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番外編・キプロス島の日々  〈 2021.04.25.〜2021.12.23.

番外編・サモス島の日々  〈 2020.12.27.〜2021.3.25.

番 外編・ロドス島の日々
  〈 2019.7.30.〜2020.4.19. 〉

番外編・コス島の日々  〈 2018.5.31.〜2019.2.15.〉

  番外編・キプロス島の日々
 


南キプロス・パフォ ス





パフォス遺跡





ちんまりしたリゾー トホテル





1610年ベネチア 人によるニコシア



南の検問所



にぎやかなリドラス 通り













ギリシャ正教のイコ ン

トルコやシリアに近いキプロス島は、地中海で3番目に大きい島です。9.250平方キロと いう四国のほぼ半分の土地に1.237.088人(2018年) が住んでいます。
この島の特徴は、南側がキプロス共和国Republic of Cyprus、北側が北キプロス・トルコ共和国Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyeti (KKTC) と、ふたつに分かれていることです。

キプロス島は東地中海文化を担う中継点として、古代から栄えていました。ヒッタイトやアッ シリア、エジプト、ペルシャ支配の後、プトレマイオス朝の保護下 に置かれ、前58年ローマの属州となります。その後東ローマ帝国から12世紀にイングラン ド、15世紀にベネチア、16世紀オスマン帝国と支配者が移り、 1914年英国統治領となりました。
1960年に「キプロス共和国」として英国から独立を果たしましたが、1963年島に混在 していたギリシャ系住民とトルコ系住民との対立が激化、紛争状態 となります。1974年ギリシャ系住民がギリシャとの統合を求めてクーデタが勃発、それに 対してトルコはトルコ系住民の保護を目的として軍を派遣、島の北 側を占拠します。1983年トルコは北部を「北キプロス・トルコ共和国」として分離独立を 主張しました。

以降、島は南北に分断され現在にいたっています。北キプロスを国家とみなしているのはトル コだけで、国際社会はこれを認めていません。
南北の間には緩衝地帯(グリーンライン)があり、国連平和維持軍が常駐しています。両地域 を往来するには、しかるべきクロスポイントにある検問所を通過し なければなりません。



ニコシアの考古学博 物館





落とし物



北キプロス・ガズィ マウサ



元大聖堂、今モスク





ガズィマウサ近くの ビーチ



北キプロス・サラミ ス遺跡







北キプロス・レフ コーシャ



元大聖堂、今モスク



レフコーシャ







南国の花

現在、ギリシャ系住民のほとんどは南キプロス、トルコ系住民は北キプロスに住んでいます。 南キプロスは5.296平方キロ(全島の約60%)、人口は 875.900人(2018年)。北キプロスは3.355平方キロ(同37%)、人口 361.188人(同)。これとは別にイギリス主権基地領域(254 平方キロ)、緩衝地帯(346平方キロ)が設けられています。

「南キプロス」や「北キプロス」というのは正式名称ではありませんが、ここでは便宜上南側 にある「キプロス共和国」を南キプロス、北側の「北キプロス・ト ルコ共和国」を北キプロスと呼ぶことにします。

両国の首都はニコシアNicosia(レフコシアLefkosia、レフコーシャ Lefkoşa)。ニコシアは英語名、レフコシアがギリシャ語名、レフ コーシャはトルコ語名です。ニコシアの街中も南北に分かれています。
公用語は南キプロスはギリシャ語、北キプロスはトルコ語ですが、広く英語も使われます。通 貨は南がユーロ、北はトルコリラ。南は2004年EUに加盟しま した。
かつて島は英国領だったせいか、南北ともに車は左側通行で日本人には馴染みやすく感じま す。電気プラグもヨーロッパやトルコで多いC型ではなく、英国で使 われるB型です。

キプロスでは前3000年ごろ世界最古といわれる銅鉱床が発見され、以来鉱業が盛んでし た。「キプロス」という名前は「銅」に由来するという説もありま す。現在南は観光業や金融業が主要産業ですが、北にはめぼしい産業がないということで、南 北の経済格差は大きいようです。

南北間の情勢は流動的ですが現在は安定しており、欧米からバカンス客が多く訪れます。南は ラルナカやアヤ・ナパといった海岸沿いのリゾート地が有名で、施 設も充実していて夏は大にぎわいです。北に大きなリゾート地はあまりないようですが、近年 トルコでは人気のあるバカンス先になってきました。
輝く海と空の美しさは特筆すべきものです。その素晴らしさは南も北も関係ありません。島に は遺跡が点在しているため、ビーチリゾートに加えて遺跡めぐりが 楽しめるのも大きな魅力となっています。〈2021.4.25.〉



  南北キプロス往来Round Trip in Cyprus
  


北キプロス・エル ジャン空港



北キプロス・レフ コーシャ













北側のロクマジュ検 問所



境界線



南側のリドラス検問 所



キプロスには前項で挙げたような複雑な歴史的背景があるため、外国人が島の南北を往来する には注意が必要です。
かつて南北間の移動には厳しい規制があり、一度北のトルコ軍占領地域に入ったらその後EU 諸国(あるいは第三国)には入国できないとか、南から北へ行った 場合宿泊は認められず、その日のうちに戻ってこなければならないということが多々ありまし た。しかし近年は両国間の情勢がおさまっているため、だいぶ規制 が緩和されています。

わたしがキプロスを訪れたのは2019年9月。トルコのイスタンブールから北キプロスに入 り数日滞在、その後南キプロスに滞在してから、再び北に戻ってト ルコに帰るというルートでしたが、とくに問題はありませんでした。
とはいえ、ちょっと緊張する場面があったのも事実です。
空路で北キプロスに入るには、トルコからしか路線がありません。イスタンブール空港のパス ポートコントロールでは、わたしのパスポートと搭乗券を見た係員 が「日本国籍の人間が(北キプロスの)エルジャン空港へ行こうとしている」と、どこかへ電 話連絡をしていました。
普段は乗客と気さくに世間話などをする係員が多いのですが、この時はそんな雰囲気ではあり ません。ややあって大丈夫だということのようで、すぐに通過する ことができました。

北キプロスの空港で入国する際には、滞在日数や目的を聞かれ、いきなりパスポートに入国印 を押されてあせりました。パスポートに北キプロスの入国印がある と、その後EU圏に入れないため、外国人の場合は別の用紙にハンコが押されると聞いていた からです。
この後南キプロスはもちろん、EUに行く予定もあったので、果たして大丈夫なのかと不安に なります。周囲を見ると、同じ飛行機に乗っていたトルコ人は別紙 にハンコを押してもらっているようでした。
入国審査のカウンター近くに空港警察のオフィスがあったので、中に入って事情を説明して確 認すると、警察官はパスポートを眺めて問題ないと言います。空港 に詰めている警察官がそう言うなら大丈夫だろうと、とりあえず安心することにしました。
パスポートには北キプロス入国印とともに「30日」(滞在可)というようなことが手書きさ れていました。

北キプロス滞在の後、首都のニコシアで南キプロスに入ります。この街はちょうど真ん中に境 界線があり、ドイツが東西に分断されていたころのベルリンのよう です。旧市街の城壁のなかも真っ二つに分かれています。
城壁のなかに徒歩で通過できるクロスポイントがあります。北から南へ続く1本の歩行者専用 の石畳の道で、両側に連なるのはイタリア時代に建てられた美しい 建物群です。北側のクロスポイント近くにはカフェやレストラン、土産物店が多く、トルコで よく見るバザール的雰囲気濃厚。その先にロクマジュ Lokmacı検問所が見えてきます。
ロクマはトルコの伝統的なお菓子で、シロップ漬けの丸い小さなドーナツのことです。ロクマ ジュとは「ロクマ屋」というほどの意味なので、かつてここにロク マの店があったのかもしれません。

検問所でパスポートを見せて何事もなく通過。数メートル歩いて南側の検問所にたどりつき、 再びパスポートを見せます。検問所間の道路両脇の建物は、当然の ことながらすべて閉鎖されています。
南の検問所の係員は陽気なおじさんで、ちらっとパスポートを見ると「ヨコハマか〜?」など とニコニコ上機嫌です。何でいきなりヨコハマ?ちょうどこの時ラ グビーのワールドカップが日本で開催されていたので、会場になった横浜が出てきたのかもし れません。
緊張した割にはあっさり通過することができました。両脇の建物や頭上にある日除けのシェー ドが北から南へ連続しているため、まっすぐ道を歩いているうちに 境界線を越えたという感じです。



リドラス通り









アジアレストラン



アジア系八百屋



インド人の青空床屋



涼し気



エルジャン空港免税 店



イスタンブール行き

西側の検問所を出ると、きらびやかな繁華街のリドラスLidras通りになります。土産物 店、おしゃれなカフェやレストラン、ブティックやブランド店が並 び、観光客が闊歩してにぎやかです。アジア料理店も目につき、現地に住む東南アジア系やイ ンド系とおぼしき買い物客もたくさん歩いていました。
城壁内には東南アジアの食材や雑貨を扱うスーパーが何軒かあり、エスニックな生鮮野菜を売 る八百屋なども見かけます。遠く離れた南キプロスに、こんなにも アジア系の人々が定着しているとはびっくりです。
一方、城壁の外にある公園はインド系の人々の憩いの場になっていて、青空床屋が出たり、軽 食を持って家族で遊びに来た人々がくつろいでいました。
ニコシアを北から南へ縦断すると、トルコのちょっと古びた地方都市から、突然国籍不明のカ ラフルでモダンな街に飛び込んだような、何とも不思議な感じにな ります。地元の人々は買い物などで日常的に南北を行き来しているようでした。

帰りは来たルートを逆に戻ったわけですが、結局パスポートには北キプロスの空港で押された 入国と出国の印だけで、南キプロス出入国の印はありません。その 後EUに入る時も、何も問題はありませんでした。

規制緩和によって、現在は南から入った観光客が北側を数日観光することも可能なようです。 北キプロス各地を観光している外国人を多く見かけました。
また、ヨーロッパ経由で南キプロスに入るより、トルコ経由で北キプロスに入る方が航空券が 安いため、そのルートでキプロスに来て南北を観光するケースも多 いということです。

現在キプロスは平和的な状況が保たれており、街を歩いていて不穏な場面に出会うことはあり ませんでした。とはいえ、今後いつ何が起きるかはわかりません。
トルコがEUに加盟するにはキプロス問題を解決することが前提にありますが、先行きは不明 です。また近年、キプロス周辺で大規模な天然ガス田が次々と発見 されました。しかし北キプロスが領有権を主張する海域とガス田が重なっているため、関係諸 国と緊張の種になっています。

南北キプロスを訪れる際には、最新の情報を確認したうえで入国されることをおすすめしま す。〈2021.4.25〉



  北キプロス・ガズィマウサGazimağusa(ファマグスタ Famagusta)




要塞の街



リマソール門



旧市街



裏路地





広場への道



聖ニコラウス大聖堂







連続する飛梁



ベネチア宮



聖ペテロと聖パウロ 教会





教会の扉



双子教会



よろず屋



エレガントな住宅



あふれる花

キプロス北東部のガズィマウサは北キプロス側にある港町です。ガズィマウサはトルコ語名、 英語名はファマグスタ。古代にはアルシノエArsinoeと呼ば れた小さな漁村でしたが、前285年ごろプトレマイオス朝時代にフィラデルファス Philadelphusとなり、さらにファマグスタとなりました。
島でもっとも深さのある天然港として4世紀から12世紀のビザンツ時代に栄えます。その後 フランスのリュジニャンLusignan家がキプロス王となり (1192〜1489年)、これを機に13世紀にローマカトリック教徒が流入しました。交 易で豊かになった商人たちは次々と教会を寄進し、当時は街中に 365もの教会があったということです。

リュジニャン時代からベネチア時代に造られた堅固な城壁は現在もきれいに姿をとどめていま す。城壁はニコシアのように整った円型ではなく、横700メート ル×縦1050メートルの平行四辺形に近い形で、東側の城壁のすぐ外はガズィマウサ港で す。城壁の南にあるメインの出入口はリマソール門と呼ばれ、分厚い 壁と複雑な塔がいかにも中世の城塞らしい構造を見せています。

英国統治時代は城壁内の旧市街はトルコ系住民地区、城壁の外のファマグスタ南部がギリシャ 系住民地区と住み分けられていました。1960年のキプロス独立 以降、ギリシャ系住民地区は海岸沿いのリゾート地としてヨーロッパ各国から多くの観光客が 訪れてにぎわい、近代的なビルが林立して経済的に繁栄します。
しかし1974年のトルコ軍侵攻後この地区は閉鎖され、ギリシャ系住民は街から脱出を余儀 なくされました。以来閉鎖は続き、一帯は無人のまま廃墟と化して いるということです。

一方、ガズィマウサの新市街には東地中海大学Doğu Akdeniz Üniversitesiなど大きな大学がいくつかあり、広々としたキャンパスに各国から 学生が集まってきます。この一帯は都会的な学生の街として活気に あふれ、旧市街周辺とは対照的です。キプロスは南北ともに大規模な大学があり、近年は人気 のある留学先のひとつになっているということでした。

旧市街の方は長くトルコ系住民が住み続けているわけですが、現在は城壁内に民家が建ち並ぶ ばかり、閑散としていて商店も多くありません。街の中心部に観光 客相手のカフェやレストランが数軒、小規模のホテルやペンションが数軒ある程度です。あち こちに廃墟と化したベネチア時代の教会がそびえているせいか、街 全体が時代に取り残されてひっそりとした印象を受けます。

城壁のメインゲートを入ってすぐ左側の建物はオスマン時代にメスジット(礼拝所)として使 われたもので、今はツーリストインフォメーションになっていま す。このオフィスは観光案内のパンフレットやさまざまな資料、地図などがたいへん充実して いて、情報収集にはお薦めです。係員の方々も丁寧にいろいろなこ とを教えてくれました。

街の中央にそびえるのは聖ニコラウス大聖堂St.Nicholas Cathedral。堂々とした美しいフランスゴシック様式の建物で1291年から 1373年にかけての建造です。ここでキプロス王の戴冠式が行われてま した。オスマン帝国が1571年にファマグスタを占領した後モスクに転用され、現在はラ ラ・ムスタファ・パシャ・ジャーミーLala Mustafa Paşa Camiiとして使われています。
堂内は絨毯が敷き詰められ、メッカの方角を表すミフラーブやミンベル(説教壇)がしつらえ てあります。イスラム教寺院の付属設備と、欧州の典型的なゴシッ ク教会建築との組み合わせが不思議です。現役のモスクのため礼拝中は見学できません。せっ かく美しい歴史的建造物なのに、外壁の劣化が目につくのが残念で す。
現在旧市街に残る16の大聖堂、教会、礼拝堂のうち健在なのはこの大聖堂だけで、他は史跡 になっています。

広場に面してベネチア時代の宮殿があります。ファサードしか残っていませんが、キプロスに ある16世紀のイタリア建築としては非常に稀有なものということ です。正面の3本の柱は、ガズィマウサ近郊のサラ ミス遺跡から運ばれてきました。

宮殿の南のかなり大きな建物は聖ペテロと聖パウロ教会Church of Sts.Peter and Paulです。1360年ごろの建造、ガズィマウサにあるゴシック建築の教会としてはもっ ともよい保存状態だといわれています。大聖堂に比べるとやや素朴 な印象ですが、時代を追うごとに改築されていきました。オスマン時代の1572年にモスク となり、英国統治時代には倉庫や図書館として使われていたという ことです。

広場近くに双子教会Twin Churchesがあります。左側が14世紀初頭建造のテンプル騎士団教会、右が14世紀 末にできた聖ヨハネ騎士団教会です。



聖アンネ教会



ネストリア派教会



カルメル会教会



聖シメオン教会



ビザンツ教会



聖ゲオルギオス教会



壁に残る装飾



ユニークな案内板



海の門



ライオン像



  城壁の上から



オセロの塔



観光地風



お土産品



  レストラン街



旧映画館



路傍のヘチマ



城外のロータリー



コンサートのポス ター



新市街



ピンク色の夾竹桃

広場周辺から北西の城壁近くにネストリア派教会Nestrian Church、聖アンネ教会Church of St. Anne、カルメル会教会Carmelite Church、アルメニア教会Armenian Churchなどが並びます。いずれも14世紀の建造、すべてフェンスに囲まれて保存され ており、遺跡状態になっています。
ネストリア派はコンスタンチノープル(現イスタンブール)の総司教ネストリウスの説を支持 する一派で、トルコやシリアで5世紀に興りました。ローマ帝国内 では異端として迫害されましたが、6世紀ごろから中東で布教活動が盛んになり、インドや中 国にまで伝わりました。中国では景教と呼ばれます。ファマグスタ のネストリア派の人々は当時もっとも裕福な階級に属する商人が多かったそうです。
カルメル会は12世紀にパレスチナで生まれた修道会で、13世紀に発祥地を離れてキプロス とシチリアに移りました。現在は世界各地に修道院があります。

