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フズリさんの部屋 Fuzuli’nin Odası その3


  『イズミールからアンタルヤへ』   



『イズミールからアンタルヤへ』

2014年に『イズミールからアンタルヤへ İzmir’den Antalya’ya 』という本がイスタンブールで刊行されました。これはフズリさんを始めとするガイド23名が、エーゲ海地方イズミールから地中海地方アンタルヤまでの間に ある遺跡や歴史、特産品などについてそれぞれエッセイを寄せたものです。編集はフズリさんの友人アフメット・ファイク・オズビルゲ Ahmet Faik Özbilge さん。彼は「マルマラ海の無人島めぐり」といったような、とてもユニークなトルコ人向けツアーを企画しているガイドで、この本でもいくつかの章を担当して います。
ここで扱っている地域は、トルコ南西部の沿岸地方が中心です。夏のリゾート地で有名な場所がたくさんありますが、もっぱら知的好奇心をかき立てるような テーマを中心にしたエッセイが並んでいます。実用的なガイドブックというよりも、読んでその地方を知るための手引き書という体裁です。
フズリさんはエーゲ海地方の音楽について書いています。ご本人の承諾を得て、ここにその翻訳を載せることになりました。本文に註はありませんが、日本人に あまり馴染みのない事柄については簡単な訳註をつけてあるので、ご参考になさってください。〈2015.2.28.〉



  「エーゲ海最後のラプソディ」 EGE’DE SON RAPSODI  


フズリ・ブルット



エーゲ海

エーゲ海は、その両側にあるふたつの大陸と島々という三つの地理学的な要素で構成されています。地中海全体から逃れるように北東へ600キロ入ったところ にあるエーゲ海は、「アーキペラゴ」1)と呼ばれるにふさわしい海です。エーゲ海はその海域で ホメロス、ヘシオドス、ピンダロス、サッフォーといった古代 のもっとも重要な人物たちのほとんどすべてを育んだのですから、それが歴史の舞台に登場することは言うまでもありません。

そしてエーゲ海と音楽をめぐる冒険は、神話なくしては理解も説明もできないでしょう。エーゲ海は音楽が誕生した場所です。原初の太鼓に皮が張られたのはク レタ島ではなかったでしょうか?パーン神の笛の物語を知らないでエーゲ海を語ることができるでしょうか?

この土地では、すべてが音楽とひとつになっています。ここでは水や山の精霊、森や樹の神々、女神たちは音楽や踊りなくしては存在しえません。祭、ハライ 2)、儀式がおこなわれます。歌が歌われ、『讃歌』が書 かれます。「ハリカルナッソスの漁夫」3)はこう言いました。「エーゲ海ではホメロスの時代 だった ころ、エジプトでも文明があった。しかしエジプトの人々はその顔を死の方へ向けていた。ところがアナトリアは生命への愛でにぎやかに活気づいていたのだっ た。おそらくこうした状況の原因は、森と花々におおわれ毎日太陽が当たる山の斜面や、きらきらと輝き心が開けるような海にあった。」まさにこうした環境の なかで、パーン神はわたしたちの前に現れるのです。



エフェス

パーン神は樹のニンフ、シュリンクスの虜になりました。シュリンクスは他のニンフと同じように美しく、そして捕まえることはできません。乙女は逃げます が、パーン神は追いかけます。ちょうどアポロンから逃れたダフネのように、ついにニンフは大地に根を下ろし、葦に姿を変えて身を守りました。ある小川のほ とりで地面に茂ったこの葦に風が吹くと、甘い甘い調べが湧き上がります。パーン神はこの葦を蜜蝋で束ね、7管の笛をこしらえました。「シュリンクスの牧童 笛」と呼ばれるものです。言い伝えによると、パーン神が最初に作ったこの笛は、エフェス(エフェソス)の洞窟に置いてあったそうです。その洞窟で は、若い 娘が処女かどうかを試されたといいます。その娘が処女であれば、調和の取れた甘い調べが聞こえて洞窟の扉は自然に開き、娘は松の枝でできた飾りを頭につけ たまま出てきます。もしそうでなければ怖ろしい叫び声が聞こえ、数日後に扉を開けると娘の姿が消えているのがわかったそうです。

