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  地中海地方  

地中海西部 Batı Akdeniz

  地中海地方 Akdeniz Bölgesi



地中海地方はエーゲ海地方の東、トルコ南部沿岸になります。海に線を引くのはむずかしいものですが、だいたいダルダネス海峡からギリシャ領ロードス島あた りまでがエーゲ海、そこから東が地中海という感じでしょうか。トルコ語のアクデニズは黒海に対して「白い(明るい)海」を意味します。その名の通り明るく 透明な海が広がる地域です。
海沿いにはアンタルヤ、メルスィン、少し入ったところはアダナ、アンタクヤ、内陸部にはカフラマン・マラシュといった街があります。
典型的な地中海性気候で、夏は乾燥して気温が高く、冬も温暖ですが雨が多くなります。険しい山が海に迫り、断崖絶壁になっている箇所も。海岸線は複雑に入 り組んでいて、美しい景色がパノラマのように広がります。
海岸沿いはリゾート地としてにぎわっていますが、アンタルヤなどの大きな街を除くとまだまだひなびた場所が多く、隠れた穴場的リゾート地がたくさんありま す。お天気がよければ10月ごろまで海水浴ができるため、クルージングや海水浴をしながらのんびり静か過ごすにはもってこいです。湖や川、渓谷、高原もあ り、豊かな自然のなかでさまざまなアウトドア・スポーツが楽しめます。
気候に恵まれているため小麦は二毛作や三毛作。野菜を栽培している巨大なビニールハウスが目につきます。松林やオリーブなど果樹園も多く、柑橘類の他にア ボカドやバナナといった南国の果物まで採れます。綿の栽培も盛んです。
この地方にはリキアLykia、パンフュリアPamphylia、キリキアKilikiaなどの古代都市がありました。海岸沿いにも内陸の山間部にも遺跡 が多く、まだ発掘調査中のところも。キリスト教最初期の教会や修道院も点在しており、キリスト教文化圏から多くの観光客が訪れます。リキアの中心都市だっ たクサントスとレトーンの遺跡が1988年に文化的世界遺産として登録されています。〈2011.9.25.〉



  クサントス Xanthos



高台の遺跡



家型柱状墓



ハルピュイアのレリーフ

港町のフェティエから南東へ約63キロ、ほこりっぽい田舎道をうねうねと走った山の中にクサントス遺跡があります。この遺跡と近くにあるレトーン遺跡はと もに世界遺産です。クサントスは古代リキアLykiaの主要都市でした。リキア人は紀元前15世紀ごろからこの地方一帯に住み、前6世紀ごろから独立国家 を作っていたと考えられています。この遺跡は南西に開けた丘の上にあるため、あたり一帯の景色を見下ろすことができます。下の方にエシェン川Eşen Çayıが光って見えます。
この遺跡でめずらしいのは、石柱の上に家の形をした石棺を載せたお墓です。柱の高さは7メートルから9メートル。いずれも前5世紀から前4世紀のもので す。家型の石棺は、この地方に行くと森の中や丘の上などでよく目にします。しかし地震が多いため崩れてしまうことが多く、柱の上に乗っているものはここの 他にあまりありません。リキア様式の石棺はイスタンブールの国 立考古学博物館にも展示されており、間近で見ると巨大なものだということがよくわかります。
普通お墓は地面の下や穴のなかにありますが、リキア人は亡くなった人の魂は天に昇っていくと考え、なるべく空が近くなるようにお墓を持ち上げるかたちで埋 葬したといわれています。
柱状墓のひとつに顔が女性で鳥の姿をしたハルピュイアHarpuiaのレリーフが見えます。ハルピュイアはギリシャ神話では死者の魂を地獄へと運ぶ怪鳥で すが、リキアでは死者の魂を天国へ送り届ける鳥とみなされていました。そのため石棺にその姿がしるしてあるということです。残念ながらここにあるものはレ プリカで、本物は大英博物館にあります。ギリシャ神話によるとハルピュイアの子供にクサントスという神馬がいますが、この遺跡は何かそのあたりと関連があ るのかもしれません。



リキア文字の石碑



野外劇場

また、お墓の近くにギリシャ文字と記号のような文字が混ざったリキア文字がびっしり刻まれたオベリスクが建っています。リキア語はインド・ヨーロッパ語族 に属すといわれ、石碑は前5世紀以降のものです。ローマ時代の野外劇場は比較的保存状態がよく、舞台背後に作られた壁、スカエナエ・フロンス scaenae frons の基礎部分や舞台脇のアーチが残されています。
他にはアクロポリス、ビザンティンの教会や修道院跡などもあり、かなり広い遺跡です。大きな石がごろごろと転がっているので、足下に注意して歩きましょ う。入口に係員の小屋とちょっとしたテラスになっている休憩所、お手洗いがあるだけで、周囲には何もありません。世界遺産なのに閑散としているというとこ ろも気に入りました。〈2012.5.2.〉







平地の遺跡



凱旋門

無休・夏期9:00〜19:00、冬期8:00〜17:00
クサントスから18キロほど南下した海岸近くにパタラ遺跡があります。ここもリキアの主要都市のひとつで、10平方キロにわたって遺跡が点在しています。 ギリシャ神話によると、アポロンは夏の間はデロス島(現ギリシャ領)に住み、冬の間はここパタラに住んだといわれています。巨大なアポロン像の一部が発掘 され、アポロンを祀っていたことは確実ですが、神殿がどこにあったのかははっきりしていないそうです。まだまだ発掘調査が進められています。最近は議事堂 の修復が終わったと報道されました。これは世界で最初の議事堂ということです。
紀元1世紀に建てられた3連アーチの凱旋門、地震で壊れた後147年に修復されたローマ劇場、イオニア式の柱が並ぶ神殿跡などが見られます。
丘に囲まれた平地にあるせいかたいへん牧歌的な雰囲気の遺跡で、近くでトラクターが作業をしていたり、山羊などが遊んでいたりします。