旧市街南東にあるのが聖シメオン教会Church of St. Symeonです。聖シメオンは390年頃キリキア(現トルコの地中海地方)に生まれた聖 人で、高さ18メートルの塔の上に4メートル四方の小屋を作り、 そこで40年以上も祈祷を続けたという伝説があります。他に例を見ない独自な修行方法から 正教では登塔者シメオンSymeon Stylitesと呼ばれました。修行が行われた柱はシリアのアレッポに現存するというこ とです。この教会は1360年代の建造、現在は何故か駐車場に なっています。

聖シメオン教会の近くに並んで建つのが、ビザンツ様式の聖ゾニ教会Church of St.Zoniと聖ニコラウス教会Church of St.Nicolaosです。他の教会跡のようにフェンスで囲まれて保存されているわけで もなく、大きな住宅の庭のような空き地にぽつねんとあります。現 在旧市街に3つ残るビザンツ教会のうちの2つで、建造は中世後期ごろ。オスマン時代を通し て、何か教会以外の目的で当時周辺に住んでいた正教徒らに使われ ていたのではないかと考えられています。

城壁内東寄りにある聖ゲオルギオス・カトリック教会Church of St.George of the Latinは1302年から1307年の建造、この街ではかなり古い教会です。羊に喰らい つくライオンのレリーフやガーゴイルなど、わずかに装飾が残って います。

旧市街には他にも16世紀オスマン時代に造られたハマムや水場、教会からモスクに転用され た建造物が形をとどめており、数時間で全部歩いて回ることができ ます。いずれも見学自由。
閉鎖された教会などはEUやUNDP(国連開発計画)によって保存されていますが、建物の 修復をするというわけでもなく荒れるにまかせているようです。
街中に時折教会のフォルムを表す図入りの案内板が立っています。これがたいへん便利でデザ イン的にも秀逸です。立て続けに似たような教会をいくつも見ると 何が何だかわからなくなるものですが、この図のおかげで教会の名前と現物が混乱することな く判別できます。

それほど広くない城壁内に、実にさまざまな宗派の教会がひしめいているのが特徴的です。ほ とんどが14世紀のもので、当時のファマグスタがキリスト教の歴 史の中でどれほど重要だったかがわかります。また、この土地と小アジア(現トルコ)やシリ アとの結びつきの深さも実感できるのでした。

大聖堂から東にまっすぐ進んだ先の城壁にも門があります。リマソール門が陸の門ならば、こ ちらは海の門、いずれも建造当時のオリジナルの姿を残していま す。海の門は閉鎖されて外部とは通じていませんが、城壁に登ってすぐ外にある港を見渡すこ とができます。門の前に鎮座するライオン像もベネチア時代のもの です。

さらに北に進むとオセロの塔が見えてきます。シェークスピアの『オセロ』(1602年)の 舞台になったとされることから名前がつきましたが、シェークスピ アがこの地を訪れたことはありません。最初に塔ができたのはリュジニャン家統治時代で、そ の後拡張されました。塔の脇の門から城壁の上に登れますが、この 時は閉まっていました。

見どころがたくさんあるガズィマウサ、旧市街を歩いていると中世教会ツアーのようです。エ ルジャン空港からシャトルバスが走っているため、アクセスは悪く ありません。
街のバスターミナルから旧市街へ向かう時、同じバスに乗り合わせた年配の方がタクシーでわ ざわざ城門近くまで送ってくれました。ついでだからと言って。
城壁の外側はかなり広い車道になっていますが、横断歩道はあるのに信号が見当たりません。 それなりに車は走っているので渡るのをためらっていると、次々と 停まってくれます。気忙しい都会ではなかなかそんな光景に出くわすことはありません。
また、暑いさなか見学に疲れ果てて裏道をとぼとぼ歩いていたら、玄関先のテラスで夕涼みし ていた地元の人から飲み物をご馳走になったこともありました。 よっぽどヘタレて見えたのでしょうか。
トルコの人は一般に世話焼きで親切ですが、北キプロスもなかなか親切な人が多いようです。

基本的に本土より英語が通じます。街の標識や解説パネルなども必ず英語表記があるので困る ことはありません。地元の人々が話すトルコ語は、本土のトルコ語 よりわかりやすく感じました。言葉の使い方に多少の違いはあるものの、とくになまっている とかイントネーションがまるで違うということもないようです。本 土よりゆっくり静かに話す人が多いせいかもしれません。北キプロスのテレビ番組を見てもそ んな感じでした。

複雑な歴史が今もそのまま痕跡を残すガズィマウサですが、何となくおだやかでのんびりした 雰囲気が漂っています。幾度もの激動の時代を越え、人々はこの地 で静かに生活しているという印象を受けました。〈2021.5.28.〉






サラミス



ギムナシウム



コリント様式





複合施設



ローマ浴場



床のモザイク



浴室





八角形の水風呂



スタジアムのトラッ ク



スタジアム観客席



野外劇場







テルマエ・ロマエも うひとつ

無休・夏期8:00〜17:00・冬期8:00〜15:30
ガズィマウサの北6キロほどの海岸沿いにサ ラミス遺跡があります。ヘ ロドトスの『歴史』に記されている「サラミスの海戦」があった場所ではありません。こ の海戦は前480年ペルシア戦争の際、ギリシアのサラミス島付近で起きたものです。
とはいえ、キプロスのサラミス沖でも歴史に残る海戦がありました。前450年デロス同盟艦 隊とアケメネス朝ペルシア艦隊との海戦、前306年ディアドコイ 戦争でプトレマイオス1世とデメトリオス1世との海戦です。何故キプロスに「サラミス」が あるかというと、この街を興した伝説上の人物テウクロス Teukrosがギリシアのサラミス島出身だったからだと伝えられています。

前11世紀の青銅器時代後期に人が住んでいた痕跡があり、フェニキア人が入植していまし た。前877年にアッシリアの支配を受け、近東を中心にした地中海 貿易で栄えます。前400年にはキプロスの首都となり、アレクサンドロスのペルシア征服後 プトレマイオス朝が、後にデメトリウスが支配し、58年ローマの 属州となります。首都は島の南西にあるパフォスPaphosに移されましたが、サラミスの 重要性は変わりませんでした。
47年ごろパウロは第1回目の伝道の旅で、サラミス出身のバルナバとともにアンティオキア (現トルコのアンタクヤ) を出発、この街とパフォスを訪れていま す。
街はたびたび地震に見舞われ、とくに4世紀の地震では甚大な被害を被りました。コンスタン ティヌス2世がこれを再建、以降コンスタンチア Constantiaと呼ばれるようになります。しかしやがて港が埋まって街は衰退、7世 紀にアラビア人の侵略によって破壊され、人々はアルシノエ(現 ファマグスタ)に移り住みました。



柱が並ぶ道



エピファニオスの大 聖堂



アゴラ



ゼウス神殿?



貯水場



カンパノペトラのバ シリカ





モザイク



遺構







白く輝く地中海



正真正銘の砂浜



ビーチ

現在残されている建造物はほとんどがローマ時代のものです。
前1世紀のギムナシウム(運動場)とローマ浴場の複合施設はスケールが大きく、保存状態も 優れています。広大なギムナシウムをとりまく列柱を見ると、その 規模がよくわかります。いくつもある浴室には彫像が置かれていた壁のニッチや浴槽、モザイ クの床、水道管などが見られます。
複合施設の隣にあるのがスタジアムです。スタジアムのトラックを使った円形競技場もありま した。今はトラックと観客席の一部しか残っていません。

その南西にある野外劇場は観客席50列、15000人収容という堂々たるもので、典型的な ローマ様式の劇場です。非常にきれいに復元されており、一部大理 石の客席が見られます。オーケストラピットの中央には演劇の神ディオニュソスの祭壇がしつ らえられ、ローマ皇帝の彫像が飾られていました。4世紀の大地震 で崩壊した後に再建されることはなく、建材は他の建築物に使われたということです。

4世紀の司教エピファニオスEpiphaniosのバシリカはキプロスで最大のものでした が、7世紀にアラビア人に破壊されました。その後南側の後陣の裏 に小さな教会が建てられ、それが遺跡として残されています。

バシリカの東にアゴラ、ゼウス神殿、貯水場と並んでいますが、並んで見えるのは地図の上だ けで、実際にはどこが何なのかははっきりわかりません。神殿はヘ レニズム初期に建立され、ローマ時代に再建されました。貯水場はニコシア近くのキトレア Kytreaからここまで、50キロものダクトを通して運ばれた水 を溜めていた場所。水道はローマ時代から7世紀のビザンツ時代まで現役だったということで す。

構内の北、海に近いところにも大きなバシリカがあります。カンパノペトラ Campanopetraのバシリカは6世紀か7世紀ごろの建立、床の幾何学模様 のモザイクがきれいに残っています。

敷地を越えた南西部には広大なネクロポリスが広がり、前9世紀から初期キリスト教時代の埋 葬場になっていました。王家の墓ではエジプトやレバノン製の副葬 品が発見され、当時のサラミスが地中海世界で豊かな富を築いていたことがわかります。動物 の供犠なども行われていたそうです。

かなり広い遺跡です。標識や解説パネルは整備されており、道も平坦で歩き安くなっていま す。遺跡の常で日陰はほとんどありません。夏のキプロスは日中気温 が高く日差しが肌に突き刺さるので、訪れる際に熱中症対策は万全に。
構内にカフェがあり、見学後に一息いれることができるのは助かります。
チケットブースの係員は知識が豊富で、見学の前にいろいろなことを教えてくれました。
午前中ここから見える海はちょっと不思議です。海全体は白く輝き、水平線だけが青い線を引 いたように見えます。向う側の陸地が見えるわけではありません。 地中海はトルコ語で「白い(明るい)海Akdeniz」という意味ですが、それはこうした 光景に由来するそうです。遺跡とは直接関係ありませんが、印象的 な話でした。

見学途中で国連平和維持軍の兵隊さんと話をする機会がありました。スロバキアの出身で、任 期を終えて国に帰る前の休暇でここに訪れたそうです。歴史や遺跡 に関心があるということで、休みのたびにキプロス中を見て回ったとか。「キプロスは太陽が いっぱいで素晴らしいけれど、いかんせん暑すぎる!」とは彼の弁 です。南北を比べると、北は遅れていて南の方が快適だと話していました。

遺跡の脇に遠浅の美しい砂浜が続きます。遺跡見学の後は海水浴をおすすめします。
周囲に民家も何もないため海はたいへんきれいで、海底の砂が波に揺られてできる砂紋がはっ きり見えるほどです。海水は暖かく波はおだやかで快適。泳いでい るとメダカほどの小さな魚が寄ってきます。
訪れる人も少ない田舎のビーチという風情で、静かに海を楽しみたい向きには理想的な場所と いえるでしょう。トルコ側の地中海は波が荒く砂浜も少ないので、 ここを訪れて地中海の印象がだいぶ変わったのでした。〈2021.5.28.〉



  北キプロス・レフコーシャLefkoşa



元大聖堂



入口



アーチ



小さな彫刻群



内部



ステンドグラス



隣の出入口



横からの眺め



公設市場



内部



八百屋



土産物店



乾物や雑貨類

北キプロス・トルコ共和国の首都レフコーシャは、ニコシアの旧市街北半分とその周辺に広が る一帯です。美しい円を描く城壁内部に数々の歴史的建造物が残 り、南のレフコシアに滞在する観光客も見物に訪れます。南側より物価が安く、エキゾティッ クな雰囲気が気軽に楽しめるとあって、検問所近くはちょっとした 観光地の趣きです。トルコ本土の観光地と違うのは、ほとんどの店でユーロが使え、英語が通 じるということでしょうか。それをのぞけば街の雰囲気はトルコの 地方都市のにぎやかな繁華街そのままです。

セリミイェ・ジャミーSelimiye Camiiはかつてキプロスで最も重要だった聖ソフィア大聖堂St. Sophia Cathedralをモスクに転用したものです。1209年から1325年にかけて建立さ れた大聖堂は見事なフレンチゴシック様式で、それ以前のビザンツ 時代に聖ソフィア教会があった場所に建てられました。オスマン時代の1570年からモスク として使われています。
外壁の細部はガズィマウサの大聖堂よりきれ いな状態です。正面にある門のアーチ部分の彫刻群(アーキヴォー ルト)や壁面(タンパン)には、キリスト教の聖 人や天使の姿が見えます。イスラム教は偶像を禁止しますが、これほど膨大な数の彫刻を剥ぎ 取ることはできなかったのかもしれません。

大聖堂の隣は公設市場です。入口に1932年とあるものの木製の天井など内部は新しく、比 較的最近リニューアルされたように見えます。土産物や雑貨、乾 物、青果などさまざまな品物が並ぶバザールで、トルコらしさ全面展開です。



ビュユック・ハン



中庭



外の廊下



バデム・エズメと製 作者



オベリスク



裁判所



ギレネ門のドーム



美しい建物





モダンなカフェ



にぎわうアイスク リーム店



リズミカルなバルコ ニー



歴史的建造物





伸びるトルコアイス の屋台

その近くにあるビュユック・ハンBüyük Han はオスマン時代の1572年建造、キプロス最大の隊商宿でした。二層の建物で、当時1階部 分は商店や厩舎、2階部分に商人や旅行者が宿泊する部屋があった そうです。英国統治時代には監獄として使われ、1990年代に修復されて現在はカフェやレ ストラン、土産物店、ギャラリーなどが入っています。
そんな店のひとつで、店主お手製のバデム・エズメを買いました。バデム・エズメはアーモン ドの粉で造ったマジパンの一種で、トルコの伝統的なお菓子です。 アーモンドの香り高く、甘くてしっとり柔らかな味わいでした。

アタテュルク広場にそびえるオベリスクは1550年ベネチア政府がサラミスから運び込んだものです。城壁 内のこのあたりはその時代から政治的な中心部と なっており、現在は北キプロスの裁判所や大統領官邸などがあります。
ギルネ門周辺の城壁はすでになく、オスマン時代の1821年ゲートに追加建造されたドーム が残っているばかりです。
南との出入口となるロクマジュ検問所からギルネ門に至る通りは、両脇にベネチア時代の建造 物が建ち並び、美しい統一感を醸し出しています。レフコーシャの 旧市街は、モダンなカフェから現在廃屋となっている建物、モスクとなった大聖堂まで、歴史 の移り変わりを感じながら散策できるエリアでした。 〈2021.6.23.〉



  南キプロス・レフコシアLefkosia(ニコシアNicosia)

 

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リドラス通り















キプロスコーヒー



ファネロメニ教会







ガーゴイル



聖ヨハネ大聖堂



ビザンツ博物館



博物館前広場



大主教館

南キプロスの首都レフコシアは、周囲4.5キロの円型を描く城壁の南半分とその南側に広 がっています。旧市街はリドラス通りを中心におしゃれなブティック やショップ、各種レストラン、カフェがひしめいていて、都会的なにぎやかさです。観光客は もちろん、地元住民も買い物を楽しんでいます。
通りにはベネチア時代の歴史的な建物が連なり、いかにもヨーロッパの旧市街という雰囲気な のに、そこで飛び交うのは実にさまざまな国の言語です。こういう 街はちょっと他に見当たりません。城壁内の南半分は、国際色豊かで活気のある不思議なエリ アです。

リドラス通り近くにファネロメニ教会Faneromeni Churchがあります。1222年建立のシトー派修道会の教会で、旧市街でもっとも大き く古いものです。1561年のオスマン侵略後モスクに転用された 教会が多いなか、ここは教会のまま置かれていました。モスクにしようとした際、どうしたわ けか担当のイマーム(イスラム教の指導者)が次々と亡くなったた め、転用を免れたというお話があります。
地震で被害を受け1715年再建、現在の建物は1872年のもので新古典主義、ビザンツ、 中世ラテンのスタイルが混在しています。周辺の路地が狭いため建 物の全容を見るのがむずかしいのですが、様式の混在に独特な美しさが感じられます。珍妙な ガーゴイルも愛らしい(?)。
1857年フェネロメニ学校が併設され、これがキプロス最初の女学校となりました。島の女 子教育を促進するために設けられたそうです。教会には1938年 に礼拝堂が追加され、付属図書館などもあります。

