたきれいな建物ですが、元刑務所だった建物を改修し て1992年に開館しました。考古学の部屋、ローマ時代の剣闘士に関する部屋、博 物学の部屋、民族誌の部屋に分かれています。
考古学の部屋には、ムーラ市から50キロほど離れたストラトニケアの出土品が展示されてお り、ヘレニズムから ローマ時代にかけてのものが中心です。いずれも小品ながら保存状態のいいものばか りです。
展示用ガラスケースとその中にひしめく展示品を見て、一瞬ひと昔前の博物館を思い 出しましたが、よく見るとケースは新しいもので照明も工夫されています。 あえてノスタルジックな展示方針を採ったのかもしれません。とはいえ凝った照明が ケースのガラスに反射して、展示物の写真を撮るのにひと苦労です。解説は 年代などについてやや不足がありますが、出土品に関する詳しいパネルもあって興味 深いものでした。

膨大な数のテラコッタ神像は、アフロディテやニケといった神々への誓いの証として 死者とともに埋葬されたと考えられています。他には日々の生活を描いたも の、人形や滑稽な姿の人物像なども多く見られます。埋葬者の性別や生前の職業を表 すものもあり、たとえば演劇用の仮面は亡くなったのが役者だったこと示し ています。埋葬品とはいえ、死後の世界での生活やよみがえりという発想とは無関係 だったようで、本来の目的ははっきりしないということです。
素朴な印象のヘルマフロディトス像がありました。ヘルマフロディトスは、美と愛の 女神アフロディテと神々の使者ヘルメスの息子で、絶世の美少年でしたが、 ハルカリナッソスの泉で出会ったニンフと合体して両性具有になったと伝えられてい ます。ハルカリナッソスは現在ムーラ県の有名リゾート地、ボドルムのこと です。この地方には昔からヘルマフロディトス信仰があったのかもしれません。この 像にはかろうじて両性具有の特徴を見ることができます。





  グラディエーター部屋



博物学コー ナー









中庭

剣闘士の部屋はハイテク装備で、ここだけものすごく費用をかけたような感がありま す。トルコの博物館にはめずらしく博物学の部屋もあり、規模は小さなもの ですがよく整えられていました。中庭は植物がきれいに手入れされ、大理石の展示物 がうまく配置されています。愛らしく、たいへん気持ちの良い庭でした。〈 2016.9.25. 〉



  ストラトニケア Stratonicea









ギムナジウ ム



アゴラ?



議事堂



ゲート?

ムーラの街から北西へ約50キロ、ちょうどヤターアンYatağanとミラス Milas の中間あたりの幹線から北に1キロほど入ったところに、ストラトニケアの遺跡があ ります。前6世紀ごろリキアの人々がここに街を興し、後にカリアの街とな りました。
ストラトニケアという名前は、セレウコス朝のアンティオコス1世(在位前 281-261年)の妻ストラトニケに由来します。彼女はマケドニア王デメトリオ ス1世の娘で、アンティオコスの父セレウコス1世の後妻でした。つまり、ストラト ニケは父王と結婚した後、父王の死後義理の息子と再婚したというわけで す。
現在遺跡に残る建物の多くは、前2世紀のヘレニズム時代からローマ時代にかけての ものです。実際にこれらを作ったのは2人の息子のアンティオコス2世テオ スか、さらに後のアンティオコス3世ではないかと考えられています。

あまり知られていない遺跡ですが、行ってみて度肝を抜かれました。巨大な建築物が 発掘復元の真っ最中です。ギムナジウムは前129年ごろの建造、後のロー マ時代に改修されました。1977年から始まったストラトニケアの発掘調査は、 ちょうどこの建物の発掘から始まったそうです。
ギムナジウムは奥行き105メートル、幅180メートルという巨大なもので、この 規模の街としては破格の大きさだと考えられています。古代世界で最大のギ ムナジウムです。現在修復が進んでいるのは北側の部分で、この南側にほぼ同じ大き さの棟があると推定されています。2枚目の写真に写っているクレーンや作 業する人の大きさを見ると、その規模が実感できます。







:発掘途中 のフラグメント



ローマ風呂



野外劇場



貴賓席の名 残



貴賓席に刻 まれたレリーフ



舞台奥に置 かれた石

議事堂は後1世紀、ローマ風呂は敷地内に3つあるお風呂のうちの1つで、2世紀の ものです。これは南側に4つの温かいお風呂、北側に4つの冷たいお風呂、 他に少なくとも6つのサービスルームが、カリアの伝統にしたがってシンメトリーに 配置されているということです。
発掘されたまま道端に置かれている大理石の山が延々と続き、その間を縫って広大な 敷地の中を歩き回ります。かなりの部分がまだ調査中のせいか解説のパネル が少なく、何があったところをどういう具合に歩いているのかよくわかりません。

南のはずれに野外劇場がありました。自然の斜面を利用したギリシア様式の劇場で、 21列の座席が比較的よい状態で保存されています。もとはヘレニズム時代 の劇場だったものが、ローマ時代に入って大幅に造り替えられました。約15000 人収容。
客席にはレリーフの入った貴賓席が見られます。観客から見て舞台奥にある壁もロー マ時代のもので、その台座のひとつに松かさとリボンのついた枝が彫られて います。これは演劇に関連するギリシア神話の神ディオニュソスが持つ霊杖ですが、 この台座にどういう意味があるのかはよくわかりませんでした。



敷地内に実 るザクロ



喫茶店



戯れる仔犬



オスマン時 代のジャーミー



ジャーミー 下の遺構





劇場上手に 鎮座する神殿



神殿から見 下ろす街の全景

遺跡の入口近くにシャバン・アー・ジャーミーがあります。オスマン時代のもので 1876年に修復された後、全面的な改修が2015年の秋に終わりました。 わたしが訪れたのはちょうどその年の夏で、ほぼ修復が済んでいる頃です。建物の基 礎部にある排水システムは古代のものということでした。
ジャーミーの近くに感じのいい喫茶店があり、休憩することができます。お店で飼っ ているのか、あたりに鶏や猫がいてにぎやかです。木陰の下に並んだテーブ ル席で冷たい炭酸水を飲んでいたら、放し飼いの仔犬が遊びに来ました。
喫茶店があるとはいえ、観光客が訪れる様子はほとんどありません。実際に敷地を歩 いている間に見学者にはひとりも会わず、調査中の研究者と発掘作業員が炎 天下で仕事をしているばかりでした。遺跡見学の入場料を徴収されることもなけれ ば、見学時間もはっきりわからないままです。発掘中の遺跡ではよくあること とはいえ、これほど規模の大きな遺跡が再現されつつある状態ではめずらしいことだ と思いました。

野外劇場の上に神殿があると解説パネルに書いてありましたが、劇場の客席は上の方 が整備されておらず登っていくことができませんでした。客席の左右に回っ ても足場が悪く、とても頂上までたどりつけそうにありません。残念に思いながら敷 地を出て幹線に引き返す途中、「神殿」という小さな看板を見つけました。 そこから土手を登っていくと、ちょうど劇場の客席を登り切った奥にある神殿に出ま した。ここからストラトニケアの全景が眺められます。
この神殿は当初ゼウスの神殿ではないかと考えられていましたが、その後の研究では ローマ皇帝アウグストゥスを祀ったものだとされています。

実にインパクトのある遺跡で驚きました。復元中の巨大建造物や、これから復元され るのを待つ膨大な数の柱や壁石。この街の全貌が姿を見せるのは、果たして いつになるのでしょうか。〈2016.9.25.〉



  ラギーナ Lagina



ラギーナ遠 景





  ヘカテ神殿





儀礼に使わ れた門(プロピロン)



祭壇



祭壇付近

ラギーナはストラトニケアの北11キ ロほどのところにあり、ストラトニケアと同時代の前2世紀ごろの遺跡が残 されています。ここは人々が生活する街ではなく、祭祀を行うための聖域で、ストラ トニケアから「聖なる道」が続いていました。平らな石を敷き詰めた道は、 現在も部分的に残されています。
聖域は神殿や祭壇を中心に、周囲をぐるりとストア(柱廊)が取り囲んでいます。宗 教的な儀式が執り行われる際、人々はストアに佇んで儀式に参加したそうで す。敷地の入り口には儀礼的に使われた門があり、入場者はこの門を通って神殿に向 かいました。前27年のものです。
ここの神殿には女神ヘカテが祀られていました。ヘカテを祀った神殿は他になく、そ の意味では非常にめずらしい聖域だといわれています。



ヘレニズム 後期のストア







フラグメン ト

ヘカテは古代アナトリアのカリアまたはトラキア起源の女神で、前6世紀から前5世 紀ごろにギリシア世界に入ってきたと考えられています。当初は海、地上、 天界で自由にふるまうことを許された神として、成功、豊穣、出産、浄めと贖罪をつ かさどる地母神のような性格が強かったようです。時代が下るにつれ冥界と の関連が強まり、死の女神、魔術師の庇護者、霊の先導者ともいわれるようになりま した。真夜中の三叉路に地獄の猛犬を連れて現れる、という禍々しいイメー ジが後世に伝えられています。

神聖な場所なので、他にめぼしいものはありません。キリスト教時代に神殿と祭壇の 間に礼拝堂が建てられただけです。神殿の梁部分にあったフリーズには、ゼ ウスと巨人族との戦いやカリアの神々の姿が描かれており、現在イスタンブールの考古学博物館に展示されているということでした。
その性格からして小規模な遺跡ですが、当時の神聖な雰囲気が十分残されているよう に感じます。周辺には何もなく、風がびょうびょうと吹き渡るだけでした。 <2016.10.20.>