神殿跡



野外劇場



ウミガメのビーチ

パタラはリキア時代から貿易港として栄えた街で、遺跡から1キロほど歩いた海岸沿いでは世界最古といわれる灯台の礎石が発見されました。キリスト教の歴史 とも深い関係があり、パウロとルカが伝導の旅を続ける際、ここの港で船を乗り換えたと伝えられています。また、サンタクロースのモデルとされる聖ニコラウ スは270年ごろこの町で生まれました。
海岸はきれいな砂浜が18キロも続き、ウミガメの産卵地として保護されています。当然リゾート向けの開発は禁止で、村に小さなペンションが数軒あるばか り。夏に海水浴客は訪れますがそれほど多くなく、静かなビーチです。海岸はウミガメの産卵時期には立ち入り禁止になります。
トルコを代表するピアニストで作曲家のファズール・サイFazıl Say(日本ではファジル・サイと呼ばれています)は「パタラ」というダンス曲を作曲、演奏しています。静かに始まる美しい曲で、この浜辺に着想を得たの かもしれません。〈2012.5.2.〉



  サクルケント渓谷 Saklıkent Kanyon



渓谷入口



狭い歩道を歩いていきます



音を立てて流れる渓流

フェティエから南東に35キロ、途中で幹線をはずれて細い道を行ったところにサクルケント渓谷があります。サクルケント国立公園Saklıkent Milli Parkıの中にある深い渓谷です。サクルケントは「隠された町」という意味。エシェン川Eşen Çayıの支流に沿って鋭く切り立った渓谷は、本当に隠されているように見えます。その長さは18キロ。氷のように冷たいきれいな水がどうどうと流れ、夏 は涼を求めて渓流歩きやラフティング、キャンプをする人たちでにぎわう避暑地です。
渓谷の入口から途中まで木の板をしっかり組んだ歩道が整備されており、ここを通って谷に降ります。水に足をつけると冷たくてしびれてきます。渓流歩きはこ こからさらに上流に向かって進みますが、場合によっては腰のあたりまで水に浸かることもあるとか。本格的に歩く場合は濡れてもいいような服装で、ビーチサ ンダルなどを用意した方がいいでしょう。
川の流れはかなり速いのに、下流では水に乗って泳いでいるツワモノもいました。端で見ていると、泳ぐというよりも流されている感じなのですが大丈夫でしょ うか。



切り立った岩肌



お土産いろいろ



川辺のツリーハウス

渓谷の入口にはお土産物屋が並び、近隣で採れた蜂蜜やハーブ、自家製ジャムやお菓子、アクセサリーなどを売っていました。キャンプ用のバンガローや木の上 にコテージを作り付けた「ツリーハウス」もあります。近辺では渓流を利用したマスの養殖も盛んで、夏場だけ開く食堂でマスの塩焼きが食べられます。流れの 上に席をしつらえて川床のようになっているお店もあり、洋の東西を問わず暑気払いに格好のしつらえと見えました。〈2012.5.2.〉






聖ニコラウスの銅像



石棺



礼拝堂

無休・夏期9:00〜19:00、冬期8:30〜17:30
世界中の子供たちに人気のあるサンタクロースは、実はトルコ生まれでした!?
サンタクロースのモデルと考えられている聖ニコラウスは、3世紀ごろパタラで生まれ、343年12月6日 にデムレで亡くなった司教です。デムレはパタラの 東約80キロにある小さな町で、ここに聖ニコラウスの教会があります。もちろん当時はまだトルコという国はなく、ビザンティン帝国だったわけですが。



11世紀ごろのフレスコ画



モザイクが残る床



アーチと壁が合体?

教会は現在博物館になっており、堂内には聖ニコラウスの石棺が安置されています。1087年にやってきたイタリア人が棺を暴き、聖遺物を持ち去ってしまい ましたが、1959年から始まった調査でニコラウスの歯の一部が発見され、アンタルヤの考古学博物館に展示されています。
教会そのものはたび重なる地震や7世紀のイスラム教徒襲撃などで破壊されましたが、そのつどビザンティン皇帝の命によって修復されました。さまざまな時代 の様式で修復や増改築を繰り返したため、内部はちょっと不思議な構造になっています。ビザンティン中期のフレスコ画やモザイクの床が部分的に残っていま す。
1862年にはロシア皇帝ニコラス1世が復興に援助したということもあるせいか、いまでもロシアからの訪問者が絶えません。ロシアやギリシャなど、正教徒 の巡礼地になっているようです。町のなかではロシア語の看板が目につきました。〈2012.6.5.〉






岩窟墓



ローマ時代の野外劇場

無休・夏期9:00〜19:00、冬期8:00〜17:30
デムレはリキア時代から主要な都市のひとつでした。聖ニコラウス教会から北へ2キロ行った山の中腹に、リキ ア時代の岩窟墓、ミイラ遺跡があります。紀元前 5世紀ごろのもので、険しい岩肌に家屋の形を模した岩窟墓が幾層にも彫り込まれています。柱や門の造りが印象的で、遠目には神殿か何かのように見えます。
リキア時代の家屋は木材を多用していたので、実際には残されていません。しかしこの岩窟墓は、当時の建造物を細部に至るまで岩に彫って表現しているため、 リキア時代の建築様式を考える上でたいへん貴重なものとされています。ここから少し離れた場所には、内部に彩色を施されたお墓もあるそうです。



芝居を見てびっくりする観客の顔、ではありま せん



劇場の裏手にも岩窟墓



遺跡近くで咲くノアサガオ

リキア時代に栄えた後、ヘレニズムからローマ時代にかけてもここは行政上重要な都市でした。岩窟墓のすぐ隣にローマ時代の野外劇場があります。141年の 地震で被害を受けましたが、その後修復され非常によい状態で保存されています。山の斜面を利用して造られたギリシャ様式の劇場です。35列の観客席がある 大きなもので、かつて場内を飾っていたさまざまなモティーフの彫刻がそこかしこに置かれていて退屈しません。当時劇場で催された演劇は役者が仮面をつけて 演じるものでしたが、目と口を大きく開けた顔の彫刻はその仮面を表しています。
劇場背後の山にも岩窟墓が見えます。造られた時代が違うとはいえ、お墓のすぐ前に劇場があるというのはちょっとすごい発想です。
遺跡に通じる道には土産物屋や涼しげな木陰のカフェなどがあり、絞りたてのフレッシュジュースやお茶を飲んでくつろぐことができます。 〈2012.6.5.〉