旧市街の中心部からやや東寄りに聖ヨハネ大聖堂Agios Ioannis Cathedralがあります。1662年オスマン時代の建立で、正教の大主教座がおかれ る格式の高い教会です。堂内は17世紀から18世紀のイコンと 18世紀に描かれたフレスコ画で彩られそれは素晴らしいものですが、残念ながら写真撮影禁 止となっています。

その奥にあるのはビ ザンツ博物館Byzantine Museumで す(日・祝休館、月〜金 9:00〜16:00、土9:30〜13:00)。

収蔵品は9世紀から19世紀のイコン230点、キプロス最大のコレクションを誇ります。南 北分断の際に各地から避難してきたものでしょうか。とりわけ6世 紀のモザイクは、北キプロスのカナカリアKanakaria教会の壁から引きはがされて海 外に流出した後、南キプロスに返還されたという貴重なものです。
おびただしい数のイコンが並ぶ館内は静かで、教会のような雰囲気が漂っています。入口から 順に見学していると突然係員が近寄ってきて、「これが当館で一番 古いイコンです」とその展示場所まで案内してくれました。何故だかわかりませんが親切なこ とです。展示されているイコンはいずれも素晴らしい保存状態で見 事なものばかりでした。ここも内部は撮影禁止です。
イコンの他に聖職者の使う聖衣や装飾品などもあり、ミュージアムショップやギャラリーが併 設されています。ショップには関連書籍が多く、中には北キプロス で放置され、ごみが散乱し落書きされて荒れ放題になった教会の写真集などもありました。

さらにその隣にある大きな建物は、キプロスが英国から独立を果たした翌年の1961年建造 の大主教館Archbishop’s Palaceです。マカリオス3世Makarios III は当時の大主教で、キプロス共和国の初代大統領を務めました。
このエリア一帯は美術センターや体育館、図書館などがあり、文教地区となっているようで す。



「自由の記念碑」







城壁の外



水道橋





ファマグスタ門



ギャラリー風



オスマン様式の住宅



聖十字架教会



パフォス門の外



オスマン時代のハマ ム



オメリイェ・モスク



中央やや上に国旗の ネオン

さらに南東の城壁沿いまで歩いて行くと、「自由の記念碑Liberty Monument」があります。1970年キプロス独立10周年を記念して、円型の城壁に 11設けられた突出部(稜堡)のひとつに建てられたものです。
1955年から1959年のキプロス独立戦争の際、英国支配に対抗するためにキプロス開放 民族組織EOKAが立ち上がりました。その兵士たちが監獄の鉄格 子を引き上げ、ギリシャ系キプロス人の囚人を解放する場面が描かれています。正面上部でそ れを見守るのは自由の女神、囚人には農民や正教の聖職者の姿が見 えます。
キプロスは英国から独立した後も内戦状態が続き、1983年南北分断に至ったのでした。

このあたりからは城壁がよく見えます。外側は公園のようになっていてのどかな景色です。
記念碑近くに18世紀のオスマン時代に造られた水道橋Aqueductが残っています。街 の北にある山々から水を運び、城壁北西のキレニア門から東のファ マグスタ門まで走っていたものです。この時は一部修復中で、部分的にしか見ることができま せんでした。

そのまま城壁沿いを北上するとファマグスタ門Famagusta Gateに出ます。城壁に3つある門のなかで一番大きなものですが、現在は外部とつながっ ていないようです。

ファマグスタ門のあたりから旧市街を突っ切った反対側、城壁の西の端にあるのが聖十字架カ トリック教会Holy Cross Catholic Churchです。地図を見ると南北の緩衝地帯ぎりぎりの場所に建っています。1642年 建立、後にスペイン王室とフランシスコ修道会の支援を得て 1900年に再建されたものです。
この教会の前を通ったのは日曜日の午前中、ちょうど礼拝が行われている時でした。信徒は東 南アジア系の人々が圧倒的に多く、礼拝に参加しようとする人や談 笑する人々で教会の前は混雑しています。
近くにエスニックのスーパーなどもあり、どこからかおいしそうなエスニック料理の匂いも 漂ってきて、バイタリティあふれるアジア的生活感たっぷりです。す でにこの教会を中心に立派な共同体ができあがっているようで、彼らがこの街に定着して久し いことがわかります。礼拝は英語で執り行われいるのが外にも伝 わってきました。

教会のすぐ近くにパフォス門Paphos Gateがあり、ここから城外へ出られます。城壁の外側は発掘現場のようになっており、か つては現在よりかなり低い位置に道路があったようです。
このほか、旧市街にはオスマン時代にできたモスクやハマム(公衆浴場)、オスマン様式の住 宅なども残っていました。北側の城壁内と同様、こちらも歴史散歩 をおおいに堪能することができます。

夜になって旧市街にあるホテルの部屋から外を見ると、彼方の山の一角でぴかぴかとネオンが 輝いているのに気がつきました。かなり派手に点滅しています。何 だろうと思ってよく見てみると、白地に上下2本の赤い線が引かれ、中央に赤い月と星が描か れた北キプロス共和国の国旗のネオンです。2本の線を除くと、赤 白を逆転させたトルコの国旗と同じデザインになっています。山は北キプロス側にあり、その 中腹に巨大なネオンが設置されているのでした。
南キプロスにいるレフコシアの人々は毎晩それを見て何を思うのでしょうか。街は平和に見え ますが、キプロスの南北問題は現在も進行中だということを改めて 思い知らされた次第です。〈2021.6.23.〉




 


博物館



展示室



前9000年



ポモスの偶像



新石器時代の粘土や 石の像









青銅器時代の陶器











何というユニークさ



洗練されたフォルム

月曜日休館・火〜金8:00〜18:00、土900〜1700、日10:00〜13:00
レフコシア旧市街のパフォス門を出てしばらく歩くと、島最大規模のキプロス考古学博物館が あります。1888年の英国統治時代、合法的な発掘調査による出 土品を保管する民間機関として出発しました。その後キプロスの考古学的文物に関する法律が 整備され、1935年に正式な博物館として開館します。たいへん 歴史のある博物館です。
ここは先史時代から古代ギリシア、ローマ時代まで、キプロス島で発見された出土品のみを展 示しているのが特徴です。収蔵品は年代順に、それぞれのテーマに 沿って14の部屋に展示されています。

2段になったころんとした茶色の石は前9000年のもの。一見するとそのへんに転がってい るただの石のように見えますが、人間の手で加工した痕跡がありま す。キプロス島に人間が住んでいた最古の証拠物件です。
ポモスの偶像Idol of Pomosは新石器時代の前3000年ごろ造られた人型の像で、南キプロス北西部の海岸沿 いにあるポモスの村で発見されました。薄い緑色がかったピクロラ イトという蛇紋石の一種で造られており、表面はつるつるに磨かれています。豊穣多産のシン ボルと考えられ、キプロスのユーロコインにもその姿が描かれてい ます。
新石器時代の石や粘土製の像はどれも個性的なフォルムです。簡潔なデザインのなかに力強さ が感じられます。小さくて愛らしいものが多く、中には彩色が残っ ているものもあります。

青銅器時代の前1900年から1600年ごろ造られた陶器には、自然界のさまざまな生き物 の姿がのびやかな線で描かれています。これらはミケーネ、フェニ キア、アッティカの各文明の影響を受けて、キプロスで生まれたスタイルということです。古 いものであるにもかかわらず、現代芸術に通ずるようなセンスを感 じます。いずれも素晴らしい保存状態に驚かされます。



アルカイク期の黒絵



前11世紀の兵士像





彩色粘土像



ライオンとスフィン クス



前5世紀のゼウス像



ヘレニズム時代のア フロディテ



サラミス出土のアポ ロン



美と性愛の女神アフ ロディテ



医神アスクレピオス



演劇の神ディオニュ ソス



ローマ皇帝青銅像



黄金の輝き



青銅器時代の墓所



前12世紀、青銅製 の神像



青銅製グリフィンのポット



キプロス音節文字



ヘレニズムのテラ コッタ像



同時期の粘土像





エントランスの天井

膨大な数の兵士像がまとめて展示されている部屋がありました。前11世紀の粘土像で、アギ ア・イリニAgia Iriniの聖域にある祭壇近くから出土されたということです。当時はもちろんキリスト教 が興るはるか以前のことですから、かつて何らかの宗教儀礼に関す る聖域が後に教会になったのでしょう。兵士の大きさはさまざま、それぞれ表情も違って興味 深いものがあります。

彩色が残る男性粘土像は前6世紀、レフコシアから南西21キロにある古代都市タマッソス Tamassosの出土です。アポロンの聖域から発見されました。 ライオンとスフィンクスも同じころのもので、タマッソスの王族の墓の入口を守護していたと 考えられています。スフィンクスが墓を守るというところにエジプ トの影響が感じられます。

前5世紀のゼウス像はライムストーン製、唇に彩色の跡も見られます。今しも雷の槍を投げつ けようとしている姿です。雷はゼウスの標章でもあり、強力な武器 でもありました。最高神の古層の姿をとどめています。
つやつやとしたアフロディテは前1世紀の大理石製。「海から上がるアフロディテ」の姿で す。アフロディテはキプロスの沖で生まれたという伝説が残されてい ます。大理石はギリシアから輸入されました。
サラミス出土の一連の 大理石像は前4世紀から後 2世紀のもの。いずれもギムナシウムから発見されました。
堂々たる大きさの青銅像はローマ皇帝セプティミウス・セウェルスSeptimius Severus(在位193〜211年)、カラカラ帝のお父さんです。圧倒的な存在感があ ります。

墓所が再現された展示室もありました。写真は前2000年から1600年ごろの青銅器時代 中葉のもので、切り石で造られた石室には白く塗られた壺や青銅製 品、石槌なども発見されたということです。こんな感じの埋葬所がいくつか復元された展示室 は照明が落とされて薄暗く、いかにもそれらしい雰囲気たっぷりで した。

青銅製の大きなポットは前8世紀、サラミスの墓所出土です。グリフィンの頭のついたポット は宗教的な儀礼で使われたり神々への奉納品だったりしたもので、 地中海各地域で見られます。サ モス島の博物館にも大小様々なサイズの膨大なコレクショ ンがありました。

ライムストーンのタブレットに描かれているのはキプロス音節文字です。この文字は前8世紀 から前3世紀の間に、おもにギリシア語表記のためにキプロスで使 われていました。この石板は前350年から前300年ごろのもので、「彼は家の代金を払っ ていなかった、そして当局の決定によると、彼は法律に従って借金 を返済することになっていた」といった、ある人物の借金に関する法的な事柄が記録されてい るそうです。当時の人々のリアルな生活の一面が垣間見えます。

エントランスの天井や階段部屋などに歴史を感じる建物ですが、展示室はモダンですっきりし ており、外光をうまく採り入れています。こぢんまりしている割に たいへん見応えのある充実した博物館です。
基本的に展示物が年代順に並んでいるので、それぞれの時代の特徴がよくわかります。ていね いに分類され、照明や解説パネル、展示の仕方も申し分ありませ ん。キプロスの石器時代からローマ時代までの膨大な時間の流れを実感できるのが最大の魅力 でしょう。
小品でも独創的な収蔵品が多いため、ついつい見入ってしまいます。時間に余裕を持ってじっ くり見学したい博物館です。

これだけ充実した博物館なのに、ショップで扱っているものが貧弱に思われました。並んでい る絵葉書は古びているし、図録の類もあまりぱっとしません。玉に キズとはこのことでしょうか。それだけがちょっと残念でした。〈2021.7.29〉







玄関



展示室



人型やネックレス



鳥型の油差しなどの 陶器





テラコッタのフィ ギュア









十字架



14世紀の陶磁器





祈祷書



楽譜



レフコシアの地図





正教会の十字架



聖人が描かれたバッ クル



オスマン時代の様子



銀製のカップ



英国統治時代



英国のインテリア



モダンなショップ



キュートな係員

月曜日・祝日休館、10:00〜16:30
レフコシアの旧市街中心部に市立のレヴェンティス博物館があります。キプロスで最初の歴史 博物館として1989年に開館、2度の改修、拡張を経て2010 年にリニューアルオープンしました。こぢんまりとした新古典主義建築の美しい建物は、レフ コシア初代市長の邸宅だったということです。
レフコシアの古代から現代にいたるまでの歴史が一目でわかる展示がされており、複雑な街の 経緯を視覚的に理解できます。古代遺跡の発掘物から、宝飾品、中 世の陶磁器、聖具、地図や写真など、寄贈されたコレクションを含むおよそ1万点が収蔵され ています。

キプロス考古学博物館で見た 「ポモスの偶像」に似たピク ロライトの人型は、新石器時代と青銅器時代の中間に当たる前3900年から前2500年の もの。同時代のネックレスは貝などで造られています。
鳥型の油差しや模様が描かれた壺、板状のテラコッタの人型は前2000年から前1800 年。
前7世紀の両手を前に抱いたテラコッタのフィギュアは、何とも愛らしい顔つきの女性です。 墳墓から発見されたもので、豊穣と再生を象徴しています。ミケー ネ文明の影響とキプロスの伝統的な様式がひとつになって表現されたものということでした。
羊と思われる彫像は前7世紀から前6世紀。写真では大きく見えますが、手のひらに乗るくら いの可愛いサイズです。
きれいに形が整った壺は、キプロス古典期に当たる前480年から前310年のもの。

ビザンツ時代に入るとキリスト教が定着しました。9世紀から12世紀の鎖止めがついた十字 架には素朴さが残っています。
14世紀のお皿は色合いが古九谷を思わせるものもあります。線で描かれた人物は地位の高い 人か宗教者なのでしょうが、たいへん親しみやすい表情です。
祈祷書と楽譜は中世のもの、展示されているのはレプリカでした。

レフコシア城壁内の地図は見事なコレクションで、16世紀から17世紀にかけてのベネチア 時代の版画がずらりと並びます。建物もまばらな方は1570年 作、城壁の外までテントや人が描き込まれているのは1571年から1574年のもの。実際 にわずか数年でこんなに街が変化するということも考えにくいの で、作者の傾向によるものだと思われます。
いずれも、街の中心にフレンチゴシック様式の聖ソフィア大聖堂がはっきり見えます。この大 聖堂は城壁の北キプロス側にあり、オスマン時代からセリミイェ・ モスクに転用されました。また、どちらも城内を横切る川が描かれていますが、これは天然の 川というより人工的に造られた水路かもしれません。

銀製の十字架とバックルは19世紀ギリシャ正教の聖具。バックルには聖ゲオルギオスと聖 ディミトリウスが描かれています。一方、銀製の小さなカップは18 世紀から19世紀オスマン時代のものです。当時の生活様式を再現した部屋も見られます。
最後は1878年からの英国統治時代のブースがあり、その後1960年キプロスは独立を果 たしたのでした。

レフコシアを訪れる際にはぜひおすすめしたい博物館です。
にぎやかなリドラス通りに近く、ぶらぶら街歩きをしながら気軽に立ち寄れます。しかも驚く べきことに入場無料。市立とはいえ、入場料収入なしでこれだけ充 実した博物館を維持するのは容易ではないでしょう。レフコシア市の心意気に感じ入りまし た。
小品が中心のコレクションですが、街の歴史を俯瞰するという意味では素晴らしいものばかり です。それぞれの解説や展示の仕方、全体の流れ、照明なども申し 分ありません。個人の邸宅だったこともあって各フロアのサイズ感に心地よいものがあり、 ショップも充実しています。係の方々も親切でたいへん好感の持てる 博物館でした。〈2021.8.26.〉



  パフォス Paphos
 


美しい海



幹線沿い



南国の花々









パノ・パフォスの高 台



オスマン時代名残の ハマム



観光通り



愛らしいショップ



屋内マーケット





モダンな街角



公園



足元の遺跡



パフォス考古学博物 館



ビザンツ博物館



正教会付属施設



ビザンツ様式の教会



民族博物館

パフォスは南キプロス南西部の地中海沿岸にある街で、美しい海岸と古代遺跡が残るリゾート 地として有名です。街は大きく二つに分かれており、港やローマ遺 跡がある南のエリアはカト・パフォスKato Paphos(低いパフォス)、北側の高台はパノ・パフォスPano Paphos(高いパフォス)と呼ばれ、行政や経済の中心はパノ・パフォスとなっていま す。南のカト・パフォス海岸沿いにビーチが広がり、夏場はバカンス 客でにぎやかです。