  ボドルムBodrum





ボドルム港



鮮やかな色



魔除けの目 玉





街角



ペンション のプール



海沿いの散 歩道







お土産やら 何やら







花いっぱい

ムーラ県には世界的に有名な高級リゾート地、ボドルムがあります。輝く空と青い 海、丘に立ち並ぶ白い家々、いたるところに咲き乱れる南国の花。エーゲ海、 夏のハイライトといった風情です。カ フェ・ボスポラス で企画したツアーでも訪れたことがありました。
明るく開放的な雰囲気を求めて、毎夏欧米から観光客が大挙して押し寄せてくる街で す。港からはギリシャのコス島までフェリーが運航しており、片道1時間足 らずの近さということもあって日帰りで往復する観光客も多くいます。ビーチ沿いの 大型高級ホテルから小さなプール付きのペンション、長期滞在用のコンドミ ニアムまで、宿泊施設も豊富です。エーゲ海1日クルーズや各種マリンスポーツはも とより、夜はおしゃれなディスコやクラブ、バーが大にぎわい。ミック・ ジャガーのお嬢さんが経営するゴージャスなクラブなどもあるそうです。

今でこそきらびやかなリゾート地ですが、もともとここは小さな漁村でした。トルコ の著述家でトルコ初の国内旅行ガイドブックを著したジェ ヴァト・シャキー ル・カバアーチュルCevat Şakir Kabaağaçlı (1886年〜1973年)がボドルムの魅力を発見し、現在に至ったといわれてい ます。
街の中心部はそれほど広くなく、昔ながらの狭い路地や市場もあり、地元で生活する 人々の様子を垣間見ることもできます。周辺の町も併せて人口は16万 4158人(2017年)。県全体の人口の17.4%を占めています。地方の人口 が減りつつあるトルコですが、ボドルムは10年前に比べると6万人も増え ており、いまだに発展し続けている数少ない街のひとつです。









市場周辺



アーティ チョークの前菜、ポテトとにんじん



スズキのグ リル



庶民派レス トラン



夕暮れ時



「ボドルム のバッハ」



コンサート 会場



ステージの 様子







夜の通り

海岸沿いや街の通りには土産物屋、ブティック、カフェ、レストランが並びます。日 中は日差しが強くて暑いため、ホテルの部屋でのんびり静養するか、ビーチ やプールで水遊びをする人が多いようです。日が暮れて涼しくなってくると街はにわ かに活気づき、みんな夜遅くまでどんちゃん騒ぎ、といった感じでしょう か。
屈指の観光地だけあって物価は高めですが、市場で売っている野菜や果物、魚などは イスタンブールより安くなっています。滞在していたペンションで教えても らったシーフードレストランはごちゃごちゃっとした市場通りにあり、庶民的な雰囲 気と料金、料理のクオリティもたいへん満足できるものでした。

街の歴史は古く、ヘレニズム時代の遺跡や中世に聖ヨハネ騎士団が建造した要塞などがあります。それらはハリカルナッ ソスの項などでご紹介 しましょう。
滞在中に要塞内部で野外コンサートがあったので、行ってみました。題して「ボドル ムのバッハBach Bodrum’da」。演奏は、古楽器の名手ジキスヴァルト・クイケンのカルテッ トやラ・プティット・バンドで活躍していたフランソワ・フェルナンド François Fernandez、同じクイケンバンドのユン・キュン・キムYun Kyung Kim。演目はバッハのバロックヴァイオリン二重奏という、たいへん珍しいもので す。まさかここボドルムで古楽器アンサンブルが聞けるとは。思いがけない 組み合わせにバッハさんもびっくり(?)。開演は午後9時。この開演時間の遅さは さすがリゾート地。
会場は歴史的建造物をそのまま使用したというわけではなく、要塞内の空地に舞台や 椅子を設置したもののようです。欧米人が多く訪れるボドルムだからさぞか し混むだろうと思っていたら、広い会場に観客は数十名。演奏は素晴らしいもので、 数少ない聴衆も熱心に聞き入っていました。
11時近くにコンサートは終わり、海沿いの道を散策しながら宿に帰ろうとすると、 まあ、どこのお店も満員御礼。土産物屋からカフェ、レストラン、通りにい たるまでひとがびっしり。みんなバカンスの夜更かしをそれぞれに楽しんでいるので した。〈2018.3.25.〉



  ハリカルナッソス Halikarnassos



港から見え る野外劇場







ヘレニズム 時代



ディオニュ ソスの祭壇





ミンドス門



城壁



二面墓



南向きの墳 墓

エーゲ海切ってのリゾート地ボドルムは、 かつて古代アナトリアのカリアに属するハリカルナッソスという古代 都市でした。カリア語は現在まで解読されていま せんが、カリアという地名は前13世紀ごろのヒッタイトの文献にすでに見られま す。ハリカルナッソス近郊では前15世紀から前12世紀ごろのミケーネ人の 墳墓が発見されており、そのころからギリシアとの交流があったようです。ペロポネ ソス半島のミケーネ(ミュケーナイ)からエーゲ海をまっすぐ東へ横断する と、ちょうどハリカルナッソスあたりになります。
街には前425年ごろドーリア人が入植し、その後アケメネス朝ペルシアの太守とし てカリアの国王が実質的に統治していました。前334年、アレクサンドロ ス大王がペルシア軍を苦労して破ったというのもこの土地です。歴史家のヘロドトス Herodotus(前484年〜前425年)はここで生まれています。
他の遺跡のように、古代都市が丸ごと残されているわけではありません。街の中数か 所に建造物や遺構が点在しています。現在建ち並ぶ家々の下に、そのまま遺 跡が埋まっているということでした。

街の北側、海に面した小高い丘の中腹に野外劇場があり、ボドルム港から見上げる位 置にあります。前4世紀建造のギリシア様式の劇場で、約1万3000人収 容。客席上部は足場が悪くて入れませんが、全体に非常によい保存状態です。客席最 前列の中央に、演劇と関係が深いギリシア神話の神ディオニュソスの祭壇が 置かれています。丘のさらに上にはヘレニズム時代のネクロポリスがあるそうです。 この劇場は現在コンサートなどにも使用されており、この時は照明が設置さ れ、周囲に資材が積んでありました。

ミンドス門は劇場から2キロほど西の幹線沿いにあります。街の東と北にも門があり ましたが、現存するのはここだけです。アレクサンドロス大王がなかなか攻 め落とせなかったという要塞や城壁、堀の一部が残っています。いずれもカリアの王 マウソロスが前4世紀に建造したもので、要塞の高さは不明ですが城壁は約 7キロ、堀は長さ56メートル、幅7メートル、奥行きが2.5メートルあったとい うことです。マウソロスは前377年に王位を継承し、前367年にカリア の首都をミラサMylasa(現ミラス、ボドルムの南東約40キロ)からハリカル ナッソスに移しました。
ミンドスとはハリカルナッソスから20キロほど西のエーゲ海沿いの都市で、アレク サンドロス大王は最初ミンドスを攻略しようとして果たせず、代わりにハリ カルナッソスを攻めたといわれています。
この門の近くにめずらしい二面墓がありました。南向きの墳墓と北向きの墳墓が背中 合わせにつながっています。片面は一層、もう片面は二層になっていたよう です。要塞の建造と同じ前4世紀ごろのもので、身分の高いカリア人の墳墓だと考え られています。







マウソロス 廟



廟の再現模 型





フラグメン ト











現在のボド ルム

野外劇場を少し下ったところにマ ウソロス廟の遺構が あります。
前353年に亡く なったマウソロスのためその妃アルテミシア2世が建造したもので、彼女が亡くなっ た1年後の前350年に完成しました。高さは45メートル、横35メート ル、幅28メートルという壮麗な大霊廟であることから、古代世界七不思議のひとつ とされています。英語で「霊廟」を意味するマウソレウム mausoleumは、この廟に由来します。
大理石の廟は3層に分かれ、1層目にはギリシア神話の場面が描いたレリーフがあ り、2層目は36本のイオニア様式の列柱が並び、柱の間にさまざまな彫像が 置かれました。3層目は24段のピラミッド型屋根の階段で、頂上には4頭立ての馬 車の像があったと伝えられています。設計はプ リエネのピュティオス Pythiusとギリシアの建築家サテュロスSatyros、他に各地から優れた 彫刻家4名が集められたということです。
廟は12世紀から15世紀にかけて頻繁に起きた地震のため徐々に崩れ、15世紀に 聖ヨハネ騎士団がこの地にやって来た時にはすでに崩壊していたそうです。 彼らはその建材を使って海岸沿いに堅固な要塞を築きました。通称「ボドルム城」と呼ばれる城塞で、 現在 は海底考古学博物館となっています。
そういうわけで、霊廟跡のかなり広い敷地には大理石の柱がごろごろと転がっている だけです。小さな展示室に廟の模型や彫刻のフラグメントなどがあり、かろ うじてかつての姿を思い起こすことができます。丘の中腹に建っていたわけですか ら、当時港に入る船から見たら、さぞかし高くゴージャスな廟に感じられたこ とでしょう。廟を飾っていたマウソロス像や彫像の断片などは、現在英国の大英博物 館に収蔵されているのでした。