女神キベレの崇拝でも、マルシュアスが使った2管の笛とよく似た牧童笛と一緒にタンバリンが使われます。この笛を見つけたアテナが笛を吹いたとき、頬が醜 くふくれている自分の顔が小川の水面に映っているのを見ました。そこで自分の顔を醜くさせたといって、この笛を作った者を呪ったといいます。そのせいで、 アポロンと参加した音楽競技で負けたマルシュアスの最期は怖ろしいものとなりました。アポロンはマルシュアスを樹に縛りつけ、皮を剥いだのです。後にアポ ロンはこれを後悔し、マルシュアスを川に変えました。ギョクベルを流れるチネ川4)がその川だ ということです。

古代では笛の吹き方を知らない者はいないようでした。ソクラテスも笛を吹いたそうです。正しくは笛のような名調子で言葉を語ったということですが。プラト ンの『饗宴』からそれがわかります。アルキビアデスはそこでソクラテスをシレノスにたとえて言いました。「みなさん、私はソクラテスを讃えるためにいくつ か例をあげましょう。最初はこの方をシレノスの像に、笛を吹くシレノスにたとえます。あなたは笛の吹き方をご存知でしょう?それほどご存知なら、マルシュ アスはあなたの足元にも及びません。その名調子は神からの贈り物だから、人々を魅了するのです。あなたをマルシュアスから分かつものは、楽器も笛もなくし てただ言葉だけで同じことをなしとげるという点です。あなたが語るとき、あるいはまたあなたの言葉を伝える者がたとえ拙劣であっても、女性や男性、子供た ちは手を止めて耳を傾け、わたしたちはそれに心を奪われるのです。」

口承の伝統が重要だった時代には、吟遊詩人たちから伝えられた物語は、リズムのあるはっきりした韻律で語られました。そうすると聴衆は理解しやすく、暗唱 しやすかったのです。経典などもそうでした。すべての祈祷は、詩の形式で節をつけて語られると覚えやすいものです。ホメロスの作品も詩として語られ、暗唱 されたそうです。『先史時代のエーゲ海』5)でジョージ・トムソンはこう述べています。「原初 の歌と踊りは未分化で、全体の言語的要素が詩の原型だった。 詩は明らかに韻律をもって作られ、暗記され、朗誦されたのである。歴史時代に吟遊詩人は手に杖を持って詩を朗読していた。かつて杖だったものが竪琴にな り、吟遊詩人や詩人たちはそれで伴奏をつけるようになった。」
パウサニアス6)の説明でその見事な例を見ることができます。つまり、ホメロスとヘシオドスは おそらくデロス島の詩の競技で互いに出会ったというものです (パウサニアスの物語はヘロドトスに依拠していますが、ヘロドトスがどれほどふたりの吟遊詩人が同時代の人間だったと主張しても、他の文献ではホメロスは 紀元前5世紀、ヘシオドスは紀元前8世紀に生きていたと指摘しています)。競技でヘシオドスは詩の才能を竪琴で見せることができず、負けてしまいました。
これとは別の例もオデュッセイアの第4歌にあります。テレマコスがスパルタに到着したとき、メネラオスは結婚披露宴を催しました。そこである吟遊詩人が竪 琴の伴奏で詩を朗唱し、ふたりの曲芸師も歌を歌いながら中央でくるくる回り続けたのです。ピンダロスの『讃歌』(現在までにピンダロスの作品はわずか3つ しか残っていません)でも、賞讃を勝ち取った人物は自分の町に戻ると成功を祝福され、その名誉のために音楽を伴った儀式が用意されたとあります。

楽器と吟遊詩人との関係は次第にはっきりとした秩序と韻律を手に入れ、やがてホメロス以前の時代に月桂樹の枝だったものが竪琴に取って代わられました。ホ メロスより前の時代、吟遊詩人は月桂樹の枝を手にして歌を歌っていたということはわかっています。この月桂樹の枝は彼を他の吟遊詩人と区別する目印とな り、それが「ラプソード」という名で思い起こされます。後にラプソードということばは、ホメロスだけを朗唱する吟遊詩人のために使われました。ラプソード たちは『イーリアス』を読む時は赤い服を、『オデュッセイア』を読む時は青い服を着ていたのです。
一方「ラプソディ」という言葉は、「ラプソードの歌う歌」という意味でした。昔は小学校などで子供たちもラプソディを歌いました。とりわけ季節について学 ぶときはさまざまな色の服を着て、たとえば「わたしは春が大好きよ、だから服はみんな緑色、この色とっても大好きよ」という歌を歌いながらダンスをしたも のです。
忘れないうちに述べておきましょう。ホメロスの詩は最後にペイシストラトス、あるいはその息子のヒッパルコスによって編纂されて「ラプソディ」と名づけら れたため、この言葉は「編纂された詩」という意味になったそうです。そのため、先に触れた披露宴などで『讃歌』は楽器の伴奏で朗唱されました。こうした朗 唱や歌のリズム形式は、すべてヘクサメトロス7)でした。さらに後にはアルキロコス(前7世 紀)8)が作り出したテトラメトロス、トリメトロスといった韻 律が使われたということです。