  アスペンドス Aspendos
 






グレコ・ローマン様式の野外劇場



高さ22メートルある舞台背後の壁

無休・夏期8:00〜19:00、冬期8:00〜17:00
地中海地方屈指のリゾート地、アンタルヤから東に40キロほどのところにアスペンドスの遺跡があります。ここは紀元前1000年ごろから街があり、ギリシ アのアルゴス人が興したと伝えられています。前5世紀にはパンフィリアの主要都市として栄え、オリーブオイルや塩、ウール製品などを扱う交易の中心地でし た。この地は特に馬のブリーディングが盛んで、「アスペンドス馬」は優れた馬として有名だったそうです。
前333年にアレクサンダー大王に占領された後、前133年にローマ帝国の支配下に入りました。ローマ時代の最盛期には2万人の人口を抱えた街に発展した ということです。

この遺跡は何といっても野外劇場が素晴らしく、ギリシア・ローマ世界の中でもっとも保存状態のよい劇場のひとつとされています。確かに、観客席や舞台背後 にそびえ立つ壁(スカエナエ・フロンス)、客席最上部のアーチ式柱廊など、どこも完璧な状態です。舞台正面最前列には貴賓席も見られます。2世紀中葉の建 設で、161年から19年をかけて造られたという説もあります。
客席部分は自然の斜面を利用して造られていますが、航空写真などを見ると劇場のかなりの部分が独立した基礎を持っているようです。ゴージャスなスカエナ エ・フロンスもあることから、ギリシア様式とローマ様式の両方の性質を併せ持つグレコ・ローマン様式の劇場のようです。約1万5000人収容。



通路



細部のレリーフ



最上段に並ぶ柱廊



劇場外側

スカエナエ・フロンスの壁を彩る大理石の装飾も見事です。柱は43本あり、ニッチには皇帝やギリシア神話の神々の彫像が置かれていました。この部分には楽 屋なども残されており、13世紀のセルジュク・トルコ時代には隊商宿や夏の王宮として使われていたということです。
構内にはミュージアム・ショップと小さなカフェが併設されています。

この見事な劇場、実は今でも現役です。1994年から毎年夏に開催される「アスペンドス国際オペラ・バレエ・フェスティバル」では、ベルリンフィルなど世 界トップクラスのオーケストラによるオペラをこの舞台で見ることができます。整った設備と素晴らしい音響の賜物と言えるでしょう。以前チケットを買おうと しましたが、あえなく惨敗した記憶があります。



高さ30メートルの水道橋



柱だけが残る水道橋の遺構



ローマ時代の橋



歩いて渡れます



キョプリュチャイ

アスペンドスから北へ1キロほど行くと、巨大な水道橋の遺構が見られます。街の人口が増えたため、安定した水の供給が必要になったことから、2世紀後半か ら3世紀の間に建造されたと考えられています。2つの水源から海抜60メートルの高さにあるアスペンドスのアクロポリスまで、約19キロに渡って水を運び ました。

街の東を流れるエウリメドンEurymedon川(現在のキョプリュ・チャイKöprüçay)に、ローマ時代の橋が架かっています。4世紀ごろの建造 で、当時のオリジナルは長さ259.50メートル、幅9.44メートル。セルジュク時代の13世紀に長さ225メートル、幅4.50から5.70メートル に改修されました。現在の姿はこの時代のもので、中間点は今より4.1メートル高かったそうです。改修後にサイズが小さくなるというのも不思議な感じがし ます。
写真を撮っていたら、向こうから橋を渡ってくる人の姿が見えました。劇場も現役なら橋も現役。ローマ人の底力を見せつけられた次第です。〈 2017. 2. 28. 〉



  ペルゲ Perge
 


  広大な遺跡



  野外劇場



  競技場



  競技場のフラグメント



  ローマ門



  ヘレニズム門



南国風景

無休・夏期9:00〜19:30、冬期8:30〜17:00
ペルゲは、アンタルヤの東18キロの場所に広がるパンフィリアの古代都市です。街の東3キロにケストロスCestros川(現アクス・チャユAksu Çayı)が流れ、水運による交易が盛んな都市でした。
街の歴史は古く、紀元前1300年ごろここに住んでいたと思われるヒッタイト人の青銅片が発掘されています。前5世紀にはギリシアのアルゴス人が入植し、 パンフィリアの主要都市として栄えました。前333年にアレクサンダー大王に支配された後、ヘレニズム各王国に占領されましたが、前188年にローマ帝国 の統治下に入りました。
またこの街は、使徒行伝を書いたパウロが西暦46年に伝道で訪れたことでも有名です。やがてペルゲは、初期キリスト教時代の中心的な街となりました。
パウロはキリキアのタルソス生まれ。アンタルヤから東に400キロ、現在のタルススに当たります。彼はアンティオキア(アンタクヤ)から、伝道の旅を始め たのでした。

広大で充実した遺跡です。街の南西、城壁の外に野外劇場と競技場が残されています。
街は平地に広がっていますが、劇場は丘の斜面を利用したギリシア様式で、2世紀に建てられました。約15000人収容。残念ながら2016年に訪れた時は 修復中で、立ち入ることはできませんでした。
ここも舞台背後の壁が残っており、劇場に関連の深いギリシア神話の神ディオニュソスの生涯を描いたレリーフなどが飾られていました。ニッチに置かれた彫像 などとともに、現在はアンタルヤの考古学博物館に収蔵されているということです。
競技場は階段状の座席や入場門などがかなり良い状態で保存されています。トラックは幅34メートル、長さ234メートルの大きさがあり、アナトリアでは最 も大きい部類に入ります。約12000人収容。



 泉



アゴラ



炎天下に咲く花



 コリント様式の柱頭



大通り



 列柱と水路



 レリーフのある柱



アポロン



アルテミス

街は南側のローマ門から始まります。門をくぐって街に入ると正面に切石積みの二つの塔が見えますが、こちらはヘレニズム門の遺構です。ローマ門は4世紀、 ヘレニズム門は2世紀の建造で、どちらも表面は大理石のレリーフや彫像で飾られていました。
ハドリアヌスの泉(ニンファエウム)やアゴラなど、たいへんきれいな形で残っています。街の東西南北に2本の大通りが十字型に走り、道に沿って一直線に並 ぶ柱が印象的です。大通りの中央分離帯のようなものは水路で、当時はここに水がとうとうと流れて街全体を潤していました。

大通りに林立する柱のうち、上部に彫刻が施された柱が2本だけ並んでいます。双子の神アポロンとアルテミスの姿だと考えられていますが、なぜここにあるの かはわかりません。おそらく本来は街の北にあったアルテミス神殿に置かれていた柱が、通りに移されたのではないかと推測されています。ペルゲはアルテミス 信仰の盛んな土地で、街が発行する銀貨にもアルテミスの姿が描かれていました。