野外劇場は無人ですがいちおうゲートがあり、夏期9:00〜19:00、冬期 8:00〜17:00無休。ミンドス門は出入口も何もなく常時見学可能。マウ ソロス廟は夏期8:00〜19:00、冬期8:00〜17:00、月曜日休館で す。

ハリカルナッソスにはもうひとつ、サルマキスの泉があります。ギリシア神話による と、ヘルメスとアフロディテの息子ヘルマフロディトスがこの泉で泳いでい る時、水の妖精サルマキスに言い寄られて合体し、彼は男性と女性を併せ持つ両性具 有になってしまいました。嘆き悲しんだヘルマフロディトスは、この泉に 入った者は自分と同じ体になるよう神々に願ったという伝説があります。両性具有、 雌雄同体を指す一般名詞の「ヘルマフロディット hermaphrodit」はこの神話に由来する言葉です。
こうした伝説のせいか、一説によると現在のボドルムはLGBTの人々のメッカとさ れ、一大フェスティバルが催されることもあると聞きました。残念ながらサ ルマキスの泉は街の西側にある軍の保有地の中にあるため、一般公開されていませ ん。〈2018.3.25.〉



 
月曜日休館・夏期8:30〜18:30・冬期8:30〜16:30



海から見た 要塞



ボドルム湾



博物館入口 とヘロドトス像



そびえ立つ 城壁



構内の案内 図







フラグメン ト





東ローマ船



引き上げら れたアンフォラ



ガラス展示 ホール









暗闇に輝く 古代ガラスの数々

ボドルム湾の南端に位置するボドルム城は、セルジュークの侵略に対抗するため 1404年ロードス島に拠点を置く聖ヨハネ騎士団によって建造が始まりまし た。彼らの守護聖人の名前をとって「聖ペテロ城」とも呼ばれます。建造にあたって は、近くにあるマウソロス 廟の 石材が使われました。1437年に城壁が完 成し、エーゲ海域でもっとも堅牢な要塞と目されるようになりました。そびえ立つ塔 には建築を援助した英国、フランス、ドイツ、イタリアといった国々の名前 が冠され、構内にある礼拝堂はマルタ騎士団によって1519年から1520年にか けて改築されています。
難攻不落の要塞でしたが1523年オスマン軍に制圧されて軍事的役割を失い、 1895年には牢獄として使用されました。

その後長く使われていない時期がありましたが、1964年に改修され、現在は水中 考古学博物館としてボドルム観光の名所となっています。水中博物館といっ ても、水の中が見られるわけではありません。1960年ごろから始まったエーゲ海 一帯の海底調査で発見された難破船の遺品が、要塞内部の14のホールに展 示されています。



素晴らしい 海の色



演劇に使わ れる仮面のレリーフ



ローマ時代 のモザイク



ストラト ニケア出土の役人像(記 念写真用?)



塔にはまっ たプレート



カリア王女 のホール









黄金の副葬 品



突然現れる 絶景



突然現れる 孔雀



イタリア塔 のエンブレム



「蛇の塔」 のレリーフ







風光明媚

ここには前14世紀、後期青銅器時代の難破船の復元模型が置かれています。ボドル ムから約330キロ南東にあるカ シュの沖で、1982年に発見された世界 最古の船です。最寄りの岬の名前から「ウルブルン沈没船Uluburun Batığı」と呼ばれています。
キプロスかパレスティナから出港し、キプロス西海域へ向かっていた商船と推測さ れ、10トンの銅、1トンの錫、ガラスのブロック、ミケーネの陶器、バルト 産の琥珀、象牙、武器、ナッツやオリーブ、スパイスなどを積んでいたということで す。エジプトの宝石類や、ツタンカーメンの義母ネフェルティティの印章も 発見されました。当時地中海で繰り広げられていた交易の様子がうかがい知れます。 船の長さは15メートルから16メートル、レバノン杉でできていたそうで す。
残念なことに、訪れた時はちょうど展示ホールが閉まっていて見ることができません でした。
もうひとつ展示してある沈没船の模型は、7世紀のビザンツ時代、ガラス製品やペル シア戦争のための武器を運んでいたものです。構内には膨大な数のアンフォ ラが展示されています。

沈没船の積荷だったガラス製品を展示したホールがあります。前14世紀から後11 世紀までのもので、見事なコレクションです。照明を落とした展示室のな か、器の真下から照明を当てて透かして見せるという展示方法が素晴らしい。こんな 風に美しくガラスの発掘品を見せる博物館はちょっと他にありません。暗闇 に浮かび上がる古代のガラスはとても幻想的です。

カリア王女の副葬品が並ぶホールも印象的でした。この女性は前360年から前 325年の間に44歳前後で亡くなったと考えられ、精緻な黄金の装飾品や黄金 のマスクなどを見ることができます。ギリシア神話によると、死者は亡くなってから 冥界にあるステュクス河を渡って冥界に行きますが、そのさい渡し守のカロ ンに渡り賃を払わなければなりません。三途の川の渡し守と同じです。そのため、古 代には亡骸の口の中にコインを置いて埋葬するという習慣がありました。埋 葬者の口や目を覆う黄金のマスクは、そのコインと同じ意味があるということです。 墓は1989年に発掘され、1993年からここに展示されています。
塔の入口上部に蛇の彫刻が描かれている「蛇の塔」があります。蛇は再生のシンボル ということから、この塔は当時病院として使われていました。

中世の要塞と、海底で眠っていた考古学的遺物の両方が同時に楽しめるめずらしい博 物館です。中庭には南国の植物が茂り、そこかしこに大理石の彫像などが置 かれています。そびえ立つ塔に登ると、突然ボドルムの絶景が目の前に広がります。 素晴らしい眺めです。塔によって見える風景が違い、次々とパノラマが展開 します。城壁の隙間からちらりと見える景色もまた格別。
展示室は展示方法や照明の工夫が楽しく、解説もわかりやすいものでした。時間帯に よっては閉まっているホールもあるようです。中庭にはカフェや売店があ り、木陰にベンチなども置かれているので、好きな場所で一休みできます。敷地全体 が広く展示も充実しているため、景色を楽しみながらとなると優に2時間ぐ らいはかかるかもしれません。時間に余裕を持って、風光明媚なボドルムとその歴史 をゆっくり味わいたいところです。〈2018.4.18.〉






聖域ラブランダ





パネルの地図



敷地南側、道路に面した壁

無休・夏期8:00〜19:00、冬期8:00〜17:00
ボドルムから約50キロ北東にムーラ県のミラスMilas(2022年の人口 147,416人)があります。ミラスはかつてミラサMilasaと呼ばれた古代 都市、その郊外にあるのがラブランダの遺跡です。
カリア王国に属するラブランダは古くはラブラウンダLabraundaという名前 でしたが、ローマ時代にラブランダとなりました。前6世紀ごろからある聖域とさ れ、泉のほとりに雷でふたつに割れた巨岩があることから「天空の神の住み家」と考 えられていました。

ハリカルナッソスのマウソロス(在位 前377年〜352年)とその弟イドリエウス (在位前351年〜344年)の時代にゼウス・ラブランデウスZeus Labrandeus を祀る神殿などが建てられ、聖域として全盛期を迎えます。この兄弟によるヘカトムニ朝滅亡後ミラサの支配となり、神聖な場所としてビザンツ中期まで存続し たということです。

聖域なので人々が日常的に生活する街ではありません。ここに居住していたのは宗教 儀礼にかかわる神官やその関係者、奉仕者などに限られていました。参拝者はここか らほぼ真っ直ぐ13キロ南にあるミラサの街から、幅8メートルの「聖なる道」を 通って往来していたといいます。



長大なテラスと遺構





プロピロン



ドリス式建物



東の教会



西の教会?

堂々としたテラスを挟んで南側に、高さ5.4メートルのイオニア式柱頭があったプ ロピロン(儀礼的な門)、ドリス式柱頭の建物、それに隣接するもうひとつのプロピ ロンがあります。いずれもイドリエウス建造。
幅約8.2メートルのドリス式の建物には泉があり、建物は後のローマ時代に浴場の 一部として使われ、さらにビザンツ時代にはキリスト教教会になりました。泉は教会 の礼拝で使われる聖水として使われていたのではないかと考えられています。



階段を登って北側へ



ゼウス神殿







参拝者が食事をしたアンドロン



テラスを北に向かって階段を登っていくと、25メートル×16メートルというゼウ ス神殿が広がっています。神殿を囲むように、儀礼の際に饗宴が行われたというふた つのアンドロン、高さ4.3メートルの宝物殿(オイコイ)、ローマ時代のストア、 北のストアや東のストアがありました。



雷で割れた岩



泉のある建物



内部の湧水



墓所?