リキア地方の岩窟墓

要するにギリシアの詩は、歌やダンスがひとつになった原初の宗教儀礼などが改良されて発展したようです。ある1つの例をオレンが示しています。オレンはリ キア9)生まれの吟遊詩人でした。デロスに住み、アポロン神のために讃歌を書いたといわれま す。そのうちのひとつは、思春期を新たに迎えた少女や少年たち から成るふたつのコーラスによって歌われました。また別の讃歌は出産を司る女神への呼びかけでした。レトが出産する間、デロス島のニンフたちが「助産の女 神エイレイテュイアの神聖な歌」をささやいたとき、アナトリアから飛来した白鳥もレトの枕元で7つの歌を歌ったと伝えられています。



ヒポクラテス



ヒポクラテスの医療施設があったアスクレピオ ン(ベルガマ)



  治療が行われる神殿へ続くトンネル

起こった出来事を解釈する際、あるいは自然現象を説明する際、哲学と科学が宗教的神話の代わりをする以前には、音楽が宗教的性格を帯びていました。しかも ある神々は楽器と同一視されていたということです。こうした神々を讃える歌の型もありました。日々の生活のあらゆる場面に音楽が存在していました。どれほ どかというと、馬を交配させる時に奏でられる歌まであったほどです。音楽のそれぞれの音階(モード)は人間に特別な影響を与えるということがわかり、利用 されるようになりました。たとえばヒポクラテスは病人を神々の神殿に連れていきます。そこではメロディを繰り返すことによって行われる治療といったよう な、さまざまな音楽療法が使われていました。竪琴を奏でればアポロンの助けが得られ、病苦から救われるだろうと信じられていたのです。

音楽家や詩人たちは、その才能を霊感の女神ムーサたちに負っていました。そのもっとも優れた例をヘシオドスが自分自身のこととして述べています。「わたし は羊飼いだった。ムーサたちはわたしを見ると、月桂樹の木から切り取った枝をわたしの手に持たせた」。詩的な表現は続きます。「そうすると、これから書か れるであろうものやすでに完成されたものを高めるように、とりわけわたしが語るすべての叙事詩の冒頭と末尾で自分たち(ムーサの神々)を讃えるように、と いう神的な声がわたしの心の内に響いた。」

ホメロスのふたつの長い叙事詩もムーサたちへの呼びかけで始まりますが、そこで吟遊詩人はただひとりのムーサに呼びかけ、彼女を「女神」とだけ語っていま す。

ムーサたちが霊感を与えた者のひとりにオルフェウスもいます。オルフェウスの音楽的才能は、楽器演奏で野生の動物を引きつけ、死をも克服するという叙事詩 で有名です。

ムーサたちはその霊感をいつの時代にも授け続けていました。カリプソで有名なダリオ・モレノからタンジュ・オカン、セルミ・アンダックまで。ミキス・テオ ドラキス、ズリュフ・リヴァネリ、セゼン・アクス、ハリス・アレクシーウ10)。みんな ムーサたちに育てられました。でもさらにもうひとり、ムーサに育て られた者にアレクシス・ゾルバがいます。カザンツァキスの「ゾルバ」です。サントゥールが響き、「二羽の山ウズラが丘の上でさえずっている。どうか山ウズ ラよ、鳴くのはやめて、もう十分、とわたしは言った」という民謡は、トルコ語の歌詞で歌われながらエーゲ海のふたつの岸をひとつに結びつけます。素朴なが らも誇り高いエーゲ海の人間は、裸足で踊る素晴らしいダンスで自分を表現します。こうしてけっして忘れられない浜辺の描写が構成されるのです。