新石器時代に人が住んでいた痕跡があり、前13世紀にギリシア人が入植、前12世紀ごろに 現在のカト・パフォスからさらに東10数キロのパレパフォス Palaipaphos(旧パフォス)にアフロディテ神殿を建てて街を興しました。美と愛 の女神アフロディテはこの近くの海で誕生したという伝説がある通 り、ここはエーゲ海世界におけるアフロディテ信仰の中心地として重要な役割を持っていまし た。
前3世紀にカト・パフォスに新しく街が造られ、キプロスの首都がサラミスからこちらに移ります。ローマ時 代に政治、文化の中心として繁栄しますが、ビザン ツ帝国時代にレフコシアが首都となって 以降徐々に衰退、960年イスラム教徒の侵入によって街は破壊さ れました。
現在残る遺跡はカト・パフォスにあるローマ遺跡、ビザンツ時代や中世の城塞、パノ・パフォ スに近い王家の墓などです。さらに古い時代のパレパフォスのアフ ロディテ神殿跡なども含め、一連の遺跡群は1980年世界遺産に登録されました。

街は明るく開放的な雰囲気で、まぶしく輝く空が印象的です。カト・パフォスとパノ・パフォ スを結ぶ幹線道路沿いには背の高い棕櫚が茂り、そこかしこに夏の 花が咲き乱れて南国ムード満点。パノ・パフォスの高台から周囲を見渡すと、きらめく海はす ぐそこです。
パノ・パフォス中心部に観光客が集まる小径があり、土産物や雑貨を扱う屋内市場やしゃれた ブティック、カフェなどが並びます。みなさん買い物をしたり休憩 したり、のんびりゆったり過ごしていました。

そのあたりから少し南東に向かうと、大きな公園や博物館などがあるエリアです。歩道の下に 遺跡があり、上部を強化ガラスでおおって中が見えるようになって います。街の歴史がさりげなくわかります。

まずは考古学博物館をめざして道を尋ね尋ね歩いてやっと到着。しかし門が開いていません。 もちろん休館日や開館時間は事前にチェック済みで、問題はないは ずです。何だろうと思ったら、何と改修中で閉館という掲示板が。
ここを訪れるのを楽しみに、午前中でもすでに30度を超える暑さのなかを歩いてきたのに、 もうがっかりなんてものではありません。すっかり打ちのめされて 茫然と掲示板を眺めていると、「何でそれをウェッブサイトに挙げてないんだ!!」という怒 りの落書きが見えます。まったくもってその通り!ひどく落胆した のはわたしだけではなかったとわかり、何とか立ち直ることができました。

気を取り直していま来た道を戻り、今度はビザンツ博物館に向かいます。しかし、それとおぼ しき建物の扉は閉まっていて、今度はギリシャ語の張り紙がしてあ ります。すでにこの時点で厭な予感しかありません。ギリシャ語がわからない旅行者にはお手 上げなので、向かいのギリシア正教関係施設と思われる建物に入っ てたずねてみました。すると、博物館は移転したと言います。移転先はここからかなり離れた ところで、バスなどを使わないと行けないそうですが、そこにいた 人々も詳細はよくわからない様子でした。

仕方がないので、今度は民族博物館に回ります。こちらは無休で毎日9時から18時(日曜日 は9時から14時)開館と看板にも書いてあります。しかし、それ にもかかわらず門は開いていません。
そうです。こういう事態はギリシャではたびたびあることでした。そして、ここ南キプロスは ギリシャの色濃い国だという事実を、今さらのように思い知らされ たのでした。



王家の墓入口



海辺のネクロポリス



地下墓地



ドリス式の柱



石室





いくつもある墓地









すぐ向こうは地中海



賽の河原?



幹線沿いのオーガ ニックショップ



夕暮れ時

パノ・パフォス中心部から西へぐっと下ると、海岸沿いに「王 家の墓Tombs of the Kings」 があります(無休、夏期 8:30〜19:30、冬期8:30〜17:00)。
ヘレニズム時代の前3世紀に造られた地下墓地で、ドリス式の柱や神殿を模した石の彫刻、石 室などが広範囲にわたって残っています。
後に盗掘されたり、人が住んだりした時期もあったそうです。19世紀にはその存在は知られ ていましたが、本格的な発掘調査は20世紀に入ってから始まりま した。近年の調査によると、王家の墓といっても実際には王族の墓地というわけではなく、貴 族や官僚などの墓だったのではないかと考えられています。発掘調 査は現在も続いているということでした。

本当に海岸まで墓地が迫っています。こんなに海が近い場所で、よく浸食されなかったもので す。敷地のフェンスの外に遊歩道があり、そこから海に入れるよう になっています。地中海に隣接する遺跡、なかなか魅力的な立地です。
パノ・パフォスの街中にある博物館は全部ふられましたが、この王家の墓はちゃんと開いてい てほっとしました。〈2021.09.30.〉



 


公園入口



全体図



広々とした遺跡



テセウスの館





テセウスのモザイク 画



幾何学文様



列柱



アイオンの館(中段 真ん中あたりにアイオン)



部分



部分



ディオニュソスに果 物を捧げるサテュロス



オルフェウスの館



ディオニュソスの館



内部



ディオニュソスの行 列



ディオニュソスとイ カリオス



パイドラとヒッポ リュトス



ナルキッソス



ガニュメデス



神話的場面



狩猟シーン





四季



部分



壺のモチーフ



孔雀



快適な館内

無休、夏期8:30〜19:30、冬期8:30〜17:00
パフォスの南西部、カト・パフォス海岸沿いの小さな岬にパフォス考古学公園が広がっていま す。公園内には先史時代から中世に至るまで、さまざまな時代の遺 跡が発見されており、なかでも東地中海世界で最も素晴らしいといわれるローマ時代のモザイ ク画が有名です。現在見られる遺跡もローマ時代のものが多くあり ます。1980年世界遺産に登録された一連の遺跡群のなかでも、この公園は重要な位置を占 めています。

テセウスの館House of Theseusはキプロス提督の別荘だった邸宅で、100以上もの部屋がある豪邸です。そ の一部の床にテセウスのモザイクがきれいに残っていることから、 テセウスの館と呼ばれるようになりました。この邸宅は2世紀後半の建造、7世紀ごろまで使 われていたということです。
テセウスはギリシア神話に登場する英雄で、クレタ島の牛頭人身の怪物ミノタウロスを退治し たエピソードが広く知られています。モザイクにはイカロスが造っ た迷宮の中心にいるテセウスとミノタウロス、そしてテセウスが迷宮から無事に戻れるように 手助けをしたアリアドネの姿などが描かれています。たいへん精緻 な作品です。とりわけ、幾何学紋様で表現される迷宮の緻密さに眩暈を感じます。
モザイクの周囲は高い位置に渡り廊下がかけられ、絵を見下ろしながら歩けるようになってい ます。日差しが強すぎてテッセラ(モザイク画を形作る小さい角 片)が反射し、写真を撮るのに一苦労です。この館では他に「産湯を使うアキレス」などのモ ザイクも見ることができます。

その近くにあるアイオン(エオン)の館House of Aionは4世紀中葉の邸宅で、まだその一部しか発掘されていません。ここは屋外ではな く、モザイクを保護するように建物で覆われています。
アイオンはギリシア神話の天地創造にかかわる古層の神で、永遠の時間を象徴する神です。こ の館にあるモザイク画のなかにアイオンの姿が認められるというこ とですが、破損した箇所にかかっているようであまりよくわかりません。

さらに西に行くとオルフェウスの館House of Orpheusがあります。2世紀から3世紀のもので、邸宅のわずかな部分が発掘されてい ます。動物に囲まれて竪琴を奏でるオルフェウス、ヘラクレスやア マゾンなどのモザイク画があるはずですが、この時は調査のため見ることができませんでし た。

ディオニュソスの館House of Dionysosにあるモザイク画はこの遺跡のハイライトです。ここは中庭を中心に部屋を 配置した間取りで、2000平方メートルという広さの4分の1以 上の床にモザイクが施されています。たいへん豪華な邸宅です。2世紀の終わりに建造され、 4世紀の地震で倒壊した後放棄されました。アイオンの館と同様、 博物館のように建物のなかでモザイクを見学できるようになっています。
演劇と葡萄酒の神ディオニュソスがアッティカのイカリオスに葡萄酒の製法を伝授する場面を 始め、ギリシア神話のさまざまなエピソードが絵巻物のように描か れています。アイオンの館にもディオニュソスをモチーフにした画がありましたが、この時代 にディオニュソスは人気のある神格でした。
どのモザイクも素晴らしい保存状態で、見応え十分。他でこれほど整ったモザイクにお目にか かることはあまりありません。お話の場面を縁どる幾何学紋様や、 生き生きとした狩猟シーンなどにも目を奪われます。直射日光を避け、涼しい館内でゆっくり 見学できるのも嬉しいところです。
猫もお昼寝しに来る快適さ。



遺構





遺跡の花





初期キリスト教徒の 館





アゴラ





アスクレピオン





オデオン







城塞のパネル



サランダ・コロネス 城







遠くに見える教会



公園の向こうは海水 浴場

再び暑くまぶしい外に出て、オデオン(音楽堂)やアゴラなどを回ります。
初期キリスト教徒の館は5世紀から7世紀のもの。まだ発掘途中ですが、旧約聖書の言葉が描 かれた長方形のタブレットが発見されたことから、家主はキリスト 教徒だったと考えられています。
アゴラは2世紀の建造、四方を列柱回廊に囲まれていました。現在はその基礎部分しか残って いません。その西側に半円形のオデオンと治療施設だったアスクレ ピオンがあり、当時はアゴラの複合施設として使われていました。ちょうどこのあたりが街の 中心になります。オデオンは1970年に再建され、完璧な姿を見 せています。現在もコンサートなどが開かれるそうです。
オデオンやアスクレピオンのすぐ向こうに白い灯台がそびえています。何と、遺跡の中に現役 の灯台が建っています。古代の遺跡と現代の灯台という組み合わせ はなかなか不思議な光景で、観光客が盛んに記念写真を撮っていました。

敷地の東寄りにあるサランダ・コロネス城 the Castle of Saranda Kolonesは7世紀のビザンツ時代に建設された城塞です。花崗岩の柱がたくさんあった ことから「40本の柱」という名前がつけられましたが、今は数本 が転がっているばかり。他の建物の建築資材として持ち運ばれたのでしょう。
かつては港に面しており、イスラム教徒から街と港を守るために築かれ、1223年の地震で 倒壊するまで使用されていました。四隅にあった塔の跡などがはっ きり残っており、コンパクトな城塞だったようです。

公園全体はかなり広い遺跡です。海岸沿いの平地にあるので、多少の起伏はあるものの道は整 備されて歩きやすくなっています。解説パネルはきちんとしていま すが、強烈な太陽にさらされているせいか屋外のものは劣化して読みづらい箇所もありまし た。日陰はほとんどないため、夏場の見学は熱中症対策を万全に。モ ザイクをゆっくり鑑賞したい場合は、時間に十分余裕を持った方がよさそうです。

パノ・パフォスにある博物館は全滅だったので、ここは開いているかどうかおびえながら訪ね ました。入口のチケット売り場のおじさんは「やあ、元気?」など と陽気に声をかけてくれて、勇気100倍です。パフォスの博物館見学はなかなかに大変なの でした。〈 2021.11.07. 〉



  考古学公園周辺 Around the Archaeological Park 







パフォス城



クリソポリティッサ教会



床のモザイク





教会遺構



内部







ハマム跡

考古学公園の敷地を出て港をぐるりと歩くと、港の突端にパ フォス城Paphos Castleがあります。無休、夏期 8:30〜19:30、冬期8:30〜17:00。

1223年に地震で倒壊したサランダ・コロネス城の代わりにフランク人が建造し、14世紀 にジェノヴァ人が改築、オスマン時代に修復されモスクや監獄として使われました。その後の 英国統治時代には、塩の倉庫として利用されていたということです。本来は2つの塔が付属し ていましたが、一方は15世紀末の地震で倒壊。もう一方はオスマンに支配される直前の 1570年、ヴェネチア人が意図的に破壊しました。塔をこのまま敵に渡してなるものかとい う決断だったのでしょう。
内部は一般公開されており、9月にあるパフォス芸術祭の会場としても使われているそうで す。考古学公園などとともに世界遺産に登録されています。

考古学公園の東、港から少し北上したところにあるのがアギア・キリアキ・クリソポリティッ サAgia Kyriaki Chrysopolitissa教会です。ここも世界遺産に登録されています。無休、見学自由。
西暦45年、布教の旅に出たパウロはキプロスに立ち寄り、パフォスで捕われて鞭打たれまし た。その時パウロが縛りつけられた柱がここにあると伝えられます。
元々は4世紀建立のバシリカで、同じ場所に11世紀、16世紀とそれぞれ別の教会が建てら れました。現在ある教会は英国国教会と聞きますが、実際に内部を見ると正教の教会のようで す。
敷地内にはかつての教会の遺構が残されており、かなり大きなものだったことがわかります。 遺構の周囲に足場が組まれ、そこを歩きながら見学します。かなりよい状態の床のモザイクを 見ることができます。
教会近くにはオスマン時代に建てられた公衆浴場ハマムも残されていました。



聖ソロモニのカタコンベ





内部の祭壇



輝く花



地中海

教会からさらに北上すると聖ソロモニのカタコンべAgia Solomoni Catacombeがあります。無休、見学自由。ヘレニズム時代にキリスト教が弾圧されていたころ、地下墓地や礼拝所として使われていたものです。石造り の部屋には後に描かれた12世紀のフレスコ画などが残っています。入口には神聖なものとさ れる大きなピスタチオの木があり、枝にびっしりと結びつけられた小さな布片が風に揺れてい ます。ここに参拝に来た人々が若返りや眼病治癒を願って結びつけたということです。
地下の室内は暗くてあまり様子がわかりません。さらに暗い階段を降りていくと泉が湧いてい て、きれいな水を満々とたたえています。参拝者はこの水に布を浸して祈願したということで す。
わたしが訪れたときは誰もいなくて、ひっそりと静まり返っていました。少し後からやってき た見学客と暗闇の中で鉢合わせ、相手がびっくりして悲鳴を上げたのでこちらもびっくりで す。夕闇が迫るころだったせいか、地下墓地という場所のせいか、ちょっと怪しげな雰囲気が 漂っていたのでした。

考古学公園で見た古代カト・パフォスの地図によると、クリソポリティッサ教会も聖ソロモニ のカタコンベも街の城壁の中にあります。実際にこのあたりを歩いてみると、当時としてはか なり大きな街だったという印象を受けます。カト・パフォスがいかに繁栄していたかを実感で きました。〈2021.12.23.〉



  キプロスの美味 Taste of Cyprus 
 


柘榴ジュースとパニーニのサンドイッチ



庶民的焼肉食堂



シェフターリ・ケバブサンド



仔羊のシシケバブ



トルコ式朝食

北キプロスのガズィマウサ旧市街でのことです。街の中心の 公園に青空カフェがあり、冷たい 飲み物などを売っています。暑いさなかに立ち寄ってフレッシュな柘榴ジュースをいただき、 ちょっと休憩しました。他に客もおらず、店のおじさんは退屈そうにスマホをいじっていま す。
このおじさんに旧市街のことをあれこれ訊いてみると、たいへん親切な方で街の様子について くわしく説明してくれました。ついでに観光客向けではないおすすめの飲食店をたずねると、 ちょっとわかりにくい場所にある焼肉食堂を教えてくれました。北キプロスの名物のシェフ ターリ・ケバブşeftali kebabıなどがあるということです。
シェフターリとはトルコ語で桃のことですが、別に桃が入っているわけではありません。ソー セージのような形をしたキョフテ(トルコ式肉団子)をグリルしたものです。牛の網脂を巻い て焼くそうで、この料理を発案した料理人の名前にちなんで「シェフターリ」とつけられたと いう説があります。
カフェのおじさんのおすすめ通り、その店を探し当ててシェフターリ・ケバブをテイクアウト してみました。トルコ本土のキョフテに比べると塩気やスパイスが控え目で、肉のプリプリ感 が強く感じられます。網脂は焼いているうちに大半が落ちてしまったようで、思ったほどしつ こくなくジューシーで、なかなかおいしいものでした。
カフェのおじさんによると、この店の最高傑作は日曜日のお昼だけしか出さないレバーの串焼 きだそうです。あいにく日曜日の滞在ではなかったのでそれは逃しましたが、たぶん素敵な味 わいのことでしょう。