石室内部

ラブランダを特徴づける落雷で割れた岩もこのあたりにそびえています。かなり大き な岩が見事に割れていて、異彩を放っています。
そのすぐ隣にある泉は、今もきれいな水が湧いていてびっくりです。こうした泉はラ ブランダ内とここからミラサに至る間におそらく32はあったとされています。聖域 に湧水はつきものですが、この一帯はとりわけ水の豊富な土地だったようです。
さらに石室のなかに棺が置かれていたとおぼしき建造物もありましたが、詳細はわか りません。



松林に埋もれた競技場



もうひとつの泉



ミラスにある「両刃の斧の門」



要石に彫られたラブリュス

大きなまとまった遺構はこのあたりまでで、さらに北東に坂を登ると松が生い茂り、 ところどころにモニュメンタルな墓所や泉などの遺構が残されています。
長さ172メートル幅34メートルという直線のトラックと、それに並行する観客席 が設けられていた競技場もありましたが、実際にはあまりよくわかりません。そこで 定期的に催される奉納競技は5日間にわたって行われていたそうです。

ラブランダで祀られていたゼウス・ラブランデウスは、左手に蓮の笏を持ち右手に両 刃の斧を担いだ姿で描かれており、ハリカルナッソスやミラサで発行され たコインに 刻まれていました。
両刃の斧はラブリュスLabrysと呼ばれ、ギリシア文明最古のシンボルとして知 られています。そもそもは青銅器時代の前2000年に栄えたミノア文明に見られた もので、当時はクレタ島クノッソス王家の権力のシンボルでした。クレタでは女神を 中心とする信仰が中心でしたが、ラブランダでは男神ゼウスのシンボルになっていま す。

ミラスの街中に両刃の斧が刻まれた門(Baltalı Kapı)が今でも残っています。アーチ上部ちょうど真ん中の小ぶりの石(要石)に斧が見えます。聖域に詣でる人々はこのゲートからラブランダをめざした のでした。現在は両脇を民家に挟まれ、ごく普通の通路として住民に使われていま す。



発掘調査中



フラグメント



遺構



遺跡の自然







ゼウス到来?

たいへん見応えのある遺跡です。聖域としてはかなり規模が大きく、発掘された建造 物も大型です。時の権力者がどれほど入れ込み、聖地として重要視されていたかがわ かります。
山の中腹にある遺跡ですがそれほど勾配はきつくなく、北に向かって坂を登る配置に なっています。ただし発掘や修復作業が行われている箇所が多く、見学のための歩道 は整備されていません。足元に気をつけて歩く必要があります。
神殿周辺の大きな遺構には解説パネルが設置されており、詳しい説明や再現図が描か れています。しかしまだ修復されていない遺構も多く、あまりにも膨大な量のフラグ メントがそこかしこに積み上げられていて、何が何だかよくわかりません。
遺跡中心部をはずれるとパネルなどはほとんどなく、見学には不便です。今後のさら なる整備が待たれます。
聖域の北の斜面には松林が広がり、夏場は適度な日陰になって快適です。こんなに充 実した遺跡なのにお手洗いがあるばかりで売店などはなく、周囲に民家もありません でした。

到着した時は晴れていましたが、見学が終わるころに空が暗くなり、今にも降り出し そうです。と思う間もなく、突然頭上で大きな雷鳴がとどろきます。今まであちこち の遺跡を歩きましたが、いきなりやってくる雷というのは初めてです。さいわい降ら れることはなかったものの、なるほどさすがゼウスの聖域だけのことはあります。雷 はゼウスの武器だったのでした。



幹線沿いのお休み処





白チーズの載ったサラダ



香ばしい薄焼パン



「柘榴」ジュース



夏の彩り



ラブランダに向かう途中、国道沿いのドライブインで昼食を摂りました。こういう休 憩所はトルコ中どこにでもあり、お昼時などはにぎわいます。ここはスタンドでザク ロジュースを売っているようで、その看板がなかなかの力作。しかし「柘榴」と読む にはちょっと文字が足りないような?凝った書体と上手な絵で、内容と熱意は十分伝 わってきました。〈2023.4.10.〉



  マルマリス Marmaris 





マルマリス 港



リゾート気 分



木陰のカ フェでくつろぐ人々





アーケード 街



ビーチ



朝食の看板



楽しげな銅 像

ボドルムから南東へ約80キロの場所に、もうひとつのエーゲ海リゾートの街マルマ リスがあります。こちらはボドルムより規模が小さく落ち着いた雰囲気です が、ホテルやカフェ、レストラン、バーなどは充実しているので快適に過ごすことが できます。入り組んだ入り江にあるため海もおだやかで、街中のビーチで海 水浴を楽しむ人もたくさん。ここを拠点に、近くの小島や海水温泉、泥風呂などをめ ぐる日帰りボートツアーも人気です。ギリシャのロドス島はフェリーで1時 間ほどの距離にあります。街の人口は約3万5000人(2012年)。
保養地としては歴史があり、昔から英国からの観光客が多いと聞きました。英国式朝 食を出すカフェなどもあります。イスラム教徒がほとんどのトルコで、本物 の豚のベーコンやソーセージは普段あまりお目にかかりません。とくに、スコットラ ンドの朝食に欠かせない黒いソーセージは非常にレアです。一瞬食べてみよ うか、という気になりました。



中国式庭園





夕方の海岸 通り



前菜盛り合 わせ



鯛のグリル





夜の街角





ホテルの ビュッフェ式朝食



オーガニッ クをうたうドンドルマ



植え込み



ゆったりし た流れ

入り江の一角に突き出した「マルマリス城塞」以外、街中にこれといった観光スポッ トはありません。あくせく観光に走らず、まったりと休暇を過ごすにはか えってうってつけです。散歩をしていると、突然中国式庭園が現れました。マルマリ スは中国山東省の済南市と姉妹都市になっており、それを記念して2011 年にできた公園です。エーゲ海に中国の庭園、かなりギャップを感じます。
夜は海岸沿いのシーフードレストランで、ヨーグルトなどを使った前菜と焼き魚定食 です。リゾート地は概して割高の印象がありますが、ここは良心的な価格で した。暮れゆく海を眺めながら涼風に吹かれ、気持ちよく食事ができます。
夜になると通りに人が増え始めるのは、どこのリゾート地も同じです。マルマリスの 夜は適度ににぎやか、それがまた魅力のひとつとなっているように感じまし た。〈2019.5.31.〉



 




マルマリス 城塞



城壁から見 える港



城内案内図





展示室



アンフォラ



アルカイク 期のクーロス



手のひらに 乗るほどのライオン像



さまざまな 出土品

無休・夏期8:30〜19:00・冬期8:30〜17:00
マルマリスの入り江の突端にそびえているマルマリス城塞は、現在考古学博物館とし て公開されています。
ハリカルナッソス生まれの歴史家ヘ ロドトスによると、この地には紀元 前3000年から城塞があったそうです。前1044年にはイオニア人が住んでいた とも考えられています。町は前6世紀ごろにはフィスコスPhyskosと 呼ばれ、カリア王国に属していました。前334年アレクサンドロスがここを支配し た際、城塞を修復して使用したということです。15世紀中葉にオスマン軍 が一帯を征服した後、この城塞はギリシアのロドス島との攻防の際に堅牢な軍事拠点 として機能していました。第一次大戦中フランス軍の攻撃を受けて大破した ものの、1970年代には改修されて宿泊施設などになっていたようです。1980 年から1990年の大修復を経て、1991年に考古学博物館がオープンさ れました。



中庭の立像



柱に彫り込 まれたライオン



野外展示



石棺



ダッチャ出 土の石碑





クニドスの アポロン神殿から出土





テラコッタ 製



ヘレニズム 時代の大理石彫刻



ディオニュ ソスの奉納品



城塞裏の細 い坂道

お城の規模はボドルム城より 小さいものですが、この博物館も充実しています。城塞の塔の内部が展示室 になっており、近隣のダッチャやクニドスなどからの出土品を中心に、アルカイク期 から古典期、ヘレニズム、ローマ、ビザンツと各時代の発掘品を見られるの が魅力です。思いがけずアルカイク期(前7世紀から前5世紀ごろ)や古典期(前5 世紀から前4世紀ごろ)など古い時代の収蔵品が多く、この地方がその昔か ら栄えていたことがよくわかります。
クニドスのアポロン神殿から出土したフリーズは、神殿内にあった11メートル×7 メートルの祭壇に描かれていたものです。かなり劣化が進んでいますが、祭 壇のフリーズが残っているのは非常にめずらしいケースではないかと思います。アポ ロンに関連する神話的場面が浮き彫りになっています。
同じくクニドス出土のディオニュソスの奉納品は、1世紀から2世紀のテラコッタ製 ポットの一部。杯を持って千鳥足で歩くディオニュソスと、それを支えるサ テュロス、中央下にディオニュソスの標章であるパンサーが描かれています。

照明や展示の仕方などよく工夫されていて、小さいながらも見ごたえのある博物館で す。パネルの解説はていねいですが、出土品の年代が掲示されていないもの もありました。城壁から見下ろすマルマリス港の眺めは美しく、静かに滞在する街に ふさわしい観光スポットという雰囲気でした。〈2019.6.29.〉



  ダルヤン Dalyan




岩窟墓





蛇行するダ ルヤン川



ボート係留 中



南国の町並 み



ロータリー のウミガメ噴水



カフェや土 産物屋





ブーゲンビ リア



カフェ



英国式朝食



町並み



広場のアタ テュルク像



青空喫茶



ソーダの向 こうに岩窟墓



行き交う ボート



別荘風



ハイビスカ スのつぼみ

マルマリスの30キロほど東、キョイジェイズ湖Köyceğiz Gölüからエーゲ海に注ぐダルヤン川の河口近くにダルヤンの町があります。ここ はカウノスの岩窟墓や泥浴温泉のスルタニエ温泉Sultaniye Kaplıcası、アオウミガメが産卵に来るイズトゥズ・ビーチİztuzu Plajıなどが有名で、夏になると人口5452人(2019年)という小さな町 にその倍の人々が押し寄せます。とはいえそのほとんどはマルマリスからの 日帰りボートクルージングの観光客で、ダルヤンに宿泊する人はそれほど多くないよ うです。
美しいビーチあり釣りに最適な川ありで、ダラマン空港からも近く便利な場所です が、大規模なリゾート開発は行われていません。ビーチがアオウミガメ保護の ため特別環境保護地域となっているからです。空港から町に向かうバスで知り合った 学生は、ビーチでアオウミガメ保護のボランティアに数週間参加する予定だ と張り切っていました。