蓄音機の発明とともに商業音楽が始まりました。後にラジオ局が設立され、さまざまな音楽が人々に届くようになります。

他のすべての音楽もまたそうであったように、エーゲ海の音楽と人々との出会いは1937年のラジオ設立から始まりました。ムザッフェル・サルソゼン11) が始めたさまざまな音楽の収集では、全体で数千の民謡が集まりました。数々の音楽グ ループが結成されまし た。地方の音楽家が歌う「ボズラック」12)や 「ゼイベッキ」13)の調べは、古いメロディを現在まで留めています。19 世紀初頭のギリシア都市部では、「カフェ・アマン」は選りすぐりの芸術的音楽が 演奏されるカフェでした。住民交換協定時代14)の最後の数年にはロマンティシズムとノス タルジーの情感が高まり、芸術的観点からは貧しいものであったと しても、数々のレベティコ15)が作曲されたのです(セルマ・フンドゥクル『イムバッタ・ カランフィル・コクス(海風はカーネーションの香り)』) 16)

最後にアティルラ・ドルサイ17)の言葉を引きましょう。「どのようにして音楽が広々とし た大海、尽きることのない水、無限の宝庫であったのか、どのよう にしてその中に無数の宝石を保持していたのか、この千一夜物語の秘宝の運命、本質、芸術性、あるいは望むなら神と言ってもいいものは、どのようにしてわた したちに対する最高の素晴らしい贈り物となったのか、わたしは何年もかけてとてもよくわかってきた。昔のミュージカルで『歌がなければ生きていけない』と あるように、おそらくわたしも生きていけないのだった。」



ボドルムのヘロドトス

ナポレオンのヨーロッパ征服の冒険を知らずしてベートーヴェンの交響曲第九番の美しさを、ポーランドの自由を目ざすきびしい戦いを知らずしてショパンの悲 哀を、その全体を把握することは不可能です。その逆を言えば、こうした音楽もその作曲家たちの生涯もまた、時代の証言としてその時々に起きた出来事を明ら かにするのです。

つまりわたしたちもレベティコやチャナッカレの民謡を、あるいはまた「カフェ・アマン」を理解するために、何世紀も前の歴史をよく知らなければなりませ ん。幸い、イズミール生まれのホメロスもボドルム生まれのヘロドトスも、わたしたちのものです。イズミール生まれとボドルム生まれの彼らに敬意を表しま す。〈了〉


〈著者自己紹介・フズリ・ブルット〉



著者近影

私は1952年ザラ生まれです。小中学校をザラで、高校は寄宿生としてシヴァスで学びました。1973年エルズルム・アタテュルク大学の外国語学科を卒業 する前、フランス政府の奨学金を得て一時期フランスに留学。徴兵はアンカラのKKK18)で 通訳准尉として務め、1976年にツーリストガイド専門コース を修了してから自分の国を認識し始め、この天国のような祖国を外国の来客に紹介することに幸せを見出すようになったのです。あちこちの高校で13年間フラ ンス語の教員を務めている間は、夏休みなどにガイドをしたこともあります。その後教員をやめ、観光業に専念して生計を立てていくことに決めました。イスタ ンブールで専門コースに通い、1998年日本語ガイドのライセンス、そして2009年に英語のライセンスを修得しています。
この職業について35年目に入ろうとした時、人生の大半はもう過ぎ去ってしまったということに思い至りました。私は自分の国、自分の職業、将来に向けて生 産的な活動をする人々、そしてアナトリアのさまざまな文明のことを愛せる限り愛しています。つまり自分の家族、そして共和国が私たちにもたらした色々な権 利を愛するのと同じように。そして、ツーリズムというものが持つ啓発力が、ごく小さな町に住む人々にも及ぶまで、その力を広める必要があると信じていま す。


〈訳註〉

1) アーキペラゴ:エーゲ海を指す。ギリシャ語で「主要な海」の意。日本語で「多島海」と訳される場合は一般に沈水海岸で島の多い海域を言う。⇒本文に戻る

2) ハライ:Halay 東部、南部、中央アナトリア一帯の民俗舞踊。⇒本文に戻る

3) 「ハリカルナッソスの漁夫」:ジェヴァト・シャキール・カバアーチュルCevat Şakir Kabaağaçlı (1886年クレタ島生まれ、1973年イズミール没) のこと。トルコの著述家、歴史家。ハリカルナッソスはトルコのエーゲ海地方にあるボドルムの古代名。ボドルムを愛したジェヴァト・シャキールは自らを「ハ リカルナッソスの漁夫」と称していた。彼はトルコ・ツーリズムの父ともいうべき存在で、トルコ初の国内旅行ガイドブックを著し、かつては小さな漁村にすぎ なかったボドルムを世界的に有名なリゾート地に発展させることに貢献した。⇒本文に戻る