ローマ浴場



浴場床下の設備



浴場のタイル



イルカのレリーフ



バシリカ



遺跡の彩り

ローマ浴場は非常に保存状態がよく、トルコでもっともよい状態だとされています。その規模、温度の違う複数の浴槽、床のタイルやボイラー設備などがはっき りとわかります。街には北と南に2つ浴場があり、写真は南の浴場です。地図を見ると、ニンファエウムと2つの浴場はすべて大通り中央を流れる水路でつな がっています。たいへん水の豊かな街だったことが実感されます。

時間をかけてゆっくり見学したい遺跡です。訪れたのは11月中旬だったにもかかわらず日差しが強烈で、遺跡内には日影がありません。季節を問わず、日よけ の帽子やサングラスは必携です。構内入口付近にレストハウスがありましたが、この時は閉まっているようでした。飲料水の用意もお忘れなく。〈 2017.3.26. 〉



  シデ(スィデ) Side
  


 半島の突端



遠浅の海



 カフェ



商店街



乾物屋



遺跡カフェ?



 柘榴ジュース



 地図



海水浴中

アンタルヤから南東へ62キロ、地中海に面した小さな岬にパンフィリアの古代都市シデがあります。街は前15世紀ごろからあったとされていますが、前7世 紀ごろアナトリア北西部アイオリス地方にあるキュメCymeの植民地となって発展しました。海に突き出した東西1キロ半ほどの半島に位置しており、古くか ら貿易港都市として栄えた街です。
前333年アレクサンダー大王に占領された後、プトレマイオス朝やセレウコス朝の支配を受け、前1世紀中葉にローマ帝国領となります。ローマ時代には海軍 の基地がここに置かれ、地中海世界の奴隷貿易の中心地でもありました。最盛期には6万の人口を抱えていたということです。

トルコのギリシア・ローマ遺跡はほとんどが人里離れた場所にぽつねんとありますが、ここはこぢんまりしたリゾートタウンのど真ん中です。美しい遠浅のビー チに囲まれているため、夏は内外の観光客でにぎわいます。遺跡の中にリゾート地があるというか、リゾート地の中に遺跡があるというか、何ともユニークな雰 囲気です。観光客相手のレストランや土産物店が並んでおり、遺跡の間に客席をしつらえているカフェもありました。
遺跡のすぐ脇で海水浴をしたり釣りをする人たちも見かけます。11月中旬に訪れましたが、お天気さえ良ければ海水浴ができるというのにびっくりです。夏場 の混雑具合は推して知るべし。この時はヨーロッパ人観光客のグループがちらほらといた程度で、快適な街歩きができました。現在の街の人口は約2万人。
この地に住んだ古代人は独自の言語を持っており、「シデ」という地名は古代アナトリアのルーウィ語Luwianに由来する言葉で「柘榴」を意味するそうで す。見学の合間に頂いた絞りたての柘榴ジュース、とりわけ美味でした。



アポロン神殿の柱



アポロンとアテナ神殿



 野外劇場



スカエナエ・フロンス



客席上部



劇場外側



ディオニュソス神殿



ウェスパシアヌス門



アゴラ



南国の花







水道橋

岬の突端にそびえるアポロン神殿の柱が印象的です。青い海を背景に堂々と建っています。すぐ隣にはアテナ神殿の跡もあり、いずれも2世紀の建造。アポロン 神殿は16メートル×30メートル、アテナ神殿の方が少し大きく、18メートル×35メートルの広さがあります。アテナはこの街の守護神として崇拝されて いました。そびえ立つ柱以外の部分にはフェンスが張り巡らされており、立ち入ることはできません。

野外劇場は平地にあるため完全なローマ式劇場です。2世紀の建造で約15000人収容。アスペンドスやペルゲの劇場とほぼ同じぐらいの規模で、ここもたい へんよい状態で保存されています。5世紀以降はキリスト教の礼拝堂として使われた時期があり、一種の青空教会のようなものだったそうです。ペルゲと同様、 この地にもパウロは訪れていました。
劇場の隣に隠れるようにして、1世紀ごろに造られたディオニュソス神殿があります。劇場に隣接するディオニュソス神殿が残っているのは非常にめずらしく、 ここの他にはベルガマの遺跡で見たくらいです。

1世紀にできたウェスパシアヌスの凱旋門は、門をくぐって車が走っています。アゴラは2世紀のもので、中心部にある丸い建造物はティケの神殿です。ティケ は幸運の女神といわれ、ヘレニズム時代に信仰されました。アフロディテとヘルメス、またはゼウスの娘とされています。
シデの街に入る途中にローマ時代の水道橋の遺構があり、かつては32キロの長さがあったということです。

野外劇場のみ有料で、開館は夏期8:00-19:00、冬期8:00-17:00、無休。他の遺跡は見学の時間制限はありませんが、フェンスに囲まれて入 場できる場所が少なく、ちょっと残念でした。
遺跡とリゾートが一体化しているので、サバイバルの必需品、飲料水や食料、サングラス、帽子などは現地で調達できます。街にはホテルも何軒かあるので、遺 跡見学の後はゆっくり滞在してリゾート気分を楽しむという手もあるかもしれません。〈 2017.3. 26. 〉








 シデ博物館



浴室



浴槽


 


展示室



 ヘルメス



足元の像

夏期8:00〜19:00、冬期8:00〜17:00。夏期は無休、冬期は月曜日休館。
シデの遺跡群の中に、ローマ浴場を改築して造られた博物館があります。2世紀に建てられた浴場が5世紀に改築され、最終的に1962年博物館として開館し ました。ヒッタイト時代からヘレニズム、ローマ時代の発掘物が展示されています。
浴場を博物館にしたものはパムッカレのヒ エラポリスにもありますが、ここは浴場自体が大きいため見ごたえがあります。浴場そのものの保存状態もよく、浴槽 の壁のニッチに彫像が置かれ、当時の浴室がどういう感じだったのかがよくわかります。もちろん浴槽も彫像もオリジナルです。浴場を博物館にすると、こうい う素敵な展示の仕方ができるということに感心しました。