町には家族経営のホテルやペンション、バンガローなどがあり、静かに夏を過ごした い人々が訪れます。わたしが滞在した2019年9月上旬はまだ観光客も多 く、カフェやレストラン、土産物屋、ギャラリーなどがオープンしていました。マル マリスが昔から英国人観光客が多いリゾート地のせいか、ダルヤンにも英国 人が来るようで「英国式朝食」を出すカフェやトルコでは珍しいインド料理屋も並ん でいます。
ダルヤン川をはさんで向こう岸にある岩窟墓が一番よく見える場所に、チャイバフ チェ(青空喫茶店)があります。トルコでは普通こういう店にアルコールはあ りませんが、ここでは外国人観光客を意識してかビールなどもあり、絶景を眺めなが らお昼に一杯やってくつろぐ人がいます。ちょっとびっくりです。



食堂のウイ ンドウ



肉団子セッ ト



青レモン大 盛のチーズサラダ



フレッシュ サラダ



ホテルの中 庭



朝食いろい ろ









まだ青い無 花果



ブーゲンビ リア

そんなわけで、町は思ったほど混雑がなくのんびりした雰囲気です。食堂でテイクア ウトのサラダをレモン多めで注文すると青くフレッシュなレモンをぎゅう ぎゅう詰めてくれたり、別のパックにピクルスをつけてくれたり、地元の人たちはな かなか親切。観光客が多い場所とはいえ、観光ズレしている感じはあまりあ りません。
水辺の街で蚊が多いのではないかと心配していましたが、気温が高すぎるせいか特に 問題はないようでした。ただし暗くなってからお出かけの際は虫よけ対策を お忘れなく。〈2020.9.23.〉







ダルヤン川



岩窟墓







渡し船



向こう岸



岩窟墓入口



小岩窟墓群



一本道



民家



庭先





路傍の花





遺跡のパネ ル



ローマ浴場







ビザンツ教 会







教会のフラ グメント





湖遠景



彼方の城壁



風速測定器 の基壇

町の対岸にそびえるカウノスの岩窟墓が目を引きます。川を往来するボートツアーの 目玉のひとつで、ダルヤンのランドマークとも言えるでしょう。
これは前4世紀のカウノス王の墓と伝えられ、ヘレニズム時代の神殿を模した彫刻が 岩盤に施されています。こういう岩窟墓は古代カリア王国に多く見られるも ので、地中海地方デムレのミュラ(ミイラ)遺跡も 有名です。
ダルヤン川を小さな手漕ぎボートで渡って向こう岸に行きます。漕ぎ手は日に焼けた たくましい地元のお母さんが多いようです。向こう岸はにぎやかな町側とは まったく違う雰囲気で、船着き場にカフェはありますが他には店も何もありません。 細い道に畑や果樹園が続き、時折民家があるばかり、いきなり山奥の村に来 たようです。
ほどなく岩窟墓のふもとに着きます。岩山を登ってお墓を間近に見学できるはずでし たが、数年前に事故があったそうで立ち入り禁止になっていました。ふと脇 を見ると、岩山の連なりに小さな岩窟墓がたくさん見えます。この山全体が広大な墓 地になっているようです。

さらに2キロほど牧歌的な道を歩いていくとカウノスの遺跡があります。
最初のうちはぽつぽつあった民家もなくなり、歩いている人もいなくてちょっと心細 くなってきたところへ、大型トラクターに乗ったおじさん登場。遺跡までト ラクターに乗せてくれました。

カウノスには遅くとも前9世紀ごろにはカリア人が住んでいたと考えられています。 そのころのアンフォラの一部がここで発見されたからです。街はその後2度 に渡るペルシア支配を経る一方でギリシア化が進み、前334年アレクサンドロスが 解放、最終的にローマ帝国の同盟国ロドスの支配下に 置かれました。
現在のカウノスは海から8キロほど内陸にありますが、かつては2つの港を持つ港湾 都市でした。塩や塩漬けの魚、奴隷、造船に使う松脂などが取引され、ヘレ ニズムからローマ時代にかけて海上貿易の拠点として繁栄します。しかし海岸が土砂 で埋まり周囲は湿地帯となってマラリアが蔓延、オスマン侵略後の15世紀 に街は打ち捨てられました。

遺跡の入口は高台にあり、ここから下の方へと街が広がっています。
58メートル×28メートルという大規模なローマ浴場があります。その近くにある のが6世紀のドーム型ビザンツ教会で、内部のフラグメントに教会の面影が 残ります。カウノスにキリスト教が伝わったのは5世紀のことでした。
教会は浴場に付属して前2世紀に造られた運動場(パラエストラ)の真ん中に建てら れました。運動場自体は73メートル×85メートルという広さで、さらに それ以前の前6世紀には何らかの宗教施設があったそうです。
高台からはかつて海だった場所にできたスリュクリュ湖Sülüklü Gölが見え、彼方に城壁が残っているのもわかります。
円型の土台のようなものは、前120年に造られた風速測定器の基壇と考えられてい ます。基壇の直径は15.80メートル、その上層は13.70メートルあ り、都市を設計する際に使われたそうですが、倒壊してしまったため実際にどのよう に測定していたのかは不明ということです。



野外劇場



観客席



スカエナ エ・フロンス



坂道



階段



円型のテラ ス



ゼウス神殿



アゴラ






イオニア式



遺構



ニンファエ ウム



ベンチ



碑文つきテ ラス



湖畔



さまざまな 遺構







野生の王 国?









路傍の植物





青いレモン



柘榴畑



ジュース売 りのお母さん

前2世紀の野外劇場は5000人収容、33列の観客席と舞台奥の壁(スカエナエ・ フロンス)が残っていおり、観客席から湖が望めます。山の傾斜を利用した ギリシア様式の劇場です。座席や階段が崩れている箇所もありますが、最上部の列も 整っていてかなり保存状態はいい方だと思います。
劇場を下ると前1世紀にできた円型のテラスとゼウス神殿があります。ここは前5世 紀には神格化された英雄の神殿だった場所で、高さ3.5メートルのピラ ミッド型をした神聖な石が置かれていたということです。
前3世紀の広いアゴラを抜けると、泉の精霊ニンフを祀るニンファエウムが見えま す。ヘレニズムに建造されたものですが、水盤は1世紀になってから拡張され ました。一部は最近修復されたようです。
このあたりまで下るともう湖畔は目の前。当時の港からすぐ近くでおそらく街で一番 にぎわっていた場所だったのでしょうが、今は亀や家畜が闊歩して「野生の 王国」になっているのでした。

カウノスはカリア由来の街ですが、ギリシア神話にエピソードがあります。
アポロンの子でカリア王のミレトスとキュアネの息子、カウノスにはビュブリスとい う双子の妹がいました。ビュブリスは兄のカウノスに恋をし、思いのたけを 伝えます。これに激怒したカウノスはその忌まわしさから故郷を離れ、異境の地に新 しい街を興しました。
ビュブリスは嘆き悲しみ兄のあとを追いますが途中で力尽き、一説によると自ら死を 選びます。彼女は自分の流した涙で泉になってしまった、というお話です。
カウノスの父ミレトスはその名前から、同じエーゲ海地方の古代リディア王国に属す るミレトスの街に関連す るのかもしれません。ミレトスもまた土砂で海が埋 まって衰退した街でした。

かなり広い遺跡です。アップダウンはありますが道が整備されていて歩きやすくなっ ています。山の合間に建物が点在するという遺跡で適度に木が生い茂ってい るため、炎天下で日影がまったくないということはありません。それでも夏場は日よ けと飲料水の準備が必要です。地図や解説のパネルは必ずしも万全ではな く、ちょっと不便に感じました。
無休、夏期9:00〜20:00、冬期9:00〜17:00。

遺跡を後にして来た道を戻ると、道端の木陰でフレッシュジュースを売っているお母 さんが暇そうにしています。椅子もあったのでちょっと腰掛けて休憩。自分 のところの畑で獲れた柘榴やオレンジを絞って売っているそうです。搾りたての柘榴 ジュースはえぐみがまったくなく、冷たくてサイコーに美味でした。 〈2020.9.23.〉



  ダッチャ Datça



ダッチャ





街並み







特産品を売 る店





アタテュル ク像



レストラン 街





お土産物屋 台





夕暮れ時





前菜3種



スズキのグ リル

小ぢんまりしたリゾート地、マルマリスか ら西へ70キロあまりのところにダッチャがあります。古代カリ アの都市スタディアStadiaという名前が、長年 の間に変化してダッチャと呼ばれるようになりました。
東西100キロ、南北の幅約5キロから10キロという細長いダッチャ半島は南北を 海に挟まれ、街は半島の真ん中近く、南側の海に面しています。このあたり はエーゲ海と地中海の境目に当たり、北側がエーゲ海、南側が地中海といわれていま す。このサイトで「地中海地方」と「エーゲ海地方」、どちらにこの項を入 れようかと悩みましたが、行政区分上はムーラ県に属しているので「エーゲ海」の方 に掲載しました。
半島全体の人口は22.403人(2019年)、年々ゆるやかに増加しているよう です。