この焼肉屋、掘っ立て小屋のような食堂でいかにも地元の人しか来ない雰囲気です。夕方前を 通ると、外に出ているパイプ椅子とテーブルの席でラク(トルコのアニス入り蒸留酒)をやっ ているご近所さんがいました。
焼肉で一杯というのは普通なら驚くことではありませんが、国民の99%がイスラム教徒のト ルコではアルコールを出さない店も多くあります。たとえ焼肉屋でも事情は同じです。イスタ ンブールあたりの観光客向け高級焼肉専門店はお酒を出しますが、この手の庶民的焼肉食堂で はほぼありません。地方の小さな町では飲酒できる店はもちろん、酒屋すらないこともありま す。
トルコと北キプロスはいちおう違う国とはいえ、どちらもイスラム教徒がほとんどの国である ことに変わりありません。そんなことから、この質素な食堂で焼肉をつまみに一杯やっている 地元住民をみつけて、ちょっとびっくりしたのでした。北キプロスはトルコと比べるとアル コールに関して大らかなのかもしれません。

ということは、どこかに酒屋もあるだろうと街はずれをぶらぶらしていると、ちゃんとありま した。店に入ると、何やらちょっとガラの悪そうなお兄さんがじろっとにらみます。ここでひ るんではいけません。しばらく店内を眺めておすすめのワインは何かたずねると、トルコの一 般的なワインを指さします。わざわざキプロスまで来てトルコワインというのも…と考えあぐ ねていると、「こっちのは安くてうまいよ」と出してきたのがイタリアのワイン。
トルコは酒税が高く、輸入品となるとさらに高い関税がかかっています。北キプロスも事情は 同じだろうと思い、さては安いと言いつつお兄さんにカモられたかと値段を訊くと、何とこれ が28リラ(当時のレートで約560円)!?もちろん特に上等なものではなく、ごく普通の テーブルワインです。しかしこれはほとんどイタリアの現地価格に近い値段かもしれません。 酒税や関税はどうなっているのでしょう?
お兄さん「これは安いけれど絶対うまい。もしまずかったら明日持ってこい、金は返す」とま で言うのであります。多少口に合わなくてもこの値段なら許せます。即購入。

ふと見ると、カウンターの上に紙にくるまった直径30センチほどの平たいパン(ピデ)が置 いてあります。表面に黒白の胡麻が散っていて、いかにもおいしそうな匂いを漂わせていま す。なるほどこのあたりではこういうパンが一般的なのかもしれないと眺めていると、お兄さ ん「いま届いたばっかりなんだ、すごくおいしいよ、食べる?」などと言って三分の一ぐらい ちぎってくれました。まだ暖かい出来立てのほやほやで、頬張ると香ばしい小麦の味が広がり ます。お兄さん、ガラが悪そうなどと思ってすみません。ほんとうはとても優しいお兄さん だったのでした。もちろんおすすめされたイタリアのワインもしっかりおいしくいただきまし た。

ガズィマウサで泊まったのは小さなペンションのようなホテルです。宿泊客が少なかったせい か、朝食はブッフェではなくお皿に盛り切りで提供されました。玉子料理、黒オリーブ、白い チーズ、きゅうり、トマト、パンにバター、ジャム数種類、紅茶かコーヒーがつきます。典型 的なトルコの朝食です。玉子は揚げ玉子、ジャムは自家製というものでした。
特筆すべきは焼いて出てきた白いチーズ、ヘリムHellim Peyniriです。最近は「ハルミチーズ」と呼んで日本でも手に入るようになりました。これはキプロスが発祥といわれるフレッシュタイプのチーズで、伝 統的には山羊や羊の乳で造られますが、現在は牛の乳が使われることも多いそうです。
モッツァレラに似た独特な歯触りでかなり塩気が強く、焼いても溶けないのが特徴です。生の ままでもこんがり焼いても食べられます。
もちろんトルコでも一般に見られるヘリムですが、概してトルコ産のものはたいへんしょっぱ く、塩抜きしないととても食べられません。ところが北キプロスのヘリムはそれほど塩が強く なく、ミルク感たっぷりの豊かな味です。
ギリシャ北西部に住むギリシャ人の友人は、このチーズをわざわざ南キプロスから取り寄せて いると話していました。南キプロスのヘリムも食べてみたところ、北キプロス産よりもさらに 塩味が薄く、実に見事な味わいです。塩分濃度の違いはあれど、ヘリムチーズは南北を問わず 広くキプロス全島の名物になっているのでした。





アジア的八百屋



旧市街のスーパー



チーズパイを売るカフェ



昼食中の人々



英国式朝食

南キプロスのレフコシア(ニコシア)は、ギリ シャ 料理 やトルコ料理に加えてアジア料理の店 もたくさんあります。旧市街で一番にぎわうリドラス通りでは、店の前いっぱいにテーブル席 が並び、地元民も観光客も盛大に食事をしている光景が見られます。どのお皿もおい しそ うで 魅力的ですが、しかしその分量たるやギリシャ本土の比ではありません。ギリシャの一人前が 日本の倍以上だとすると、レフコシアではおそらく3倍ぐらいになるのではないで しょう か。 すべての料理がそういうわけではないとは思いますが、もう見ているだけでお腹いっぱい。恐 るべし、レフコシアの食欲。

南キプロスのホテルでは、毎朝英国式の朝食が提供されます。キプロスは英国統治領 だっ たわ けですし、現在でも英国人観光客が多いことが関係しているのでしょう。ホテルの部屋には必 ず電気ポットとティーセットがついています。これは英国以外のヨーロッパの国では あま り見 られないことで(もちろんゴージャスな高級ホテルは別ですが)、部屋でくつろぎながら ちょっと緑茶などを飲みたい日本人には便利でうれしいサービスでした。



パフォス、中華レストラン



タイレストラン入口



もうひとつ、中華レストラン



それらしい雰囲気



クリスピーサラダ



豚ピーマン炒め



カラフルなリキュール



シーフードレストラン



わかめサラダ



海老の天ぷらとマグロ巻き



地元料理店



オープンテラス



ギリシャサラダ半ポーション



仔羊の壺焼き



付け合わせ



夜の街のにぎわい



小さな手作りパン



エヴァさん

リゾート地として名高いパフォスは、海に近い幹線沿いにレス トラ ンが 並んでいます。いかに も観光地という雰囲気で、地元料理やシーフードレストランの他にタイ料理や中華料理など、 かなり本格的なアジア料理店も目につきます。
イスタンブールでは中華料理屋が少ないので、普段あまり食べる機会がありません。 かつ ては 街の中心部に数軒ありましたが、テロやクーデタなどの影響で外国人利用者の足が遠のき、近 年はどこも店を閉じてしまいました。
久しぶりに中華も悪くありません。南キプロスの中華はどんなものかと入ってみま す。
きらびやかな玄関と相まって、なかなかゴージャスな内装と雰囲気です。表のメ ニューに ラー メンと書いてあったので早速注文したら、今日はないということでちょっとがっかり。一通り のお料理はそろっていますが、セットメニューは2人以上からの受付です。単身旅行 者は こう いう時に困ります。他のお料理は大きなお皿しかありません。仕方ないのでクリスピーサラダ と豚肉ピーマンの豆鼓炒めというのを頼みます。
クリスピーサラダは千切りレタスだかわかめだかをかりかりに揚げたもの。どういう 発想 から こうなったのか不思議です。豆鼓炒めは英国の中華より本場中国に近い味で安心できました。 思った通り量が多くて食べ切るのに苦労しましたが。
お給仕をしてくれたお姉さんは東欧出身の方で、たいへんおだやかな気持ちよいサー ビス をし てくれます。食後に甘いリキュールがおまけでついてきました。

別の日にはスシバーに行きました。おしゃれな感じの開放的なバーで、料金もリゾー ト地 とし ては良心的です。まず最初に出てきた「おてもと」に感激。まさかこんなに遠く離れた地中海 の島で出会うとは!ここで一気に郷愁に駆られます。
メニューにはサラダ類、揚げ物、お刺身、にぎりや寿司ロール各種そろっています。土地 の白 ワインとわかめのサラダ、海老の天ぷら、マグロの裏巻きを注文。
サラダは茎わかめがどっさり、トビッコが乗っていて日本の居酒屋風です。
海老の天ぷらは一匹の海老を三つに切って揚げてあり、天ぷらというよりフリッター に近 い感 じですが、まあ、海外ではこんなものでしょう。しかしこれに甘酸っぱい東南アジア風ソース がついています。日本にいる時ならエスニック料理のひとつと思えばいいのですが、 こち らは すでになつかしい「日本の味」モードに突入しているところです。テーブルにキッコーマンの 減塩醤油の瓶が置いてあったので、レモンをもらってさっぱりレモン醤油でいただき ま す。マ グロの裏巻きはマグロよりアボカドやきゅうりの方が多く入っていますが、酢飯は立派なもの です。わさびやガリがちゃんとついているというのも気に入りました。いずれもよく 冷え た辛 口の白ワインと一緒においしくいただいたのでした。
お給仕の地元出身お兄さんによると、スシはこの3年ぐらいでしっかり南キプロスに も定 着し たということです。

せっかく南キプロスの西の果てまで来たのですから、やはり地元の伝統料理もいただ かな くて はなりません。ホテルのレセプションとタクシーの運転手の両方に勧められたレストランに 行ってみます。毎度お馴染みフェタチーズの乗ったギリシャサラダと、店の名物とい う骨 付き 仔羊の壺焼きを頼みます。サラダは半分ポーション。
おそらくかなり長時間壺焼きにした仔羊はほろほろと柔らかく、骨も簡単にはずれま す。 塩気 やスパイスも強くありません。滋味深い味わいです。これにはグリルしたズッキーニ、人参と インゲン、ライスが別皿でついてきました。野菜料理は別に注文しないとついてこな いと いう 場合もあるので、これはかなり良心的です。地元のすっきりした赤ワインは軽く冷やしてあ り、暑い季節だけにのど越しもさわやか。たいへん充実した夕食となりました。

幹線沿いは他にもレストランがたくさんあり、夜になるとアトラクションとして風船を 配った り、子どもの顔にペインティングなどをする店もあります。あたりはちょっとしたお祭のよう な雰囲気で、小さな子どもにはバカンスの楽しい思い出になることでしょう。

パフォス滞在中にホテル近くのスーパーをよく使いました。一日の見学を終えて 帰る際 に、水 やワイン、ちょっとしたスナックなどを買うのに便利です。いつ行っても同じ年配の女性がひ とりレジにいて、何かと親切に対応してくれます。地元の蜂蜜やオリーブオイル 製品など も土 産物店で買うより割安だったので、お土産も全部そこで調達しました。
女性はエヴァさん。大学院で歴史学を専攻したお嬢さんが、数軒隣にオーガニッ ク化粧品 の店 を開いています。最後の晩に顔を出して挨拶すると、「これを持って行きなさい」と渡された のが5センチほどの三日月型をした塩味パン。ここでは古くからある伝統的な食 べ物で、 妹さ んが焼いたそうです。せっかく妹さんが焼いたのだからお味見にひとつだけと言っても、全部 包んで持たされました。
いただいてみると、しっかり噛み応えのある生地の中に黒オリーブのペーストな どが巻き 込ん であり、オニオンパウダーの風味もします。手作りの素朴なおいしさがあふれていました。
エヴァさん、どうもありがとう。小さなこのパンが、キプロスで一番の思い出の 味となり まし た。〈2021.12.23.〉



  番外編・サモス島の日々

 


トルコ、クシャ ダス 発



小さい船です



トルコ側免税店



客室



サモス島



コンテナが入国 審査 の窓口



ピタゴリオ







目抜き通り



お店いろいろ









静かな路地







  爆睡中



  町はずれのビーチ

東エーゲ海に浮かぶギリシャ領サモス島は、細いサモス海峡を隔ててトルコからわずか2 キロ 足らずという近さです。夏場はトルコのリゾート地クシャダスから 毎日フェリーが運航され、日帰りで両国を往来することができます。
島の大きさは467平方キロ、石川県金沢市より少し大きい程度。北東部にあるサモス・ タウ ンが島の中心で、アテネからの定期船が発着します。南東部のピタ ゴリオにも港があり、近くに国際空港もあります。全島の人口は45.050人(2020 年)。

産業はおもに観光業と農業で、葡萄、柑橘類、オリーブオイル、綿花、タバコといった産 物が あり、マスカットから作られる甘口のワインが特産品として有名で す。
日本ではあまり馴染みのないサモス島ですが、ヨーロッパからの旅行者は多く、バカンス 客が 島のあちこちに点在する美しいビーチに長逗留します。エーゲ海の 他の島に比べるとリゾートの規模はかなり小さく、たいへん地味な印象です。それがかえって この島の魅力となり、静かでゆったりした滞在が楽しめる穴場的存 在として人気があります。
「ピタゴリオとヘラ神殿」は1992年世界文化遺産に登録されました。

島の歴史は古く、紀元前11世紀にイオニア人が入植、イオニア12都市のひとつとなり まし た。前7世紀にはギリシアでも有数の商業都市に発展し、エジプト やコリントスなどとの地中海貿易はもちろん、黒海地方とも交易し、小アジアのミレ トスと 覇を競うほどだったと伝えられます。
前6世紀の僭主ポリクラテスPolycratesの時代には文化が栄え、建築家や工芸 家な どを輩出しました。ピタゴラス(Pythagoras前582〜 前496)やヘレニズム時代の哲学者エピクロス(Epikouros前341〜前270) はこの島の出身です。
やがてペルシアの支配を受けますが前5世紀にデロス同盟に加盟、その後さまざまな大国 に支 配されます。前133年にローマ帝国の属州となり、ビザンツ帝 国、ジェノバ支配を経て、1475年オスマン帝国領。最終的にギリシャ領となったのは 1923年になってからでした。

2018年、トルコのクシャダスからサモス島へ行ってみました。この時はフェリーでピ タゴ リオまで約1時間ほど。常に陸地が見える航路でしたが、狭い海峡 を通るせいか波がかなり高いように感じます。



  夕暮れ時



  ピタゴラスのモニュメント



にぎやかな夜











トルコへ戻る船



  島付近を航行中の大型客船



  エーゲ海の日没

2011年のシリア内戦勃発以降、トルコを経由して多くの難民がギリシャの島々に逃れ てい ます。サモス島にも難民が殺到し、2016年にはサモス・タウン にある旧軍事施設が難民キャンプとなりました。当初650人だった難民は2019年には 8000人に膨れ上がり、施設に入り切れなかった人々がキャンプ周 辺にあふれたそうです。
現在はシリア、アフガニスタンを中心にコンゴ、イラク、パレスティナなどからの難民約 4000人が厳しい環境の中で生活しているということでした。

2020年は新型コロナウイルスが世界中に広がりました。観光客の途絶えた島の経済 や、 人々の健康状態も心配です。加えて同年10月30日にはトルコのイ ズミール沖でマグニチュード7.0という大地震が発生、震源地はサモス島北部から至近距離 でした。この地震でイズミールでは115人が亡くなり、サモス島 では10代の2人が犠牲となっています。
かつてのように静かでおだやかな日々が、この島ばかりではなく、再び世界に戻ってくる こと を願わずにいられません。〈2020.12.27.〉 



  ピタゴリオ Pythagorio
 



ピタゴリオ港







カラフルなお店









「ワインのセレ クト の仕方」



咲き乱れる花



ピタゴラスのモ ニュ メント



水は冷たい

ピタゴリオはサモスの古代都市があった町です。人工の港としては地中海最古の港を有 し、前 6世紀後半には強力な貿易都市として栄えました。かつてはティガ ニTiganiと呼ばれていましたが、この町出身の数学者ピタゴラスにちなんで1955年 にピタゴリオとなりました。

現在はこぢんまりとした静かな保養地として人気を集めていますが、観光客が訪れるよう に なったのは1980年代ごろからということです。さすがに海沿いは レストランやカフェが並んでリゾート地らしくにぎわうものの、目抜き通りから一歩入ると ひっそりとした路地が続きます。人口は7.996人(2011 年)。