4) チネ川:エーゲ海地方ヤターアン付近から、アイドゥンを経て大メンデレス川(マイアンドロス)に注ぎ込む359kmの川。古代名を「マルシュアス」と言 う。⇒本文に戻る

5) 『先史時代のエーゲ海』:トムソン『ギリシャ古代社会研究』の副題。邦訳は池田薫訳、岩波書店、1955年。⇒本文に戻る

6) パウサニアス:(115年頃〜180年頃)ギリシアの旅行家、地理学者。著書に『ギリシア案内記』(馬場恵二訳、岩波書店、上巻1991年、下巻1992 年)がある。⇒本文に戻る

7) ヘクサメトロス:1行が6つの韻脚からなる叙事詩の韻律。長短短六脚韻。⇒本文に戻る

8) アルキコロス:(前680年頃〜前645年頃)ギリシアの詩人。テトラメトロスとトリメトロンはそれぞれ抑揚格四脚韻、抑揚格三脚韻と呼ばれる。⇒本文に戻る

9):リキア:前15世紀頃、現在のトルコ南西部にあった古代王国。フェティエ からアンタルヤにかけての地中海沿岸地方にクサントス、レトーン、パタラ ミイラ遺跡など、多くの遺跡が残る。
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10) ダリオ・モレノ:Dario Moreno (1921-1968) アイドゥン生まれの歌手、作曲家、詩人、映画俳優。
タンジュ・オカン:Tanju Okan (1938-1996) イズミール生まれのポップス歌手、俳優。
セルミ・アンダック:Selmi Andak (1921-2010) イズミール生まれの音楽評論家、作曲家。
ミキス・テオドラキス:Mikis Theodorakis (1925-) ギリシャ、ヒオス島生まれの作曲家。
ズリュフ・リヴァネリ:Zülfü Livaneli (1946-) コンヤ生まれの作家、詩人、作曲家。
セゼン・アクス:Sezen Aksu (1954-) デニズリ生まれのシンガー・ソングライター、音楽プロデューサー。
ハリス・アレクシーウ:Haris Alexiou (1950-) ギリシャ、テーベ生まれのシンガー・ソングライター。
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11) ムザッフェル・サルソゼン:Muzaffer Sarısözen (1899-1963) シヴァス生まれの音楽民俗学者。⇒本文に戻る

12) ボズラック:Bozlak 中央アナトリアの民謡の一種。サーズ(弦楽器)、ネイ(尺八に似た縦笛)、牧童笛で奏でられる。悲恋を歌ったものが多い。⇒ 本文に戻る

13) ゼイベッキ:Zeybek エーゲ海地方の若衆たちによる民謡と民俗舞踊。⇒本文に戻る

14) 住民交換協定:1923年トルコとギリシャの間で結ばれた協定。ギリシャに住みギリシャ語を話すイスラム教徒(スラヴ系・ギリシャ系ムスリムやイスラム教 に改宗したユダヤ人も含む)はトルコへ、トルコに住むキリスト教徒(トルコ語を母語とする正教会信者も含む)はギリシャへと強制的に交換された。この時ト ルコからは50万人、ギリシャからは150万の人々が移住したといわれる。⇒本文に戻る

15) レベティコ:rebetiko 1930年代ギリシャではやった歌謡曲。住民交換でトルコからギリシャへ移住した人々によってギリシャ語で歌われた。ブズーキ(バルカン半島で用いられる 撥弦楽器)の伴奏がつくことが多い。⇒本文に戻る

16) このあたりの様子は、セルマ・フンドゥクル(Selma Fındıklı (1965年エスキシェヒル生まれの作家)の『インベッタ・カランフィル・コクス İmbatta Karanfil Kokusu』(2006年刊)でも描かれている。⇒本文に戻る

17) アティルラ・ドルサイ:Atilla Dorsay (1939-) イズミール生まれの映画評論家、作家、ジャーナリスト、建築家。⇒本文に戻る

18) KKK:トルコ陸軍司令本部 ⇒本 文に戻る

(訳・伊吹裕美)

〈2015.2.28.〉


〈この項続く〉