この地方は温暖な気候と肥沃な土地に恵まれ、古来よりオリーブやアーモンド、果樹 の産地として有名でした。ダッチャ半島は小さな入り江が多い複雑な地形の ため、海水浴にぴったりのスポットがたくさんあり、現在では休暇村が点在していま す。
とはいえ大資本の大型リゾートホテルは見当たらず、小規模のホテルやペンション、 アパートがほとんどです。そのせいか、ボド ルムやマルマリス発着のクルー ズの寄港地になっているにもかかわらず、外国人観光客が大挙して押し寄せることも ありません。むしろ、トルコ国内向けの保養地というおもむきで、一時はト ルコ人憧れの別荘地だったという話も聞きます。
最寄りのダラマン空港からはちょっと距離があり、アクセスがいいとはいえません。 2019年9月に訪れることができました。

街の中心部は観光客向けのカフェやバー、レストラン街などがあってそれなりににぎ やかですが、派手派手な感じはしません。普通の商店も混ざり合って、街全 体に明るく開放的な雰囲気が漂っています。海岸沿いはホテル街、その近くに手工芸 品やスーベニールの屋台が並び、夕暮れ時から営業開始です。
通りから一本入ると、土地の名産のアーモンドを使ったお菓子やオリーブオイル、蜂 蜜、ナッツ、ドライハーブなどを扱う店が多く、ナチュラル志向のディスプ レイが目を引きます。
お土産に蜂蜜とアーモンド・ヘルヴァbadem helvasıを買いました。ヘルヴァ(ハルヴァ)はトルコの伝統的なお菓子でい ろいろな種類がありますが、ここではアーモンドの粉とデュラムセモリナ、 砂糖を練ったものが有名です。どっしりもっちり系でしっかり甘い、素朴なおいしさ でした。



地中海の朝





朝陽に光る 花





ホテル



朝食







「古いダッ チャ」









海岸沿い





ブルガズ





遺跡らしき もの



放牧?



遺跡前の海

街から北西3キロあたりに、「古いダッチャeski Datça」と呼ばれるエリアがあります。昔の石造りの家を修復、再現した一角 で、小さなホテルやカフェが並び、新しい観光のスポットになりつつあるよう です。豊かな緑のなか、静かに散策を楽しめます。

一方、街の中心部から海岸沿いを2キロほど北上したところにあるのがブルガズ Burgazの遺跡です。ダッチャ半島の最西端にスパルタ人が興したクニドス Knidosという古代都市がありますが、ブルガズはそれよりも前にスパルタ人が 入植した最初の街だと考えられています。そのため、ブルガズは「古いクニ ドスeski Knidos」とも呼ばれているようです。
紀元前9世紀ごろにできたブルガズは4つの港を持ち、オリーブオイルやワイン、金 属類を輸出する海洋貿易で栄えていました。しかしやがて航海により便利な クニドスの方に拠点が移り、ブルガズは前4世紀ごろには廃れてしまったそうです。
散歩がてらに訪れてみましたが、海岸沿いは遊歩道となり、遺跡があると思われるあ たりは柵に囲まれていて入れません。ところどころに遺跡のようなものの一 部が見えるだけで、荒れ地のようになっています。まだほとんどが未発掘なのかと思 いましたが、実は発掘調査が1993年から2013年まで続けられ、現在 は保存のために埋め戻してあるということです。
遺跡のすぐ脇の海は波もおだやかで、海水浴を楽しむ人が見えます。このあたりまで 足を延ばすと混雑もなく、気持ちよく泳げそう。

わたしが泊まったホテルはプール付き、もちろん目の前は地中海でリゾート気分たっ ぷりでした。ホテルのスタッフがたいへん気さくで、見学に疲れて帰ってく るとトルココーヒーをご馳走してくれたり、あれこれおしゃべりしたり。街で出会っ た人たちもみんな親切で感じがよく、好ましい印象を受けました。美しい空 と海ばかりではなく、そんな温かみがあるところもこの街の魅力かもしれません。 〈2020.10.31.〉


 




左地中海、 右エーゲ海



地中海側



エーゲ海側



地図



野外劇場







右側がスト アとテラス



元ディオ ニュソス神殿





ストア



テラス



膨大なフラ グメント









軍港





教会






無休・夏期8:30〜19:00・冬期8:30〜17:00
ダッチャから西へ約35キロ、ダッ チャ半島の最西端にカリアの古代都市 クニドスの遺跡があります。港湾都市として栄えた旧クニドス(現ダッチャ)から、 紀 元前360年代にこちらへ拠点が移りました。いずれもスパルタ人の街です。
かつては半島の先端に橋があり、その先が島だったのか岬の一部だったのか諸説ある ようですが、現在は砂地でつながっています。この狭い砂地をはさんだ北側 がエーゲ海、南側が地中海ということで、ふたつの海が出会うめずらしいポイントと しても有名です。
クニドスは近郊で獲れる葡萄を使ったワインや果実酢、オリーブオイルなどが有名 で、それらの貿易拠点として繁栄しました。ワインビネガーは特に品質が高 く、評判だったそうです。前2世紀以降は陶器の輸出でも名が知られたといいます。

ヘクサポリス(六都市連合)に属していたクニドスは、ペルシア、ローマ、ビザンツ 各帝国の支配下に置かれた時代を通して、経済だけではなく医学や天文学な ど文化的にも重要な都市でした。古代世界七不思議のひとつ、アレクサンドリアの大 灯台を設計したソストラトス(前3世紀ごろ、生没年不詳)はクニドス出身 とされています。
身体をわずかにかがめて右手で前を隠して立つ「クニドスのアフロディテ」は、世界 で最初の等身大裸身像です。前4世紀アテナイの彫刻家プラクシテレス作の 美しい大理石の彫刻は、クニドスの守護神として屋外の神殿に祀られていました。そ の姿は当時の貨幣にも刻印されています。オリジナルは現存せず、現在見ら れるものはローマ時代の複製で、さまざまなバリエーションがあります。

遺跡の敷地に入る前から、海に面した野外劇場が見えます。ヘレニズム時代の小劇場 で約8000人収容とありますが、それほど大きく感じられません。今ある 観客席からかなり上部にも座席があったのかもしれません。それよりも、8000人 も入る劇場が「小」というのが不思議です。丘の方には「大」劇場もあった ようで、そちらと比較すればということでしょうか。海岸線ぎりぎりに建っていると いうのが特徴的です。

広く平らな街の中心部は碁盤状に道が整備されていました。132m×13mという ストアはヘレニズム時代に作られ、後に改築拡張されたということです。山 側はテラスになっていて、階段や壁が残っています。
出土品が整然と置かれているエリアの真ん中に、ひときわ白い大理石の土台が見えま す。かつてはディオニュソスの神殿があった場所で、その後教会になった場 所です。

さらに海寄りに進むと、砂地をはさんで南の地中海側が大きな商港、北のエーゲ海側 が小さな軍港になっており、現在は北の港の一部が残されています。このあ たりの景色は素晴らしく、青い海のグラデーションと遺跡のコントラストが見事で す。港のすぐ脇にあるのは、6世紀にできた修道院や礼拝所の総合施設跡。港 付近には他にも大きな教会があります。



アポロンの 聖域?



円型神殿






コリント式 神殿



アクロポリ ス



道なし看板 あり



詳細不明の 遺構





中央が砂州



ドリス式神 殿



日時計



路傍の花



遺跡で海水 浴







地中海側 ビーチ



カフェ



ヘレニズム の邸宅



邸宅脇の階 段



途中にある 村



村の露店

港から斜面を登っていくと、アポロン神殿や円型の神殿、議事堂などがあります。円 型神殿の土台は灰色大理石で、かつては東向きに祭壇がありました。この神 殿にアフロディテの神像が置かれていたという説もあるようです。コリント式の神殿 は見晴らしのいい高台にあり、コリント様式の柱が並んでいたことからこの 名前で呼ばれています。いずれも2世紀の建立。

このあたりから通常のルートをはずれて、丘の方へ登ってみました。「アクロポリ ス」とか「デメテルの聖域」と書かれた案内の看板はありますが、道はありま せん。彼方に見える何かの遺構をめざして藪のなかを突っ切っていきます。大劇場も この方向にあるはずですが、見つけることができません。何だかわからない 遺構から港を見下ろすと、素晴らしい景色が広がります。砂州をはさんで左右に二つ の海があるという地形がよくわかります。
元のルートまで下るとドリス式のストア、教会、前4世紀の日時計があり、さらに 下って野外劇場に戻ります。一見すると椅子のような日時計は当時の典型的な タイプのもので、街の目立つ場所に置かれていました。
総じて大きな教会が多い街という感じです。キリスト教がローマ社会で公認されたの は4世紀。ヘレニズムからビザンツ時代まで途切れることなく都市として機 能していたクニドスでは、その痕跡がはっきり残っています。各時代の遺構がランダ ムに見学できて、たいへん興味深い遺跡でした。

海沿いの斜面を登る途中、眼下の小さな入り江で海水浴をしている人が見えました。 地形的に沖からボートでアクセスするか、遺跡の敷地内から下っていくしか ありません。見学ルートから脇にそれて入り江に下る小道があり、みなさんそこを 通って来たようです。
まさか、遺跡構内で泳げるなんてびっくり!
ダッチャ半島の最先端、エーゲ海側。半径数10キロ以内に集落はありません。海の きれいさといったら尋常ではない最高の場所です。
翌日水着を用意して、もう一度行ってみました。水の透明度は申し分なく、波もおだ やかです。先客が「このへんから水に入るといいですよ、あっちの方は ちょっと危ないから」などと教えてくれます。何が危ないのかと思っていたら、どう もウニがいるようで、棘に刺されて難儀する人がいました。砂浜ではなく小 石の多い海なので、気をつけないといけません。
いわゆる「海水浴場」ではないので、雰囲気がまるで違います。海に入ると、自然と 直接交流しているようなダイナミックさが感じられます。日射しもダイナ ミック過ぎて、瞬時に黒焦げになります。
思いがけない場所で海水浴ができて、遺跡とともに強く印象に残りました。