いわゆる観光ホテルは見当たらず、長期滞在用の家具付きワンルームや小さなペンション が港 周辺にたくさんあります。こういった宿泊施設のほとんどは冬場に は閉じてしまいます。町中に充実したスーパーが数軒あり、キチネット付きの部屋で自炊を楽 しむ滞在者も多いようです。

通りにはアーティスティックなギャラリーやブティックが並び、他では見られないような アク セサリーや装飾品など、見ていて退屈しません。大手ブランド店な どはなく、地元の人々がセレクトした品や手作りの作品を並べていて好ましく感じられます。 土産物店もカラフルでしゃれたディスプレイが素敵です。

通りの奥にある土産物店にはEn Arche oinologosという看板が出ています。何だか不思議な名前だと思って店のアントニオ さんにたずねると、これは新約聖書のヨハネによる福音書冒頭の 「初めに言葉ありき」というギリシャ語をもじって、「ワインのセレクトの仕方」といったよ うな意味なのだそうです。アントニオさんは以前ワイン関係の仕事 をしていたとかで、ダジャレみたいなものだけど、と笑っていました。
この店はお土産用のマグネットやポストカードから、オーガニックのオリーブオイル製 品、ア クセサリーやギフトなどいろいろな物がそろっていて、なかなかに ぎわっています。ワインは置いてないようでしたが。
またあるブティックで聞いたところによると、北ヨーロッパやロシアからの観光客に合わ せ て、靴や洋服などはサイズの大きいものをそろえているそうです。た またまハンドメイドの革のサンダルで日本人向けサイズがあり、料金も手頃だったのでお土産 に買いました。
観光地は得てして物価が高めですが、ここはそんなこともありません。緑ゆたかな通りを 散歩 しながら、あれこれ物色するのも楽しみのひとつです。

港にあるピタゴラスのモニュメントが印象的でした。大きな直角三角形の頂点に向かって 右手 を伸ばすピタゴラス。左手に三角定規を持っています。三平方の定 理をイメージさせるモダンなモニュメントです。観光地にあるモニュメントというと、いかに も取ってつけたようなやぼったいものが多いですが、このピタゴラ スは洗練された芸術性を感じさせます。
もっとも、この像のモティーフとなっている三平方の定理は、ピタゴラス個人が発見した ので はなく、彼が後にイオニア海沿岸の町で興したピタゴラス教団によ るものだとも言われています。

町の西側にゆるやかな弧を描く海岸があり、海水浴ができます。町からややはずれている ため 周辺に民家も少なく、水がとてもきれいです。波も静かで絶好の ビーチですが、実際に入ってみると午前中だったせいかとても冷たく感じます。ご近所のお母 さんたち数人が井戸端会議ならぬ海中会議をしていて、数十分も肩 まで水に浸かったままおしゃべりに興じていますが、とてもそんなに長く入っていられませ ん。パワフルなお母さんたちに脱帽だったのでした。



要塞と教会



リュクルゴス・ ロゴ テティス要塞





城壁



変容教会



バシリカ跡





フラグメント









遺跡猫



パナギア・スピ リア ニス修道院





要塞とピタゴリ オの 町



地下の洞窟







礼拝所





教会構内



夏の花

港の南西にある断崖絶壁の高台に、リュクルゴス・ロゴテティス Lykourgos Logothetisの要塞がありま す。月曜日休 館・9:00〜日没まで。
ロゴテティス(1772〜1850)はギリシャ独立戦争勃発後サモス島の指導者に選出 さ れ、サモスの軍政システムを整えた人物です。この要塞は対オスマン 帝国の拠点として、1824年から3年をかけて建設されました。
堅牢な要塞は島で最も古いアクロポリスがあったとされる場所にあり、周辺の考古学的遺 構を 利用して造られたということです。すぐ隣にはキリスト教初期のバ シリカの遺構や、1831年に建立された「救世主キリストの変容教会 Church of the Transfiguration of Christ the Savior」があります。
バシリカははっきり構造がわかるように残されていました。周囲に散らばる柱のフラグメ ント は、さらに古い時代のものと思われます。要塞と教会と遺跡がすべ て一緒になっていて、歴史を深く感じさせる光景です。
ロドス島コス島な ど、トルコに近いギリシャの島はほとんどがオスマン帝国領だったため、町を歩くと必ずオス マン時代の建物が残っているものです。しかし ピタゴリオの町に当時の名残は見当たりません。徹底抗戦の最前線だったからでしょうか。

海沿いにある要塞のちょうど反対側、町の北西の丘の上にそびえるのがパナギア・スピリアニスPanagia Spilianis修道院です。無休、9:00〜15:00。
この修道院の地下に泉が湧く洞窟があり、その中の礼拝堂にお参りすることができます。 教会 内の販売所では、イコンなどの他に瓶入りの聖水も売っていまし た。ここから眺めるピタゴリオの町とエーゲ海の景色は素晴らしく、それを目当てに多くの人 が訪れます。



暮れゆく港





夜のにぎわい











レストラン満席

夕暮れが近づくにつれ、町は活気づいてきます。暑い日中はビーチや部屋で静かに過ご し、涼 しくなってから外に繰り出すのはどのリゾート地も同じですが、こ こは町が小さいせいかたいへん家庭的で親密な雰囲気です。治安がよく、暗くなっても安心し て歩けます。
緑あふれるピタゴリオ。のんびりリラックスして心地よく滞在できる町です。ぜひまた訪 れた い場所がひとつ増えてしまいました。〈2020.12.27.〉  







モダニズム建築



展示室





クーロス



コレー



黒絵、ミダス王 とサ テュロス



黒絵、オリュン ポス の神々



古層のアルテミ ス



羊の角があるゼ ウス



新しいアルテミ ス



アフロディテ



トラヤヌス



テラコッタ製



月曜日・祝日休館・9:00〜14:00
町の目抜き通りの先にピタゴリオ考古学博物館があります。紀元前4000年の新石器時 代か ら後7世紀のビザンツ時代まで、この町や近郊の発掘物が展示され ています。
こぢんまりした建物はピロティがあり、直線を強調したモダニズム建築です。2010年 改 築。
建物の外側だけではなく展示室もたいへんモダンで、自然光を多く採り入れる構造になっ てい ます。大理石の彫像やフラグメントなど、光に当たっても劣化しな い展示物が多い博物館だから可能なことです。すっきりした内装に古代の展示品が映えます。

クーロスは直立青年裸像、聖域の奉納神像または墓の上に置く墓像として、前7世紀から 前5 世紀の間に多く作られました。これは前560年のもので、左膝の 上にアポロンに関連する記述が彫りつけられています。対するコレーは着衣の少女像で、クー ロスとほぼ同じ時代に奉納神像として作られました。この像はアテ ネに捧げられたもの。コレーはゼウスとデメテルの娘、ペルセポネの別称ですが、一般に 「娘」という意味もあるようです。
黒絵のポットにはミダス王とサテュロス(またはシレノス)、ミノタウロスと戦うテセウ スが 描かれています。前540年から前530年ごろ。
同じ黒絵の壺は前550年から前525年ごろのもので、デメテルやポセイドンなどオ リュン ポス十二神の姿が見えます。神々の衣装の柄が細かく描かれている ところに独創性を感じます。

一連の大理石像やレリーフは、小ぶりながらも保存状態のよいものが多く、見事なコレク ショ ンです。
前1世紀のアルテミスは豊穣多産を表す古層の姿をしており、トルコのエーゲ海地方エ フェ ソスで信仰された地母神を思わせるタイプです。女神の標章 であるラ イオン、パンサー、蜂などが彫られています。
同じ年代のゼウスのレリーフは頭に羊の角があり、足元にも羊がいます。これはエジプト のア モン神とギリシアのゼウスが混淆した姿だということです。エジプ トの神々は前5世紀ごろからギリシア世界に入ってきていましたが、アレキサンドロスの遠征 後に広く一般に知られるようになりました。
2世紀のアルテミスは先ほどのアルテミスとは打って変わり、現在に広く伝わる姿です。 大き く踏み込んだ足やその装束、足元にいる猟犬などから、狩猟を象徴 する女神だということがよくわかります。これはヘレニズム時代の模作。
ゼウスのレリーフがそうであったように、同じ名前の神でも時代や地域によって変容して いく 様子に興味深いものがあります。
サンダルを脱ぐアフロディテはヘレニズムからローマ時代の作で、脇にいるのは巨大な一 物を 持つプリアポス。プリアポスはアナトリア由来の豊穣神、男性の生 殖力の神で、アフロディテの子供です。父親はディオニュソス、ヘルメス、ゼウスと諸説あっ てはっきりしません。プリアポスもアレキサンドロスの遠征後にギ リシア世界に伝わりました。
ローマ皇帝トラヤヌスの大理石像は2.71メートルという堂々たる大きさです。

2体並ぶテラコッタ像は前550年から500年という古さで、エキゾチックな顔立ちを して います。
もう一方のテラコッタ像はお腹が頭になっているようなユニークなスタイルで、地母神デ メテ ルの聖域から発掘されました。前3世紀から前2世紀のもの。



遺跡の上の博物 館



広がる遺跡



地図



神殿



モザイク



水道管



柱のフラグメン ト



遺跡の花

収蔵品が自然に近い状態で明るく見えるのはありがたいことですが、外光が保護ケースに 反射 して写真がなかなかうまく撮れません。アクリルを多用した解説パ ネルも充実した内容で、洒落た博物館全体の雰囲気にぴったりです。とはいえ、こちらも影が 映り込んで写真にはちょっと不向きでした。博物館の展示コンセプ トのむずかしいところかもしれません。

博物館恒例の屋外展示も見学しようと庭に出て茫然としました。博物館裏手のかなり遠く の方 まで、遺跡が広がっています。前7世紀の神殿や祭壇、ローマ時代 のアゴラ、ストア、浴場や貯水池などの遺構です。この博物館は古代都市の真上に建っている のでした。
床を飾っていたモザイクや浴場の水道管などがきれいに残っていて、なかなか見応えがあ りま す。遺跡内は通れる道が限られているため、奥の方まで歩いていけ ないのがちょっと残念でした。〈2021.1.28.〉 



  ピタゴリオ考古学エリア Pythagorio Archaeological Sites
 



アフロディテ神 殿





神殿向かいのカ フェ



山の中腹にある 邸宅





邸宅近くの遺構



野外劇場



床下



客席後部



海岸近くの遺構



道?



正体不明の遺構



ピタゴリオは考古学博物館が遺跡の上に建っているばかりではありません。町のいたると ころ に遺跡が顔を出しています。町なかに点在する遺跡と、町から6キ ロほど離れたところにあるヘラ神殿を併せて、「サモス島のピタゴリオとヘラ神殿」という名 目で1992年世界文化遺産に登録されました。

町の中心部、島の各方面へ行くバス停脇にあるのがアフロディテ神殿です。これは民家の 隙間 のような場所にあり、フェンスに囲まれて中に入ることはできませ ん。フェンスの網の隙間にカメラのレンズを差し込んで、何とか写真に収めます。すぐ向かい のカフェはいつもにぎわっています。
町の北側、パナギア・スピリアニス修道院に 行く途中の坂道脇に、ヘレニズム時代の邸宅跡が見えます。この 邸宅からモザイクの床が発見されたということで す。裕福な住民の別荘だったのかもしれません。周囲にも何かの遺構が垣間見えます。
さらに丘を登っていくと2世紀の野外劇場があります。木材でオーケストラピットや舞 台、観 客席が整えられていて、現在は催し物会場として使われているよう です。遺跡としてはかなり破損されており、修復をあきらめて遺跡の上に新しい劇場を乗せた という感じがします。ギリシア様式の劇場で、裏山の傾斜からする ともう少し高いところまで客席があったのではないかと思います。数名の観光客と、犬を連れ て散歩に来ているご近所さんがいました。

山の中腹から町を望むと、海岸近くに遺跡とおぼしき建造物が密集しているのを発見。そ れを めがけて、道があるようなないような斜面を一気に下ります。目指 した建築群は金網に囲まれていますが看板はなく、何なのかわかりません。ローマ時代の邸宅 でしょうか。



ビーチ



スポーツセン ター



ホテル敷地内





スタジアム跡



左側の帯が城壁







アルテミス聖域



キリスト教徒の 墓地



考古学公園







ニンフの聖域





民家の裏庭のア ゴラ







涼し気な花



花の向こうは考 古学 博物館

そこから海岸に出ると、リゾートホテルの敷地内にも遺跡のフラグメントが散乱していま す。 このあたりは一大スポーツセンターがあった場所で、古代ギリシア 世界で最大級のひとつに入るというスタジアム(トラックの長さ約200メートル、幅約50 メートル)、ギムナジウム、運動場、ローマ浴場がそろっていまし た。サモス国際空港はすぐ近くです。
ここから北側にある山を見上げると、前6世紀の僭主時代に築かれた都市の城壁がはっき りわ かります。かつては全長6430メートル、35の砦と12の門が あったということです。

さらに西に進むと池があり、そのほとりはアルテミスの聖域となります。夏草におおわ れ、か ろうじて遺跡があるとわかる程度です。神殿や聖域は水のある場所 に多く見られるものでした。
近くにキリスト教徒の墓地もあります。キリスト教がこの島に伝わったのは4世紀ごろな の で、それ以降のものと思われます。
道路脇に、柱などの発掘品がきれいに並んで置かれていました。修復現場というわけでは な く、フラグメントをデザインして並べ、ちょっとした「考古学公園」 に仕立てたという感じです。列柱状の柱の足元は、何かの建造物の土台か床のように見えま す。

このあたりから町に戻る途中にあるのが、フェンスに囲まれたニンフの聖域です。ニンフ は ニュンペとも呼ばれる山や泉、川などに宿る精霊で、古くは山中の泉 が湧く洞窟などに祀られていました。後には水をたたえた水槽に神像などを飾ったドーム付き の建物、ニンファエウムが街中に造られるようになります。ここは かなりの規模の遺構なので、ローマ時代のニンファエウムのようです。

最初のアフロディテ神殿近くまで戻ると民家が増えてきます。どなたかのお宅の裏庭 (?)に アゴラと書かれた看板があったので、ちょっと失礼して見学するこ とにしました。規模は大きくあっちの方まで広がっていますが復元されておらず、大理石の床 や壁の一部が地面から顔を出しているばかりです。このアゴラには 陶器や金属製品の工房などもありました。
ちょうどお昼を少し回ったころで、民家のテラスで一杯やりながら昼食を楽しむご一家が こち らを見ています。不審者に思われないよう手を振ったら、楽しそう に手を振り返してくれてちょっと安心します。暑い夏の午後、自宅のテラスで遺跡を眺めなが ら一杯なんてうらやましい限り。とはいえ、実際に住むとなると旅 行者がうろうろ入り込んできたり、風が吹けば砂ぼこりも多そうで、それなりのご苦労がある のかもしれませんが。

遺跡の点在具合を見ると、ピタゴリオはかなり大きな都市だったことがわかります。現在 の町 の南西部に古代の港があり、そのエリアを中心に遺跡が残されてい るようです。町の東側はすでに家が建っていて、発掘不可能だったという事情があるのかもし れません。他には町の北西に、前6世紀にできた水道トンネル(エ フパリノスのトンネル)があります。

ほとんどの場所にいちおう看板はあるものの、解説その他のパネルはいっさいなし。後で ネッ トで調べてもよくわからないものが多く、詳細不明の遺跡探訪に なってしまいました。
いくつかはフェンスに囲まれて入れませんでしたが、他は囲いもなく、民家の裏や道端の 空き 地、あるいは海岸沿いなどにほったらかしにされているようです。 せっかくの世界遺産なのに、その脱力ぶりに驚かされます。
そんなわけでいずれも無人、24時間見学自由。大らかなギリシャなのでした。 〈2021.1.28.〉  



  



ヘラ神殿



まっすぐ伸びる 「聖 なる道」



沿道の彫像(レ プリ カ)



沿道



祭壇



  遺構



前6世紀、円型 モ ニュメント



遺構






月曜日、祝日休場・夏期8:00〜15:00、冬期9:00〜16:00(休場日、開 場時 間は要確認)
ピタゴリオから西へ6キロほどの海岸近くにヘラ神殿があります。町に点在する遺跡群と とも に1992年世界文化遺産に登録された神殿です。ここは人々が生 活する場所ではなく、祭祀に関係する建造物だけがある宗教的な中心地でした。