ヘルメスの彫像は2世紀のもの。ヘルメスはオリュンポス十二神のひとりで、神々の伝令使、旅人の守護神、商人、盗人、牧畜の神など、さまざまな側面を持つ 神です。つばのついた帽子をかぶり、二匹のからみあう蛇と羽のついたカドゥケウスの杖を持ち、羽のあるサンダルを履いている姿が一般的ですが、この彫像は 左腕にカドゥケウスの杖の文様が描かれています。
足元にある角柱はヘルメス柱像(ヘルマ)と呼ばれるものです。ヘルマは古代ギリシアの道しるべのようなもので、境界線や道端に置かれていました。ヘルメス が旅人の守護神であることに関連しているようです。また、豊穣多産を祈願する神像だったとも考えられています。ヘルメスの柔和な表情に比べると、異教的な 顔立ちが印象的です。



勝利の女神ニケ



石棺



三人の美神



光の階段を降りてくる(?)ヘラクレス



レリーフ



石棺のレリーフ







中庭

完成度の高い優れた収蔵品が多く、彫像や石棺はほとんど2世紀のものです。街の繁栄がどれほどであったかを推し量ることができます。窓の隙間から入る日の 光がヘラクレス像を照らし、ちょうど光の階段を降りてくるように見えました。
中庭には例によって大型の展示品が並んでいます。この場所は当時運動場だったそうで、ボクシングやレスリングの練習が行われていました。スポーツをした後 すぐお風呂に入って汗を流すことができたわけで、なかなか合理的に考えられています。

浴場という空間をうまく活かした博物館で、照明などはよく工夫されており、解説パネルも見やすくなっています。こぢんまりとしていますが、たいへん充実し た内容の博物館でした。〈 2017.3.26. 〉



  リルベ・セレウケイア Lyrbe-Seleuceia



  松に囲まれた遺跡



  入場門



  素晴らしい保存状態のアゴラ



  同じ棟の内側









  アゴラ

リルベ・セレウケイアはシデから北東へ15キロ、山のなかにあるパンフィリアの遺跡です。ファセリスが 松に囲まれた海辺の遺跡なら、こちらは松に囲まれた 山の遺跡といったところでしょうか。リルベという名前はシデやファセリスと同じ古代アナトリアのルーウィ語で、 前2000年ごろここはそう呼ばれていたそ うです。
前323年、アレクサンダー大王の家臣でセレウコス朝の創始者セレウコス1世ニカトールが街を統治、彼の名前を冠してセレウケイアとなりました。セレウコ ス朝の領土(現在のシリアやイラク)には同名の街が12から14あったそうです。ちなみにエーゲ海地方の街ストラトニケアは、セレウコス1世の後妻ストラ トニケに由来する街でした。

ヘレニズム時代にできたアゴラは、パンフィリアのなかで最高の保存状態だといわれています。たしかに2層または3層のファサードが残り、その大きさから建 物の規模を実感できるほどです。アゴラ内部に入る門は6つ、回廊の他に北側には図書館や半円形にしつらえた座席(エクセドラ)、東側にオデオンや商店、北 西にビザンティン時代に造られた礼拝堂などがあり、当時立派な複合施設だったことがうかがわれます。床にモザイクを施した部屋もあったそうです。前2世紀 建造以降ローマ時代に少なくとも2回改修され、付属施設などが加えられました。



  寺院



  遺跡の住人









  さまざまな遺構



  遺跡に行く途中で見かけた柿の木

リルべは数年前まではアクセスがむずかしく、悪路のためジープでなければたどりつけない場所だったそうです。現在は道もよくなり簡単に行けるようになりま したが、総じてかなりワイルドな遺跡という印象です。
遺構は松が生い茂る山の斜面に点在しており、大きな石(崩れた建材?)がごろごろしているため足元はあまりよくありません。地図や簡単な案内板は一応ある ものの説明が十分ではなく、入場門やアゴラを除くとどこに何があるのかよくわかりませんでした。他にはローマ浴場、ネクロポリス、貯水槽、泉、水道設備な どがあるということです。併設するカフェなどは何もなく、開場時間もとくに決められていないようで入場自由という感じでした。〈 2017.5.30. 〉



  ファセリス Phaselis



地中海







古代の港



水道橋





舗装された大通り





通り沿いのアゴラ

無休・夏期8:00〜19:00、冬期8:00〜17:00
ファセリスはアンタルヤから南西60キロのところにあるリキア遺跡です。ここもシデのように地中海に突き出した 岬にある街で、北、北東、南西の三方に3つ の自然港を持ちます。前7世紀にロードス島の人々が興したとされますが、それ以前の前15世紀ごろにはルーウィ語を話す人々が住んでいたという説もあるよ うです。ルーウィ語はインド=ヨーロッパ語族に属する古代アナトリア語のひとつで、楔形の文字を使った文書が残されています。シデという街の名前は、同じ ルーウィ語に由来するものでした。
ファセリスは前5世紀にペルシャ、前4世紀にカリア、前333年にアレキサンダー大王に支配され、前2世紀中葉にリキアの国となり前43年ローマの支配下 に置かれました。リキアとパンフィリアの境界に位置するため、パンフィリアの都市だった時代もあったとも考えられています。
良港に恵まれていることから地中海貿易の中心地となり、ギリシアやエジプトといった国々に木材や薔薇の精油などを輸出していました。

海に囲まれているという立地はシデと似ていますが、雰囲気はまるで違います。周囲に民家はなく、松に囲まれた遺跡がひっそりとたたずんでいます。ひたひた と打ち寄せる波と松の枝を吹き抜ける風の音が聞こえるばかり。現在残されている遺跡は、ヘレニズムからローマ時代のものです。海岸沿いに水道橋の遺構が点 在しています。街の中心を貫くメインストリートは約24メートル、舗装の跡が残る広い道がまっすぐ続き、その両側に商店などの建造物が連なります。







大理石のフラグメント



ローマ浴場の設備



浴室



野外劇場



劇場舞台奥のスカエナエ・フロンス



北西の港

港にほど近いところにローマ浴場があり、床下のボイラー設備や浴室などが残されています。長い航海を終えた人々が上陸して、まずはひとっ風呂浴びてさっぱ りしていたのでしょうか。あまり規模は大きくないようですが、大小ふたつの浴場がありました。
野外劇場は小高い丘に客席が設けられたギリシア様式で、前2世紀のものです。舞台奥の壁はローマ時代になってから造られました。保存状態はかなり良く、約 1700人収容とやや小さいものの整った姿を見せています。通りから劇場内部に入る部分は階段や足場が組まれ、歩きやすくなっていました。
大通りの終点にある北西の港は、鬱蒼と茂る松林を越えたところにぱっと開けています。東側のふたつの港に比べると、内陸に入り込んでいるせいか波がおだや かで湖のような印象です。



ハドリアヌス門



神殿



野生のシクラメン



ねこカフェ?