遺跡の敷地はかなり広く、港近くの平地に集中する遺構の他に、彼方に見える丘の合 間に神殿などが点在しています。斜面は岩がごろごろ、夏草が生い茂り、道 も定かではありません。街の中心部だけの見学なら道も整備されており、多少のアッ プダウンがあるだけで問題ありませんが、全体を歩こうとすると、荒地を横 切り斜面を登り、というかなりきびしいコースになります。通常の見学ルート以外の 遺構を見に行く際は、足元に十分注意が必要です。
所々に地図や解説パネルはありますが、あまり丁寧なものとはいえません。まだ発掘 調査や修復が行われている区画もあるようでした。
遺跡の入口近くにお手洗いやちょっとしたカフェがあり、その前の海岸はパラソルと 椅子付きの小さな海水浴場になっています。こちらは地中海側で、ヨットな どが係留されていました。

遺跡に行く途中、数キロ手前の斜面にヘレニズムの邸宅と階段の遺構があります。ク ニドスの街が港付近からそこまで広がっていたわけではなさそうなので、郊 外にある別荘か何かだったのかもしれません。前2世紀にできた二層建築で、上階は フレスコ画やスタッコで装飾されていました。保存状態のよい断片はボドル ムの水中考古学博物館に保管さ れているということです。

バスでダッチャからクニドスへ行く場合は、途中で海水浴ができる村を通ります。ひ なびた集落で観光客も少なく、ダッチャのホテルでも薦められたビーチで す。おじさんが道端で特産のアーモンドや蜂蜜、自家製ジャムやピクルスなどを売っ ています。静かで景色のいい穴場がたくさんありそうなダッチャ半島でし た。〈2020.12.1.〉



 


キュタフヤからアイザノイへ



高台にある神殿





アイザノイ

無休・8:30〜19:00
古代都市アイザノイは、エーゲ海地方最北部のキュタフヤKütahya県にありま す。エーゲ海地方なのにエーゲ海からはかなり遠く、どちらかといえばイスタンブー ルのあるマルマラ海に近い場所です。一帯は標高500メートルから1200メート ルという山がちの内陸部で、気候も乾燥して暑さ寒さが厳しいステップ気候となって います。実際に行ってみると、エーゲ海沿いの他の地域とは景色や雰囲気がだいぶ違 うことがわかります。キュタフヤは陶器の製造が有名で、トルコのタイルや陶器の多 くはここで製造されているのでした。

アイザノイは県都のキュタフヤから57キロ南西のチャヴダルヒサール Çavdarhisarにあります。
前12世紀ごろアナトリアに入ってきたフリュギア人は、前8世紀から前7世紀にか けてこのあたりに強力な王国を築きあげました。彼らがペンカラス川 Penkalas(現コジャチャイKocaçay川)上流、標高約1000メート ルの高台に興した街がアイザノイです。発掘調査によると、それよりはるか以前の前 3000年ごろすでに人が住んでいた痕跡が認められるということでした。
また、アイザノイという名前はギリシア神話に登場するニンフ(精霊)のエラトーと 神話的人物アルカスの息子アザンに由来するという説もあります。

フリュギア王国の後、ヘレニズム時代にはペルガモンとビテュニアで統治争いがあ り、前133年ローマ帝国の属州となります。街は穀物、葡萄酒、羊毛の生産で豊か になり、貨幣も発行していました。2世紀から3世紀にかけて政治経済の中心として 繁栄を極めます。
ビザンツ時代にはキリスト教の司教制度の中心地でしたが7世紀にはその影響力を失 い、13世紀セルジューク時代に街はチャヴダル・タタール人の軍事基地として使用 されました。現在の地名になっているチャヴダルヒサールは「チャヴダルの砦」とい うほどの意味です。



ゼウス神殿



神殿前に置かれたレリーフ



遺跡に咲く花



神殿地下





列柱と拝殿

この遺跡の最大のポイントは、街の中でも小高い場所にそびえるゼウス神殿です。擬 双翅形という建築様式で35メートル×50メートルという大きさ、2世紀の建立で す。アナトリアでは最も保存状態がよいとされ、神託所だったと考えられる地下室も 残されています。地下は外からの光が差し込み、神秘的な雰囲気が漂っているようで す。
アイザノイは経済的に成功したばかりではなく、宗教的な中心地としての役割も持っ ていました。この神殿はゼウスだけではなく、アルテミスやアナトリアの地母神キュ ベレーも祀っていたという説がありますが、詳細はまだ解明されていません。



野外劇場



スカエナエ・フロンス



反対側

野外劇場とスタジアムは複合施設になっており、珍しいタイプのものということで す。しかしスタジアムの遺構ははっきり見えず、どういう具合に劇場と複合していた のかわかりません。約5500人収容できる劇場は丘の斜面を利用したギリシア様式 で、舞台背後の高い壁(スカエナエ・フロンス)も残っています。160年から3世 紀中葉にかけて修復や増築が繰り返されましたが、現在の修復はあまり進んでいると は言えない状況です。





公衆浴場





出土品

敷地内には公衆浴場が2つあります。ひとつは劇場の東にある2世紀後半のもの、も うひとつは南の神殿近くにある3世紀のもので、こちらは浴場の後に司教座として使 われていました。床にモザイクが施されているそうです。他にはネクロポリスや4世 紀建造のストアなどの遺構があるはずですが、解説のパネルも何もなくよくわかりま せんでした。

少し離れた場所にメーテル・ステウネネMeter Steuneneというたいへん異国的な響きを持つ女神の聖域があり、粘土製の神像などが多く出土しています。儀礼で使われたと考えられる洞窟は現在崩壊 しているということです。おそらくこの聖域周辺にフリュギア人が最初に住み始めた のではないかと考えられています。
この女神の由来がはっきりしません。他の地域ではあまり聞いたことのない名前で す。前1世紀以前から信仰されていたアナトリアやフリュギアの地母神と伝えられる ので、ゼウス神殿に祀られていたというキュベレーやアルテミスと関係があるのかも しれません。



さまざまな遺構





茫漠

アイザノイは人里離れた山奥にあるというわけではありませんが、敷地内や周辺にお 店や休憩する場所は見当たりません。訪れる人も少なく、人っ子ひとりいない茫漠と した風景が広がるばかりです。
遺跡はかなり広域にわたり、起伏もそれほどなく歩きやすくなっています。神殿や公 衆浴場の一部を除くと、あまり復元は進んでいないようです。解説パネルも数が少な く、おまけに文字がかすれて読みづらくなっています。せっかく印象的な神殿がある のに、現存する建造物のほとんどがローマ時代という比較的新しい時代のものなの に、放ったらかしという感じで何とも残念でした。



ローマ時代から現役



ペンカラス川



近所の花

遺跡敷地の外、神殿の東に当たる公道にローマ時代の157年開通という橋がありま す。1990年に欄干が強化されて現在も使われており、他にも現役の橋があるとい うことです。当時の建築技術の素晴らしさに驚かされます。
2019年に川の近くで大量のローマ硬貨が発掘され、2021年には別の場所で ディオニュソスとアフロディテ像の頭部が発見されました。今後さらなる調査、研究 が期待されるところです。〈2023.8.14.〉






フリュギア渓谷



岩山と洞窟群









ビザンツ様式岩窟教会

無休・見学自由
キュタフヤから約100キロほど南下すると、アフヨンカラヒサール Afyonkarahisarの街があります。アフヨンカラヒサール県の県都で す。ここから約30キロ離れたアヤズィニAyaziniに「フリュギア渓谷」と呼 ばれる一帯があります。
ごつごつとした岩山を削って作った住居、墳墓、教会などが点在する地域です。洞窟 は300以上、キリスト教の教会や礼拝堂などは35あるといわれます。他に類を見 ない独自な遺跡群です。

洞窟教会や住居といえばカッパドキアが 有名ですが、こちらの渓谷はそびえ立つ奇岩 や高く険しい岩山が連なっているわけではありません。荒涼とした大地に所々隆起し た岩山があり、そこに教会や洞窟住居、墳墓などがあるという感じです。松が生い 茂っているところはさすがエーゲ海地方。
歴史の古さはカッパドキアに負けていません。前8世紀ごろからフリュギア人が定住 し、その後ローマ、ビザンツ、セルジュクの各時代を通して岩窟が残されてきまし た。いずれも考古学的にたいへん貴重なものとされています。



ライオンゲートの岩窟墓





崩れたライオン



エーゲ海地方の沿岸部では遺跡に牡牛のモティーフが多く見られますが、このあたり はライオン文化圏です。墳墓入口に向かい合って後ろ脚で立つ2頭のライオンのレ リーフもあります。岩が一部崩壊してライオンが下を向いてしまっているものも。



フリュギア街道



切り通し





「王の道」?