サモス島はギリシア神話で女神として最高位のヘラが誕生した地とされ、古くからヘラ信 仰が 盛んでした。ヘラは結婚や出産を守護する女神で、夫はオリュンポ ス十二神の主神ゼウスです。
ヘラは嫉妬深い女神といわれますが、他の女神や人間の女性と浮気三昧のゼウスが夫であ れ ば、嫉妬深くなるのも当然かもしれません。神話では、ゼウスの浮気 相手やその子どもに対して、ヘラが残酷な罰を科したエピソードが多く見られます。情け容赦 なく恐ろしい一面を持つヘラですが、自身は貞淑だったため、家庭 に入った婦人の守護神でもありました。

この場所には前8世紀ごろすでに集落があったとされています。
最初に神殿が建てられたのは前750年ごろ。幅6.5メートル、奥行きは約33メート ルと いう神殿で、当初は日干しレンガで作られていました。サモスの町 に通ずる「聖なる道」や、神殿南側のストアなどもこの時期に造られます。聖なる道の沿道に は、さまざまな彫像が置かれていました。神殿は前670年ごろ、 おそらく水害で流されてしまったということです。
そのすぐ後に再建された神殿はさらに大きいもので、幅約12メートル、奥行き約38 メート ル。これは古代ギリシア世界で初めて列柱廊がある神殿でした。

さらに前570年、神殿は幅52.5メートル、奥行き105メートルと大幅に拡張さ れ、ギ リシア初の二重周柱式のイオニア式神殿となります。ロイコス RhoikosとテオドロスTheodorosの設計による記念碑的な神殿は、古代ギリシ アの神殿や公共建築の建造技術に大きな影響を与えました。この時 期にモニュメンタルな祭壇やロイコスの名を付した神殿、南北の建造物なども建てられます。
祭壇もまた縦36.5メートル、横16.5メートルという大きなもので、上部は緑に覆 わ れ、供犠を置く部分は耐火性の高い蛇紋岩が使われていました。これ は後1世紀に大理石で改築されることになります。現在は大理石のフラグメントを積み上げた ものが置かれています。

神殿が前540年に戦火で失われた後、ポリクラテス時代の前535年、幅約55メート ル、 奥行き約109メートル、高さ20メートル、155本の柱がある 壮大な神殿が建てられます。しかしこれは250年かけて建設が続いたものの、未完のまま終 わりました。神像は別の神殿に移されましたが、奉納品などはその ままここに保管されていました。
ローマ時代の392年に異教禁止令が発令されたことで、神殿はヘラ信仰の中心地として の役 割を終えます。5世紀にはキリスト教の聖堂が建てられ、その後一 帯は採石場になったということです。



神殿の柱



ストア



キリスト教のバ ジリ カ



パネルの地図



エーゲ海





近くの村







冷え冷え



炎天下

現在の神殿は、当時の半分の高さの柱が一本そびえ立つばかりです。
聖域は平らで開けた場所にあり、かなり広さがあります。広々とした全体を見渡すことが でき るので、全貌がつかみやすい遺跡です。奥の方に一本だけぽつりと 見える神殿の柱が目安になります。解説のパネルもきちんと整備され、たいへんわかりやすく なっていて申し分ありません。

ここを訪れたのは閉場までまだ十分時間がある時でしたが、入口でもう閉めるから入場で きな いと告げられてびっくり仰天。しばし押し問答をして何とか入れて もらったものの、30分ほどで係員が追いかけてきて閉め出されてしまいました。せっかく遠 路はるばるたずねて来たのに、あまりいい気分はしません。
どうもギリシャでは時々こういうことがあるようなので、開場時間をその都度確認する必 要が あります。もっとも、休場日や時間変更は必ずしもネットなどに反 映されるわけではなく、結局現場にたどり着いてみて初めてわかる、という場合がほとんどで すが。実際に後でネットで調べてみると、この遺跡の開場情報は実 に千差万別のことが書かれていました。

閉まった門の外で未練がましく写真を撮っていると、係員が「暑いからバイクで近くの村 まで 乗せて行ってあげよう」などと言います。人を追い出しておきなが ら、親切なのか不親切なのかよくわかりません。確かに日差しが最強の時間帯だったので、そ れはそれでたいへんありがたく、おおいに助かりました。

海岸沿いにある村は、海水浴客がぽつぽつ見える程度で静まり返っています。みなさん昼 食後 の午睡を楽しんでいるのでしょう。先ほどの係員も自宅に戻ってヤ レヤレと思っているかもしれません。

まぶしく輝くエーゲ海を眺めながら冷たいレモネードなどを頂いていると、しかしまあ、 たい がいのことはどうでもいいような心持ちになってくるのでした。 〈2021.2.27.〉  






サモス・タウン



考古学博物館旧 館



新館



新館展示室



巨大クーロス







ゲネレオス群像
]




お嬢さん



鳥を胸に抱くコ レー、前540年

月曜日休館・9:00〜16:00(休館日・開館時間は要確認)
ピタゴリオから北東へ約11キロにあるのが、島の中心となるサモス・タウンです。ここ の港 には長距離の定期便やクルーズ船が発着します。こぢんまりとした ピタゴリオから訪れると、人がたくさんいて立派な「街」という雰囲気です。街の南寄りの海 岸沿いから少し入ったところにサモス考古学博物館があります。

博物館は新旧二棟の建物があり、いずれもおもにヘラ神殿の発掘品を収蔵しています。
旧館には陶器の他、ブロンズ、象牙、木、粘土などさまざまな素材で造られた小品のコレ ク ション、新館にはアルカイク期の大型の彫像などが展示されていま す。
ネオクラシック様式の美しい旧館は1912年建造。裕福な商人から寄贈されたもので す。モ ダン建築の新館は1987年に建てられました。

新館にあるクーロスが圧倒的です。前580年から560年ごろのもので、その高さ 5.5 メートル。ギリシャ最大の大きさです。ヘラ 神殿の 聖なる道の北の角 に奉納されていました。
ヘラ神殿はアテネのパルテノン神殿をはるかに越える規模でしたが、クーロスも尋常な大 きさ ではありません。島で産出される灰色の筋目が入った大理石製で、 像の表面はかつて赤茶色に彩色されていました。

こんな大きな彫像がひとつの大理石から造られたというのが驚異的です。さらにそれが、 1980年になってから発掘されたというのも奇跡のように感じられま す(頭部は1984年発掘)。
間近で見ると、なめらかな肌、膝や大腿の筋肉がリアルです。左の大腿には奉納者の名前 が彫 られています。こうした巨大クーロスが造られたのはこの時期だけ で、やがて小型化されていったということです。
彫刻家ゲネレオスによる「ゲネレオス群像Geneleos Group」は前560年から540年のもので、これも聖なる道の脇に奉納されていまし た。もともとは台座に男性像2体、女性像4体が並んでおり、当時の 裕福な一族の「家族の肖像」と考えられています。

右端でクッションに横たわっているのが父親、大きく破損していますが左端の椅子に母 親、中 央に立つのが2人の娘です。それぞれの名前も残されており、母親 はフィレイアPhileia、娘はオルニテOrnitheとフィリッペPhilippe、 父親は下半分のみがアルケスarchesとわかっています。他の 1体は像そのものが不明で、たぶん男の子だったと考えられています。
父親が奉納者で、欠損している左手には葡萄酒の入った器を持っていたのかもしれませ ん。横 たわって飲食をするというのは、当時の饗宴スタイルでした。娘た ちは薄い衣装のドレープを右手でつかんでいるという繊細な描写です。

古代ギリシア世界では、一般に巫女などを除く女性の社会的地位は低いものでした。女神 像や コレーなどの奉納像はありましたが、家庭の婦人像はほとんど見ら れません。ましてや女性(妻)が男性(夫)と同列に並んでいるのはたいへんめずらしいこと です。しかもその名前まで記録されていたわけです。
これには、ヘラが既婚女性の守護神であることが関係しているのではないか、という説が あり ます。こうしたことから、ゲネレオス群像はアルカイク期における 非常に貴重な作品と考えられてきたのでした。



旧館



展示室



テラコッタ



ライムストー ン、前 7世紀



陶製の壺、前7 世紀



彩色の残るテラ コッ タ、前6世紀



異国風





グリフィン







サモスの空



サモス・タウン の街 並み







ギリシャ正教会



聖具店



食料品店



映画館?

旧館には、一昔前の博物館にあったような展示ケースに小さな発掘品がひしめいていま す。人 型の造形は、素朴なものから写実的なものまでさまざまです。一部 に彩色が残っているテラコッタ像もありました。異国を思わせる顔立ちが多く、アルカイク期 の特徴が感じられます。

グリフィン(グリュプス)は頭部と翼、前肢が鷲で、獅子の胴と後脚を持つ伝説上の霊獣 で す。さまざまな神話に登場しますがその起源はオリエントにあり、ギ リシア神話では北方の国に住み、黄金を守ると伝えられます。
グリフィンの装飾品は前8世紀ごろヒッタイトからもたらされ、ギリシア各地の聖域に奉 納さ れるようになりました。青銅製、または鉄製の三脚ポットの上にグ リフィンの頭部が6つ並んでいます。前7世紀には3メートルの高さになる三脚ポットがあっ たそうです。
ここで見られる膨大な数のグリフィンは、ひとつひとつの表情が異なっていて個性豊かで す。 こうした奉納品は、前6世紀ごろからクーロスのような彫像に取っ て代わられました。

大きなものから小さなものまで猛烈な数のコレクションで、見応えのある博物館です。ア ルカ イク期の出土品がこれだけ充実している博物館はそれほど多くあり ません。ヘラ神殿の重要性が伝わってくるようです。解説パネルも丁寧で見やすくなっていま す。時間にゆとりを持って、ゆっくり見学したい博物館です。 〈2021.3.25.〉



サ モスの美味 Taste of Samos



裏通りのレスト ラン 街



アイスクリーム 屋





レストランのテ ラス 席



地ワイン



タラモサラダ



グリルドポーク



牛の頬肉ワイン 煮



帰省中

ピタゴリオの港周辺に軒を連ねているカフェやレストランは、いかにも観光客向けという 趣き です。日中のカフェは海を眺めながらまったりする人でいっぱい。 夜のレストラン街はどこもここ一番の混みようです。ちょっと路地に入ると地元の人でにぎわ うレストランもあり、概してこういう店の方がおいしくて料金も リーズナブルに感じられます。目抜き通りにはテイクアウトの店やアイスクリーム屋、軽食を 出すカフェなどがあり、食べるには困りません。

裏の方にある小さなレストランに入って、グリルしたポークやタラモサラダ、牛の頬肉の ワイ ン煮といった料理をいただきました。小さな店構えの割にメニュー は豊富です。テラス席は気持ちよく、込み合う前の時間帯はゆったり快適に過ごせます。料理 はどれもていねいに作られ、絶妙な味わいです。ワインはもちろん 地元産、デカンタで頼むとアルミ製のちろりのような容器に入れて供されます。軽くフレッ シュな飲み口が身上です。

隣のテーブルで楽しそうに食事をしているグループから声をかけられました。ご主人はピ タゴ リオ出身で、20数年ぶりに帰省したということです。奥さんはサ モス島の北にあるレスボス島出身、ふたりともアテネで知り合ってずっとアテネに住んでいる とか。
ご主人がいたころのピタゴリオは、本当に小さな村で何もなかったと言います。今はすっ かり 様子が変わってしまったとびっくりしていました。
牛の頬肉のワイン煮は奥さんから強くすすめられた一品です。別の日にこれを食べたさに 行っ てみました。フランス料理店で出てくるような強い味つけではな く、さっぱりとしたワインソースでほろほろと柔らかく煮こんであります。付け合わせのリ ゾットはぷちぷちと楽しい歯ごたえで、いいアクセントです。帰省中 のみなさんのおかげで、バランスの取れた魅力的な一皿を堪能することができました。



ギロス屋



テイクアウトの ギロ ス



食料品店



スープとサンド イッ チ



フェタチーズの パイ



テラスで軽食



ほうれん草のパ イ



魚屋で物色中



魚屋の猫



毎度おなじみギ リ シャコーヒー

わたしが泊まったホテルは朝食なし。ピタゴリオにはそういう宿泊施設が多くあります。 その 代わり部屋にキチネットがついていたので、スーパーで仕入れた食 材で朝食やお昼用のお弁当を作ったり、テイクアウトの料理を温め直したりできてなかなか便 利です。
目抜き通りのギロス屋でギロスのパックを買ってきて、キチネットでさっと作ったサラダ と一 緒に部屋のテラスでいただきます。もちろん、地ワインと一緒に。
ギロスはドネルケバブのギリシャ版。トルコのドネルケバブは牛とチキンしかありません が、 ギリシャではポークもあります。総じてトルコのものより塩気や 脂、スパイスが控え目で、ギリシャ版の方が日本人の口に合うような気がします。一人前はか なりのボリュームです。
ワインはスーパーや食料品店に手ごろな値段のものがたくさん並んでいました。どれがい いの かわからないので店のおじさんにたずねると、しばし考えて2種類 すすめてくれます。どちらにしようか悩んでいたら、おじさん「両方買えば?」などとなかな かご商売が上手です。

一般に島は本土より生鮮食品が高めですが、ピタゴリオではとくに生野菜が品薄なよう で、レ タスやきゅうり、トマトを買うのに何軒かスーパーを回るはめにな りました。日中はあちこちの見学に忙しく、あらかた品物が売れてしまった夕方にしか買い物 ができなかったせいかもしれません。
レストランでも生野菜のサラダは意外と値が張り、その割に中に入っている野菜の種類が やや 貧弱という印象がなきにしもあらず。

ギリシャではどこでも必ずパイを売っていて、テイクアウトで手軽に楽しめます。甘いお 菓子 系のものではなく、ソーセージやチーズ、ほうれん草などが入った 塩味系です。種類が豊富で軽食にぴったり。お店によって形やパイ皮の具合もさまざま、どれ もサクサクパリパリの皮が美味なのでした。 〈2021.3.25.〉








  番外編・ロドス島の日々



  朝のマルマリス港



  船着き場へ向かう



  マルマリス・ロドス間のフェリー



  パスポートコントロール



  免税店



  船内



  ロドス到着



  海に面した城壁





  ロドス・タウン旧市街



  歴史的建造物の商店街

ギリシャのドデカニサ諸島にあるロドス島は、トルコのマルマリスか ら南 へ約47キロの位置にあります。マルマリスからフェリーが運航しており、夏場は毎日 1往復、1時間ほどの船旅です。2017年のボドルムコス島に続いて、2018年にマルマリスか らロ ドス島へ渡ってみました。

マルマリスを出発する時、パスポートコントロールの窓口に大きな注意書きが目に留まり まし た。「パスポートに『北キプロス・トルコ共和国』のスタンプが押 されている場合には、コス島やロドス島といったギリシャ領には入国できません」という内容 です。
北キプロスはキプロス島北部の地域を指しますが、ここを独立した国と認めているのはト ルコ だけで、国際社会では国として認められていません。1955年の ギリシャ系住民とトルコ系住民との対立に起因するキプロス紛争の関係から、現在もこうした 措置が取られています。

ロドス島は長さ約80キロ、最大幅34キロという大きさで、ドデカニサ諸島のなかで一 番大 きい島です。人口は115.290人(2011年)。
ギリシャでも有数の観光地とあって、夏は島のあちこちに点在する美しいビーチめざして ヨー ロッパから観光客が殺到します。おもな産業は観光の他に農業、牧 畜業、漁業があり、島のワインは名産となっています。

島の歴史は古く、新石器時代から人が住んでいた痕跡がわずかに残されているそうです。 紀元 前10世紀にドーリス人が移住し、イアリソス、カメイロス、リン ドスといった都市国家を建設しました。前408年に3つの都市国家を統合して、島の北端に 新しい都市国家ロドスを興します。これが現在島の中心となってい るロドス・タウンです。
島は前357年にハ リカルナッソスマウソロスに 征服され前340年アケメネス朝の支配に入りますが、前 332年これをアレクサンドロス大王が解放しまし た。ヘレニズム時代には地中海貿易の中心地として繁栄し、島の貨幣が地中海全域で流通する ほどになりました。前167年ローマ帝国に入り、さらにビザンツ 帝国が支配します。1291年ヨハネ騎士団領、1522年オスマン帝国領、1912年イタ リア領となった後、1948年ギリシャに編入され現在に至ってい ます。



  カフェ



  観光バス?