神殿が街はずれの丘の中腹にありますが、これは神殿ではなく記念碑的な墓標ではないかという説もあります。
大通りに沿った遺構の他はあまり整備されているとはいえず、地図やパネルもやや説明不足の感があります。しかし何よりも、静かで美しい海辺と松林が古代遺 跡と相まって、豊かな雰囲気を醸し出しているところがファセリスの最大の魅力です。この静けさも、夏場にはビーチの海水浴客のにぎわいでかき消されるのか もしれません。
松の間を歩くと、降り積もった松葉がふんわりと足に優しく、かなり広い敷地の中でちょっとした森林浴を楽しめます。木陰に野生のシクラメンが群生している のを初めて見ました。花は小指の爪ほどの大きさで、それはそれは可憐なものです。

敷地内にオープンカフェがあり、海を眺めながら休憩することができます。ただしお手洗いはそこからかなり歩いた林の中にあるので、余裕を持って移動した方 がよさそうです。
カフェにたむろしていた猫たちは、松の木によじ登ったりテーブルを独占して日向ぼっこをしたり、のんびり楽しそうに遊んでいました。〈 2017.4.30. 〉



  オリンポス Olympos





街の入口にある集合建築





キリスト教の教会



川向うの街並み



神殿入口



神殿周辺



この先に地中海が



山側の風景

無休・夏期8:00〜19:00、冬期8:00〜17:00
アンタルヤから南西へ約90キロ、ファセリスの近くにリキアの古代都市オリンポスがあります。オリンポ スといえばギリシア神話の神々が住むといわれる山で すが、他にも同じ名前の山がいくつかあります。ギリシアのオリンポスはギリシア北部にある2917メートルの山、こちらは2366メートルのタフタル山 Tahtalı Dağıがオリンポスとされていました。
山の中腹には岩の間から炎が噴き出す箇所があり、ギリシア神話の火を吐く怪物に因んで「キマイラ」とも呼ばれています。またこの炎に関連して、この一帯は ギリシア十二神のひとりで炎と鍛冶の神ヘパイストス信仰があり、その影響で街が発展したという説もあるようです。
主要な遺跡は、タフタル山から流れ出るアクチャイ川Akçay の両岸に沿って海まで続きます。この街はヘレニズム時代にドーリア人が興したとされ、リキア同盟の主要都市でした。前1世紀ごろ海賊が住み着き、前78年 にローマ帝国の支配下に入りました。ここでは5世紀から6世紀のビザンティン時代の遺構が多く見られます。







水害対策のための水路







リキア様式の石棺



モザイクの館





きれいなビーチ



左寄りのヨットのあるあたりがオリンポス

街の入口にある集合建築は、住宅や商店、商取引所などに使われていました。大きな教会があるところなどはビザンティンという時代を感じさせます。川の対岸 にも遺跡が見えているのに、橋がないので渡ることができません。川沿いに海まで出てビーチから回り込むこともできそうでしたが、残念ながら時間切れとなっ てしまいました。対岸には5000人収容の野外劇場、ふたつのローマ浴場、バジリカなどがあるということです。

神殿はローマ皇帝マルクス・アウレリウスを祀ったもので、こちらはローマ時代の2世紀に建てられました。門の高さは4.88メートル。
脇道に入ると浸水から街を守るための水路が張り巡らされており、川の支流のように水が流れているものや、乾いているものもあります。ただまっすぐ水を流す のではなく、複雑な形に造られた部分もあり、たいへんよい保存状態です。
さらに水路をたどっていくと、リキア様式の石棺が見られます。家の形を模した石棺で、ふたの部分が屋根のようになっているのが特徴です。いずれも盗掘され ており、その時の穴が開いていました。
かなり奥まったところにモザイクの館があります。5世紀から6世紀にかけて建てられた2階建ての館で、各部屋の床にさまざまなモザイク画が施されていまし た。現在床は保護のため埋められており、肝心のモザイクは見られません。建物自体はおそらく宗教的な目的に使われたのではないかと考えられていますが、 はっきりしたことはわからないそうです。

遺跡の解説パネルはとても丁寧に書かれていますが、地図が少ないので全体像が少しわかりにくい感じがします。鬱蒼とした森と小川の間に遺跡が点在している ため、ハイキング気分たっぷりです。木陰が多く、強烈な日差しに悩まされることもありません。川沿いの歩道は広くて歩きやすくなっているものの、そこから 外れたエリアに入ると足元に注意が必要かもしれません。川の両岸にある遺跡を全部見るにはけっこう時間がかかるので、余裕をもって見学することをお薦めし ます。休憩所は見当たらないようでした。
訪れたのが週末だったせいか、他の遺跡に比べると遊びに来る人が多くいました。夏場にはキャンプや海水浴が楽しめる観光スポットとして人気があり、周辺に 小さなペンションやコテージがたくさんあります。自然と遺跡に親しむ落ち着いた避暑地、という感じでした。〈 2017.4.30 〉




  リミュラ Limyra




城壁



野外劇場





遺構



突然小川出現





  川底に敷石?



  冷たい水





遺跡の下から湧き出る水

無休・夏期8:00〜19:00、冬期8:00〜17:00
アンタルヤから南西へ約110キロ、オリンポスから約20キロ西に行ったところにリミュラの遺跡があります。ここは海岸線から6キロほど内陸に入ったリキ アの街です。前2000年ごろ人が住んでいた形跡があり、ヒッタイト語でゼムリZemuri という街だったと伝えられていますが、はっきりしたことはわかっていません。
リキアでもっとも古い街のひとつと考えられており、前5世紀にアテナイのペリクレスからリキア同盟の首都と認定されました。豊かで肥沃な土地だったことか らギリシアとの貿易が盛んになり、前4世紀に街が拡大します。その後ペルシャの支配を受け、前333年アレクサンダー大王に征服されました。後4年、初代 ローマ皇帝アウグストゥスの養子ガイウス・カエサルがアルメニア王国からローマへ帰還する途中、この街で亡くなっています。