当時利用されていた街道も残っています。馬車の轍が刻まれ、その歴史の長さが感じ られます。切り通しのように岩山を削って細い道が作られた箇所もあり、両壁に残る ノミの跡が古代の人々の努力を伝えているようです。



家畜の群れ





渓谷に行く途中にはぽつんぽつんと小さな集落があるばかり。山羊や牛の群れが狭い 道一杯に広がり、車を停めて御一行様が通り過ぎるのを待つこともたびたびでした。
アヤズィニの人口は945人(2021年)、人間より家畜の数の方が圧倒的に多い 地域です。牛や山羊を追う村の人々は、彫りは深いけれどどこか東洋風な顔立ちをし ています。この地方独特の様子の人たちだと後に聞きました。



トルコ語とドイツ語の地図



遺跡の花

7、8年前に訪れた時は、トルコ国内でもほとんど知られていないスポットでした。 一帯に柵などはなく、どこも見学自由です。家畜が洞窟から顔を出していることもあ りました。
国道沿いにあまり役に立たなさそうな地図があるだけで、遺跡には解説パネルも何も なく、すべて自然に任せるままになっています。もちろん周囲には何もなく、家畜を 引き連れた村人をのぞくと人っ子一人いません。遺跡保存や見学者の便宜といったこ とをいっさい考えていないように見受けられました。
近年はここを修復保存し、飲食店や土産物店、宿泊施設などを整備して観光地にしよ うという動きがあるそうです。考古学者はもとより、地元の人々やここを訪れる人々 にとって好ましい状況になっていけば素晴らしいことだと思います。〈 2023.11.07. 〉



アフヨンカラヒサール Afyonkarahisar




「カラヒサール」





街の中心部

アフヨンカラヒサールの県都アフヨンカラヒサールは、街のどこにいてもその名前の 由来となる岩山が見えます。カラヒサールとは「黒い要塞」という意味で、街の中央 にそびえ立つ岩山にはヒッタイト時代の前1350年代ごろから堅牢な要塞が築かれ ていました。
アフヨンはトルコ語で「阿片」という通り、オスマン時代ここは阿片生産の一大中心 地でした。日本ではアフィヨンと記載されることが多くありますが、トルコでは「ア フヨン」と呼んでいます。
大理石の産地でもあり、希少な種類のものがイスタンブールのアヤソフィアはもちろ ん、ローマのパンテオンやバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にも使われました。



古いオスマン式民家



商店2階部分



ウル・ジャーミー



木造の天井

標高1021メートルに位置する街は古代より東西南北に街道が伸び、交易の拠点と して栄えました。
ヒッタイトの後、フリュギア、リディア、ペルシア、ローマ、セレウコス朝、ペルガ モン王国、ローマ帝国などの支配下にありました。ビザンツ時代の740年にはアラ ブ包囲に勝利した記念としてニコポリス(勝利の街)と呼ばれます。1071年セル ジュク時代にカラヒサールと名前を変え、1392年オスマン支配となりました。
第一次大戦中トルコ西部ガリポリ(ゲリボル)半島の戦いで捕虜となった連合軍兵士 が、岩山の麓の教会に収容されていた時期もあります。この時の実話をもとに、 2014年「ディバイナー  戦禍に光を求めて」という映画が作られました。オーストラリア・アメリカ合作、オーストラリア人俳優のラッセル・クロウ初監督作品です。連合軍とはいえ、 ガリポリ上陸作戦で実際に応戦したのはオーストラリア・ニュージーランド人軍団 (ANZAC)がほとんどだったのでした。



商店街



早朝



ジャーミーとハマム(公衆浴場)

高地だけあって気候は冷涼、年間でもっとも寒い1月の平均最低気温は0.2℃、 もっとも暑い7月は平均最高気温22.1℃となっています。とはいえ最低気温 -37℃、最高38℃という記録もあり、なかなかきびしい気候のようです。雨は少 なく乾燥しています。
要塞の東側に市場やレストランなどがありにぎやかです。観光地というわけではない せいか、全体に落ち着いた雰囲気で、歴史を感じさせる街並みが広がります。市の人 口は345,996人(2022年)。



スジュック



チーズ各種





街角のパン屋



焼き立て



胡麻パン屋台

乾燥した気候を利用して、スジュックというスパイスやガーリックたっぷりの牛肉 ソーセージが名物です。酪農も盛んで、いろいろなチーズやこってり濃厚なクリーム のカイマックも豊富に並んでいます。街角では直径30センチ以上もある熱々の平た い丸パンを売っていて、夕暮れ時に香ばしい匂いを漂わせていました。



レストラン



仔羊煮込み





トマトとピクルス



ピラフ添え



カイマック

夕食に入ったシックなレストランでは、さまざまな煮込み料理が並んでいます。煮汁 に浮かぶ脂の分量に一瞬だじろぎますが、実際に食べると見た目ほど重くありませ ん。ほろほろと柔らかく煮えた肉の塊は滋養満点、たいへんおいしく頂いたのでし た。〈 2023.12.17. 〉






ミダス・シティ





無休・見学自由
アフヨンカラヒサールから北へ50キロほど行ったエスキシェヒル Eskişehirにも、フリュギアの遺跡が多く残されていました。
ミダス・シティはフリュギア渓谷に連なる小高い丘の一帯にあり、丘のあちこちに無 数の遺構が点在しています。シティといっても人々が生活していた場所ではありませ ん。ミダス王のモニュメントや神殿、墓地などがあるエリアで、フリュギア人にとっ ての宗教的な中心地だったと考えられています。かつてはここがミダス王の墓所とさ れていた時期もありました。



ミダス・モニュメント



フリュギア文字



高さ17メートルという堂々たるミダス・モニュメントがそびえ立っている…のです が、この時は修復中で周囲に足場が組まれ、本来の姿を見ることができませんでし た。それでもその大きさに圧倒されます。
これは巨大な岩盤を平らに削り、そこにミダス王を讃える文言を古代フリュギア語で 刻んだ記念碑で、トルコ語で「刻印された岩Yazılıkaya」と呼ばれます。 足場の間からわずかにその碑文が垣間見えました。碑は地母神キュベレーの神殿とし て、前7世紀の王の死後に作られたと考えられています。

ミダス王はギリシア神話に登場する人物で、「王さまの耳はロバの耳」や、触るもの がすべて金になるというお話が有名です。もっとも、その伝説上の王とここに奉られ ている王が同一人物なのかどうかは、はっきりしないということでした。



「40の眼」



貯水池



碑のすぐ隣にクルクギョズKırkgözという奇岩が鎮座しています。「40の 眼」という名前の通り無数の穴が穿たれていてちょっと不気味です。かつては住居と してビザンツ時代まで使われていましたが、浸食によってそれぞれ部屋が露出してい まい、現在のような妖怪じみた形になりました。

丘を歩いて行くと大小の貯水池があちこちに見られます。なかには地下に降りて行く 階段つきの貯水地もありました。その大きさや岩盤を削った階段などがあることか ら、単なる貯水池ではなく何らかの宗教的な意味を持っていた場所ではないかと考え られています。



岩窟墓





わだち



さまざまな遺構





祭壇?

岩窟墓は無数にあり、いずれもさまざまな時代を通してさまざまな人々によって造ら れたものです。轍がくっきりと刻まれた道もあり、往来した人々がどれほど多かった かがわかります。



丘からの眺め



道路脇の道標

丘からの眺めが最高です。広々とした大地を見渡すことができ、すがすがしい気持ち になります。
敷地は囲われているわけでもなく、出入り自由です。丘なので多少のアップダウンは あるものの、階段や石を敷き詰めた歩道もあり歩きやすいものでした。時折道しるべ の看板はありますが、それぞれの遺構の解説パネルはほとんどありません。あっても 文字がかすれて読みづらくなっています。お手洗いも何もなし。他に見学者は誰もい ませんでした。
たいへんめずらしい遺構があるのに十分管理されているようには見えません。周囲に 民家はありますがお店などはないので、訪れる際にはそれなりの準備が必要です。



ライオン神殿



ファサード

この丘の近くに「ライオン神殿Aslanlı Mabet」と呼ばれるフリュギア時代の遺構があります。向き合ったライオンのレリーフがファサードにきれいに残っており、左右の階段は他にはない独特な スタイルです。当時の建造物(神殿?)を模倣した形だそうで、こうした墳墓によっ てフリュギア時代の建築の詳細が後世に伝えられました。
神殿とはいうもののこれも岩窟墓で、正面中央に盗掘された時にできたと思われる大 きな穴がぽっかりと空いています。民家に隣接、というか密着しているのもすごいと ころです。



キュンベット



細部の彫刻



キュンベットKümbetは11世紀セルジュク時代の偉人のお墓で、村のなかにぽ つんと建っています。本来キュンベットは「ドーム」「キューポラ」といった半球形 の屋根のことでした。お墓の主がどんな人だったのかはわかりません。
閉ざされている出入口周辺などに美しい彫刻が残っています。そのモティーフや建材 の違いを見ると、それ以前の時代の建造物から転用したものなのかもしれません。
屋根の天辺のコウノトリの巣がかわいい装飾のように見えます。



木の実



アザミに似た黄色の花

岩だらけの丘や人影も見えない小さな村にひっそりと眠る遺構の数々。
あまり知られていないだけで、実はこういう場所がアナトリアにはまだたくさんある のだろうなあ、としみじみ思ってしまうのでした。
(この遺跡群は行政区分としてはエスキシェヒル県に属していますが、フリュギア渓 谷の続きにあるためアフヨンカラヒサールの項に掲載しました。) 〈2024.02.01〉

〈この項続く〉