  ギリシャ正教聖具店



  オスマン時代のジャーミー



  オスマン式家屋



  オスマン時代の水場



  野朝顔



  アクセサリー店のウインドウ



新市街のビーチ



入り江



エーゲ海の日没

マルマリスを出航した船は、ロドス・タウンの港に到着します。街の人口は49.500 人 (2011年)。船を降りて波止場からぶらぶらと歩いて行くと、城 壁に囲まれた旧市街に入ります。狭い通りに商店やレストラン、カフェが並び、観光客でにぎ やかです。中世の城塞とオスマン時代の建造物が混在する様子に独 特な雰囲気があります。
城壁を抜けると新市街。近代的なホテルが立ち並び、その向こうに美しいビーチが続きま す。 街中はもちろん、少し離れるとギリシア・ローマ時代の遺跡も多く 残されています。歴史探訪と海辺のリゾートを同時に楽しめるのがロドス島の大きな魅力と なっていると言えるでしょう。〈2019.7.30.〉 


  ロドス・タウンRhodes Town



要塞都市



城内へ至る道



旧市街







どこを見ても石 造り



騎士団長の宮殿





壮大な空間







内部装飾



ラオコーン



観光マップ

ロドス島の中心、ロドス・タウンは中世の色濃く残る街です。旧市街は港に沿ってぐるり と一 周を堅固な城壁で囲まれ、要所要所にある城門から外に出られるよ うになっています。東西約840メートル、南北約720メートルに広がる旧市街は、ヨー ロッパに残る中世の要塞都市としては大きな部類に入るものでしょ う。中世の街は通常道幅が狭く曲がりくねっていますが、ここは道が比較的まっすぐであまり 道に迷うことがありません。この旧市街は1988年「ロドス島の 中世都市」として世界遺産に登録されました。

ロドス島の中枢として、街の北西に「騎士団長の宮殿」がどっしりと構えています。宮殿 とい うよりも要塞です。
ビザンツ帝国時代の7世紀に軍事拠点として建造され、聖ヨハネ騎士団が島を占有した後 の 1307年、騎士団長の邸宅件騎士団領の行政府として拡張されまし た。オスマン時代には監獄として使われていましたが、19世紀に弾薬庫の爆発で崩壊、20 世紀になってからイタリアによって再建されました。ムッソリーニ の別荘だった時期もあったということです。
城壁から連なる外観や宮殿内部は実に壮観です。ヨーロッパに現存する中世の要塞として は最 大級の建造物ということで、威容を誇っています。イタリアによる 修復にはオリジナルとは違う部分があるという批判的な意見もあるようですが、細部に至るま でかなり注意深く修復されたように感じられます。
宮殿内にギリシア神話に基づく「ラオコーン像」がありました。トロイアの神官ラオコー ンと 2人の息子が蛇に巻き付かれている場面を描いたもので、ヘレニズ ム時代の傑作と目されています。ロドス島出身の彫刻家が制作したと伝えられることから、こ こロドスに置いてあるのでしょう。同じ作品はバチカン美術館にも あり、そちらの方が有名です。

観光業が盛んなロドスだけあって、街中にあるツーリスト・インフォメーションがたいへ ん充 実しています。地図はもちろん、島の文化、歴史に始まり、郷土料 理や特産物、見学のスポットなどについて紹介した詳細なパンフレットが何種類も置いてあ り、いずれも一般的なガイドブックをはるかに凌駕する質の高さで す。日本語版はありませんが、主要外国語版がそろっています。これさえあれば、ロドス観光 完璧。
そこで入手した旧市街の地図を見ると、城壁内にある建造物がどの時代のものか色分けさ れて います。青がヘレニズム時代、赤はビザンツ帝国時代、茶色は騎士 団時代、オレンジがオスマン時代。要塞の街そのものが中世にできたので圧倒的に騎士団時代 の建築が多くありますが、ビザンツやヘレニズムのものも思いのほ か残っており、激動の東エーゲ海の歴史を実感します。



パナゲア・カス トロ ウ



内部



イコン



壁の装飾画



中庭



アギオス・エカ テ リーナ







案内図に載って いた ヘリオス像



コロナハーバー



マンドラキ港



鹿の像



アフロディテ神 殿



ヘレニズムの港



ヘレニズムの遺 構



詳細不明






ビザンツ時代の建造物として整っているのは、パナゲア・カストロウ教会です。11世紀 建立 の内接十字型教会堂。オスマン時代の1523年から1912年ま ではイスラム教のモスクとして使われ、イタリア統治時代にはカトリックの教会にもなってい たようです。何度かの修復や改築を経て、現在はイコンなどを展示 する博物館になっています。
それより後の14世紀に建てられたアギオス・エカテリーナ教会は廃墟のような状態です が、 観光客が見学に訪れていました。

さらに時代をさかのぼってヘレニズムの遺構をたどってみます。
ロドス・タウンの港には古代世界七不思議のひとつ、「ロドスの巨像」がありました。こ れは 本体34メートル、大理石の台座を入れると50メートルの高さに なる太陽神ヘリオスの銅像で、港の入口をまたぐようにそびえ立っていたと伝えられます。前 284年、アレキサンドロスの後継者争いに関係する攻防に勝利し た記念として、ロドス島はリンドスのカレス設計によって建てられたものです。建造には12 年かかりました。しかしその後、前226年の地震で倒壊、材料の 青銅は鋳つぶされ売却されてしまいました。
ギリシア神話によると、ヘリオスは毎朝4頭立ての黄金の戦車を駆り、東から西へと天空 を横 切り、夜には大洋を航海して東に戻るとされています。太陽神とい うと音楽と予言の神アポロンが思い浮かぶため、混同されることもあるようです。
この巨大なヘリオス像が残されていないこともあって、後世の人々はさまざまに想像力を かき たてられました。その像は頭上に冠を頂き、器を手にしていたとい う考えが多いようです。この器に煮えたぎった油や鉛を入れ、不法に港に侵入してくる船めが けてからくり仕掛けで攻撃したという説もあります。とんだ「股く ぐり」といったところでしょうか。
現在の研究では、実際にこの像が港をまたぐのは構造的に不可能だったと考えられていま す。

ヘリオス像がどこにあったのかは、はっきりわかりませんでした。ロドス・タウンにはコ マー シャルハーバー、コロナハーバー、マンドラキハーバーと3つの港 があり、地形と名前からするとおそらくコロナハーバーではないかと考えて写真を撮ってみま した。
しかし旧市街から少し離れたマンドラキ港に回ると、港の入口に2頭の鹿のモニュメント が見 えます。あるいはこちらに巨像が建っていたのかもしれません。鹿 はロドス島のシンボル。その昔蛇が多くて困っていたところに鹿がやってきて、それから蛇が いなくなって助かったというお話があるそうです。

ちょうど巨像が建造された前3世紀ごろ、街の北東にアフロディテの神殿が建立されまし た。 砂岩でできた神殿に祀られていたアフロディテ像は、現在考古学博 物館で見ることができます。
城壁内の一番東の端にはヘレニズム時代の港の遺跡が残ってます。かつて海だったところ がい くらか後退し、ビザンツ時代か中世にはすでに城壁の内側になって いたということでしょう。

ビザンツ時代やヘレニズム時代の遺構は、旧市街のあちこちに点在しています。しかし解 説パ ネルなどがないものも多く、目の前の遺跡が何だったのかはっきり 特定することができません。中世の街を歩いていると、突然それよりはるかに古い時代のもの だろうと思われる何かの遺構が出現します。このいきなり歴史の交 錯する感覚が、ロドス・タウンの独特な面白さだと感じました。



スレイマン・モ スク



イスラム・ライ ブラ リー



ライブラリー内 部



イポクラトス広 場の 噴水



オスマン様式の 市場



元ハマム



城外にあるオス マン 様式の豪邸



シナゴーグ





コマーシャル ハー バー近くはおだやか



旧市街













新市街のビーチ



島の北側は波が 荒く



ビーチ沿いのホ テル 街



落日

さて、今度はひるがえって中世以降にできた街の様子です。オスマン時代の建造物はそれ まで の建物と様式がまったく違うのですぐわかります。スレイマン・モ スクはオスマン軍がロドス島を占領した1522年に建立。軍を率いた当時のスルタンの名前 が冠されています。ロドス島で一番最初に建てられたモスクで、 1808年に改築されました。
イスラム・ライブラリーがすぐ向かいにあり、美しい手書きのコーランなどが飾られてい ま す。外は観光客があふれるにぎやかな通りですが、ライブラリーの中 はひっそりと静かで落ち着いた雰囲気です。
オスマン様式の市場は城外の海岸沿いにあり、現在はカフェや土産物店などが入っていま す。 他にも路地を歩いて行くとハマムの廃墟があったり、広場の噴水が オスマン時代のものだったり、公園の中にぽつんと水場があったり、あちこちでその時代の痕 跡を見ることができます。
街全体が中世の建造物でがっちりと固められているため、後になって違う様式の建物が入 り込 む空間が少なかったのかもしれません。オスマン時代の建物は、独 立した建造物であることが多い印象を受けます。

旧市街の南東、細い路地を入ったところにユダヤ教の会堂がひっそりと建っています。こ のカ ハル・シャロームは1557年建造、ギリシャで最も古いシナゴー グです。かつてロドスにはユダヤ人が多く住んでおり、20世紀初頭には街の人口の約3分の 1を占めていました。しかし第2次大戦時にそのほとんどがホロ コーストへ送られ、現在はごく少数しか住んでいないということです。ここを訪れたのはユダ ヤ教の安息日に当たる土曜日だったので、中に入ることはできませ んでした。

ロドス・タウンは見るべき場所が旧市街にぎゅっと詰まっています。主要な見どころがす べて 徒歩圏内というのも嬉しい限りです。実際に街を歩いて歴史的な空 間を体験するには絶好の街といえるでしょう。日本ではあまり知名度が高くないようで、それ が不思議に感じられました。
〈2019.8.26.〉

(ロドス・タウン補足)

騎 士団長の宮殿 Palace of the Grand Master of the Knights

月曜日休館・夏期8:0016:00、冬期8:0014:40

パナゲア・カストロウ教 会 Panagia tou Kastrou ( Our Lady of the Castle )

           月 曜日休館・9:0017:00

ス レイマン・モスク Suleiman Mosque

           日 曜日休館・9:3015:00

イ スラム・ライブラリー Muslim Library

           日 曜日休館・9:3016:00

カハル・シャローム(ユダヤ博 物館) Kahal Shalom Synagogue ( the Jewish Museum of Rhodes )

           土 曜日休館・10:0015:00

 

ここで取り上げた他の遺跡や遺構は無人で、自由 に見 学できました。〈2019.9.1.  






堂々とした博物 館



ヘレニズム後期 のラ イオン像



湯浴みするアフ ロ ディテ



背面



ゼウス小像



ヒュギエイア



ヒュギエイアの 持つ 蛇



ヘリオス頭部



アフロディテ



岩に腰掛けるア フロ ディテまたはニンフ



広間



天窓



ヘレニズム後期 のレ リーフ



年代不詳

無休・夏期:8:00〜20:00・冬期:8:00〜15:00
騎士団長の宮殿から、堅牢な建物が連なる中世そのままの道を東に進むと考古学博物館が あり ます。ここは聖ヨハネ騎士団の病院として15世紀に造られた建物 で、イタリア統治時代の1913年から1918年の間に修復されて博物館となりました。
ロドス・タウンを始め、イアリソスやカミロスといったロドス島にある古代都市から発掘 され たものが収蔵されています。前9世紀の古典期からギリシア、ヘレ ニズム、ローマ、ビザンツ、中世まで、各時代の彫像、陶器、副葬品、ガラス製品、モザイク 画など、どれも貴重なコレクションです。展示品の他に建物そのも のも興味深く、たいへん充実した博物館となっています。

小ぶりの彫像はどれも保存状態が素晴らしいものばかりです。
とりわけ「湯浴みするアフロディテ」は「ロドスのビーナス」とも呼ばれる名作とされ、 完成 度が非常に高い彫像です。白い大理石の肌がなめらかに輝いていま す。これは前3世紀の作品を模して前1世紀に造られました。こうした彫刻は裕福な人々の邸 宅の庭や人口の池などに飾られていたということです。

ゼウスの小像は島の西側にある古代都市カミロス出土、ヘレニズム後期のもの。
医神アスクレピオスの娘ヒュギエイアは健康と衛生を司る女神で、後2世紀中葉の彫像。 手に した器(杯)と蛇がほぼ完璧な状態で残されています。蛇は再生の 象徴とされ、蛇の巻きついた杯は薬学のシンボル「ヒュギエイアの杯」と呼ばれるようになり ました。
ヘレニズム中期のヘリオス像は頭部しか残っていませんが、神殿の破風に飾られていたと 考え られています。ロドス・タウンは港をヘリオスに守られている街で した。地中海文化圏でよく見られるアレキサンドロス大王と面影が似ているようです。
もうひとつの小さなアフロディテ像は、典型的な「ロドスのアフロディテ」の姿を見せて いま す。ロドス・タウン西岸の海底で発見されたもので、これは装飾品 ではなくヘレニズム初期に実際の信仰の対象になっていた可能性があるということです。
腰掛けるアフロディテまたはニンフは前2世紀から前1世紀の作。



陶器の展示室



赤絵式



黒絵式



中庭に咲くブー ゲン ビリア



モザイク画



トリトン



狩りから戻るケ ンタ ウロス



蛇の柱



庭の小径



オスマン時代の 水場



オスマン式のサ ロン



「七変化」とも 呼ば れるランタナ

陶器のコレクションも見事です。
黒地に赤で絵柄が描かれているものは赤絵式と呼ばれます。演劇と酒の神ディオニュソス が右 側の人物を祝福している場面です。ふたりとも松かさのついたディ オニュソスの霊杖を手にしており、まわりにはこの神の標章とされるツタのモティーフが見ら れます。イアリソス出土、前540年。
もう一方は赤地に黒で描かれた黒絵式です。これもディオニュソスにまつわる一場面で、 踊る 信女とサテュロスの間にディオニュソスが立っています。赤絵と同 じイアリソス出土、こちらは前470年から450年のものと解説にありました。
一般的に黒絵の方が古くからあり、赤絵は後に伝えられたとされていますが、この二点に 関し ては時代が逆転しています。絵柄としては、黒絵の方に古風な雰囲 気が漂っているようです。いずれにせよ、イアリソスでは古くからディオニュソス信仰があっ たことがうかがえます。

屋内の展示室から屋外に出る回廊があり、大型のモザイク画が展示されていました。
1972年、街の西にある初期キリスト教のバジリカの下から発見された前3世紀のもの で す。黒やグレイ、白の細かいモザイクが精緻なスケッチ画を思わせま す。この時代のモザイクでこの大きさのものはあまり見る機会がありません。保存状態も申し 分なく、大変貴重なモザイク画といえるでしょう。
トリトンは海神ポセイドンの息子で半人半漁の姿をしていますが、ここでは翼や角も加わ り、 左手に舵の柄を持っています。周囲を縁どるのはアカンサスなど植 物のモティーフや波の文様です。
もうひとつは狩りから戻る半人半馬のケンタウロス。ツタの冠をいただき、獲物の野ウサ ギを 掲げています。

この回廊からさらに中庭に出ることができました。表通りは石造りの壁が隙間なく連なっ てい るばかりなので、敷地内にこんな広い庭があるとは想像もできませ ん。ちょっとした散策気分が楽しめます。
無造作に置かれた蛇の柱は解説も何もありませんでしたが、アスクレピオスに関連する場 所か ら運ばれたものかもしれません。展示物というより素敵なエクステ リアといった雰囲気です。
オスマン時代の名残の水場では実際に水がちょろちょろと流れ出し、周囲は水を好むシダ 類が 茂っていて何とも涼し気。その奥の建物にはオスマン式のサロンも ありました。
さすがにこのあたりまで見学に来る人は少ないようで、人影がまったくありません。緑豊 かな 中庭でほっと一息つけるような静けさでした。 〈2020.2.24.〉  





アクロポリスの アポ ロン神殿



神殿東のアゴラ





テラスとオデオ ン



修復は完璧



広大な敷地の向 こう にエーゲ海が



競技場



観客席



資料館のパネル