遺構のほとんどはローマ時代のもので、道路を隔てて山の上と下に街が広がっています。ちょうど道路脇に下の街の城壁がそびえ立っており、その高さと厚さは 他に類を見ない大きさです。城壁内部にガイウス・カエサルの墓碑があるということでしたが、残念ながら中に入ることはできませんでした。ギリシア様式の野 外劇場は141年の地震の後に建て直されたもので、こちらもフェンスがあって入れないようになっています。約3700人収容のこぢんまりした劇場です。

下の街に降りていくと、かなり広い敷地に遺構が点在しています。ふと見ると、遺跡の間に小川が流れています。低地にある遺跡の場合、雨の後に水が溜まって 遺構がなかば水没していることがありますが、ここは清冽な泉が湧き出しているようです。しかもそれが小川となり、おまけに川底に敷石が並んでいます。こん な遺跡見たことありません。いったいどういうことになっているのでしょうか!?
さらによく見ると、遺跡の下から水が流れ込んでいます。街の下に川が流れている?何だかよくわかりませんが、とにかく流れに足を入れてみました。敷石は苔 が生えて滑りやすく水の流れがけっこう早いため、足の先だけちょこっと浸した感じです。冷たくていい気持ち。夏場には川遊びが楽しめるかもしれません。





さまざまな遺構



リキアの家形石棺






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山の中腹に広がる墳墓



  近所のオレンジ畑

敷地を出た山側の斜面にリキア特有の家形石棺が見えます。柱の上に石棺を乗せた家形柱状墓はクサントスが 有名で、そちらは7メートル以上の柱の上に石棺が あります。ここのものは下の土台を少し高くして、その上に石棺を据えた感じです。斜面には岩窟墓が折り重なるように広がっており、その数は約400墓。盗 掘された時の穴が開いています。山の斜面全体がネクロポリスになっているようです。岩をくりぬいて作った岩窟墓はミイラ 遺跡にもあり、神殿のように大きな お墓が岩肌に彫られていますが、こちらはもっと小型で密集しています。

山の上にはアクロポリスやビザンティン時代の教会といった遺構があるということでしたが、ごつごつした岩山を登っていく道が見当たらず断念しました。下の 遺跡にあるペリクレス廟や教会、宮殿なども、案内板などがないため建物を確定することができません。
敷地の入口に地図があるだけで、併設する施設はありませんでした。開場時間はいちおう決められているものの、原則的にアクセス自由という雰囲気です。周囲 はビニールハウスや果樹園ばかりで民家はありません。
遺跡としての管理はあまり行き届いているとはいえませんが、何よりも遺跡の下から水が湧き出して小川になっているというのが衝撃的です。

もしかしたら街の地下に貯水槽があり、そこから地下水があふれて流れ出ているのかもしれません。敷石のある小川は、かつて街の大通りだった場所に水が集 まって川になったとも考えられます。つまり、舗装された大通りの石畳が、後年川底の敷石になってしまったのではないでしょうか。そうでなければ、いくら ローマ人が建築に優れていたとはいえ、川底まで舗装する理由がわかりません。当時から川があったのではなく、時代がたって街が遺跡になってから川ができ た、という方がもっともらしい気がします。

どうしてこうなったのかはあれこれ想像するほかはありませんが、インパクトありすぎです。ほんとうにこんな遺跡は初めてでびっくりしました。〈 2017.5.30. 〉



  アンタクヤ Antakya
 


街の中心部



オロンテス川



にぎやかな通り

イスタンブールから飛行機で2時間弱、地中海地方の最南東に位置するハタイ県の県庁所在地がアンタクヤです。紀元前300年にセレウコス朝の首都として繁 栄したころは「アンティオキアAntiochia」と呼ばれていました。その後ビザンティン、アラブ、セルジュク、オスマンに支配され、第一次世界大戦後 はフランス領シリアに編入されていましたが1939年7月にトルコ領となりました。
現在の人口は約22万。街の中心を流れるアシ川Asi Nehri(オロンテス川Orontes)は、レバノンを源にシリアを北上してここを通り、さらに南下して地中海に流れ込みます。アシ川をはさんで街の西 側は新市街、東側が旧市街といった趣です。
ハタイという県名は、紀元前1680年ごろから前1190年ごろまでアナトリアを支配していたヒッタイト帝国(Hitit)に由来する呼び方です。現地で はアンタクヤの街そのものをハタイと呼ぶことが多いようで、空港や博物館、近郊から街へ来るバスの行き先などにもこの名前が使われています。



本屋のスタンド



シリア初代大統領邸宅



地元の高校もフランス建築

アラブ圏との関係が深い地域のため、アラビア語とトルコ語の両方を話す人が多く、本屋にアラビア文字の雑誌なども並んでいます。シリアとの国境が近いの で、頭から足までを覆う黒いチャドルを着た女性がいるかもしれないと思いましたが、一度も見かけませんでした。
歴史的な経緯を反映してか、街の様子も他のトルコの都市とは少し雰囲気が違います。伝統的なオスマン様式の家屋の他に、フランス式の瀟洒な建物がいくつも 残されています。泊まったホテルもそのうちのひとつで、シリアの初代大統領の邸宅として1920年代に建てられたものだそうです。こぢんまりとした快適な ブティックホテル(プチ・ホテル)で、観光を終えて帰ってくるとレセプションの係員が冷たい飲み物やお茶をご馳走してくれました。



セルミエ・ジャーミー



中庭の泉



ハビブ・ネッジャール・ジャーミー

ジャーミーのミナーレはオスマン様式のように細いペンシル型ではなく、太くがっしりとした造り。頭頂部はとんがり屋根のついたバルコン状になっており、そ の部分の装飾が特徴的です。セルミエ・ジャーミーSerımiye Camiiは建造年がはっきりしませんが、1719年に修復されています。写真を撮っていたら、門番が中庭にある古めかしい水盤の水を噴水のように出して 見せてくれました。
ハビブ・ネッジャール・ジャーミーHabibı Neccar Camiiはかつてキリスト教の教会でした。西暦40年ごろこの街にいたハビブ・ネッジャールというキリスト教伝道者から名前を取ったと伝えられていま す。その後イスラム教の寺院になり、現在の建物はオスマン時代に修復されました。ミナーレは17世紀のものです。



ギリシャ正教会



カトリック教会



カトリック教会の中庭からセルミエ・ジャーミーのミナーレが見えます



プロテスタント教会



改装中のシナゴーグ

アンタクヤは聖ペテロがキリスト教の布教を始めた場所として有名です。旧市街にはギリシャ正教、シリア正教、カトリック、プロテスタントなど各宗派の教会 がひしめいており、この街が宗教的中心地であったことを彷彿とさせます。セルミエ・ジャーミーの向かいにシナゴーグがありましたが、改装中で見学できませ んでした。



前菜各種



「タイムのサラダ」



チーズがはみだしているキュネフェ

異なった民族文化との交流が盛んだったアンタクヤは、その影響を受けて料理もおいしいといわれています。でもわたしたち日本人からすると、たとえばシリア やヨルダンといったアラブ圏の料理とトルコの料理はとてもよく似ていて、味付けの微妙な違いはあるにせよ共通する点が多いように感じられます。とはいえ、 たしかにアンタクヤにはイスタンブールでは見かけない料理がたくさんありました。
スパイスを練り込んだ挽肉を薄く大きく広げて調理し、ユフカ(小麦粉を練って薄くのばした生地)で包んだケバブや、ぽろぽろした柔らかいチーズのサラダ。 トマトと野菜、赤唐辛子の辛いペーストはトルコ中どこでもありますが、ここのは辛さのなかにも野菜の新鮮な甘みがそのまま凝縮されているような味わいで す。
びっくりしたのはローズマリーのサラダ。ローズマリーはシソ科の低木でマンネンロウともいいます。地中海沿岸地方原産のハーブで、フランス料理やイタリア 料理によく使われ、日本でも一般的になりました。針葉樹のようにとがった葉で香りが強く、刺すような刺激があります。何とこの生の葉をざくざく切ってトマ トと玉ねぎのみじん切りと混ぜ、レモンとオリーブオイルをかけてサラダにするのです。
なぜこんな無謀なものを注文したかというと、メニューには「タイムのサラダkekik salatası」と書いてあったからです。タイムも地中海沿岸原産のシソ科のハーブですが、ローズマリーよりはるかにおだやかな優しい芳香で葉も丸く柔 らか。これならサラダにして食べることは十分可能で、とてもめずらしい一品だと思ったのです。結局このサラダ、当然というべきか、半分も食べないうちに挫 折しました。
テーブルにはサービスでイタリアンパセリとフレッシュなミントを山盛りにしたお皿がドンと置かれます。イスタンブールでは炭火焼き専門店に行くと、肉料理 の薬味、あるいはお口直しとしてこのお皿が出てきますが、アンタクヤではどの店でも、何を注文しても必ず出てきます。しかもその量が半端ではありません。 ほとんどサラダひと皿分以上のパセリとミント。もはや添え物の域をはるかに越えています。おまけに葉が大きくたくましいのにたいへん柔らかで、ぼそぼそし た感じがしません。ローズマリーでしびれた口のなかをパセリとミントで癒すことになったのでした(?)。

アンタクヤといえば「キュネフェkünefe」といわれています。これは素麺状に細く 練った小麦粉の生地に白くて伸びるチーズを挟み込んで成形し、専用の 金属皿に入れてたっぷりの油で揚げるように焼いてからシロップに浸したお菓子です。お好みでアイスクリームや粗く砕いたピスタチオを載せることもありま す。トルコ全土で見られますが、この地方の名物だそうです。
トルコのシロップ漬けのお菓子はどれも卒倒しそうな甘さで、食べるのに勇気が要ります。意を決して昼食代わりに挑戦。たっぷり挟まっているチーズが意外に あっさりしていて、シロップに浸かった生地にさくさく感があり、おいしく頂きました。甘くて喉がちりちりしてくるので、水がないととても食べきることはで きませんが。



スパイスやハーブ茶を売る店。 巨大なへちまも



チーズ専門店



大通りで塩味ヨーグルトドリンクを売るおじさん

街の中心には長いアーケードの市場があります。その名も「長い市場uzun çarışı」。かなりの規模で無数の路地があり、ちょっと迷路のようです。日用品、衣料品、靴、金物、乾物、食品などの店が並び、地元のひとたちが日々 の買い物に訪れてにぎわっていました。

管理人がアンタクヤを訪れたのは2011年夏のことです。その少し前からシリアの政情は不安定でしたが、まだそれほど深刻ではありませんでした。それから 1年後の2012年。アンタクヤの東にあるレイハンルReyhanlıでは3万5000人のシリア難民が避難生活をしています。アンタクヤの街の様子も、 以前と同じというわけにはいかないかもしれません。〈2012.7.25.〉



  聖ペテロ洞窟教会 St. Pierre Kilisesi



教会入口



内部のアーチ



祭壇

アンタクヤの東側には山が連なっています。路地を歩いていて方角がわからなくなっても、近くに見える山を探すとだいたいの見当がつくので、ひどく道に迷う ことはありません。街を見おろす山の中腹に聖ペテロの洞窟教会があります。
ペテロはキリストの死後、西暦29年から40年のころこの街にやってきて、ここからキリスト教の伝道を始めました。この教会は最初期のキリスト教徒たちが 集会を行った場所のひとつとされ、キリストの信仰者をさす「クリスチャン」という呼び方も、ここで初めて使われたそうです。
洞窟正面入口のファサードは12世紀ごろ十字軍によって造られ、19世紀に修復されました。洞窟の深さは13メートル、幅9.5メートル、高さは7メート ル。かなり広い印象を受けます。内部はがらんとしていますが、岩壁をくり抜いた祭壇にペテロの像が置かれ、石でできた説教壇もありました。破損がひどく判 然としない床のモザイクは4、5世紀ごろのものです。
後陣の脇にトンネルがあり、外敵が襲来したときの逃げ道になっていたという説もあります。実際に山の他の部分にトンネルがいくつもあるようで、教会のはる か上の岩肌にもその跡が見えました。毎年6月29日の聖ペテロの聖名祝日には、この場所で宗教的な儀式が行われるということです。



教会の上にも岩を穿った跡が



トルコ語で「ヘロンHeron」と呼ばれる「カロン」



山の中腹から見渡すアンタクヤの街

この教会から北西に200メートルほど登ったところの岩肌に、「カロンCharonの像」が彫られています。カロンはギリシャ神話に出てくる三途の川の渡 し守。こちらは教会よりも古く、ヘレニズム時代の紀元前175年、街の疫病を鎮めるために造られたといわれています。かなり大きな彫刻ですが、浸食したの か削り取られたのかのっぺらぼうで、そのつもりになって見ないと何だかよくわからないものでした。〈2012.7.25.〉

〈この項続く〉