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番外編・キプロス島の日々  〈 2021.04.25.〜

番外編・サモス島の日々  〈 2020.12.27.〜2021.3.25.

番 外編・ロドス島の日々
  〈 2019.7.30.〜2020.4.19. 〉

番外編・コス島の日々  〈 2018.5.31.〜2019.2.15.〉

  番外編・キプロス島の日々
 


南キプロス・パフォス





パフォス遺跡





ちんまりしたリゾートホテル





1610年ベネチア人によるニコシア



南の検問所



にぎやかなリドラス通り













ギリシャ正教のイコン

トルコやシリアに近いキプロス島は、地中海で3番目に大きい島です。9.250平方キロという四国のほぼ半分の土地に1.237.088人(2018年) が住んでいます。
この島の特徴は、南側がキプロス共和国Republic of Cyprus、北側が北キプロス・トルコ共和国Kuzey Kıbrıs Türk Cumhuriyeti (KKTC) と、ふたつに分かれていることです。

キプロス島は東地中海文化を担う中継点として、古代から栄えていました。ヒッタイトやアッシリア、エジプト、ペルシャ支配の後、プトレマイオス朝の保護下 に置かれ、前58年ローマの属州となります。その後東ローマ帝国から12世紀にイングランド、15世紀にベネチア、16世紀オスマン帝国と支配者が移り、 1914年英国統治領となりました。
1960年に「キプロス共和国」として英国から独立を果たしましたが、1963年島に混在していたギリシャ系住民とトルコ系住民との対立が激化、紛争状態 となります。1974年ギリシャ系住民がギリシャとの統合を求めてクーデタが勃発、それに対してトルコはトルコ系住民の保護を目的として軍を派遣、島の北 側を占拠します。1983年トルコは北部を「北キプロス・トルコ共和国」として分離独立を主張しました。

以降、島は南北に分断され現在にいたっています。北キプロスを国家とみなしているのはトルコだけで、国際社会はこれを認めていません。
南北の間には緩衝地帯(グリーンライン)があり、国連平和維持軍が常駐しています。両地域を往来するには、しかるべきクロスポイントにある検問所を通過し なければなりません。



ニコシアの考古学博物館





落とし物



北キプロス・ガズィマウサ



元大聖堂、今モスク





ガズィマウサ近くのビーチ



北キプロス・サラミス遺跡







北キプロス・レフコーシャ



元大聖堂、今モスク



レフコーシャ







南国の花

現在、ギリシャ系住民のほとんどは南キプロス、トルコ系住民は北キプロスに住んでいます。南キプロスは5.296平方キロ(全島の約60%)、人口は 875.900人(2018年)。北キプロスは3.355平方キロ(同37%)、人口361.188人(同)。これとは別にイギリス主権基地領域(254 平方キロ)、緩衝地帯(346平方キロ)が設けられています。

「南キプロス」や「北キプロス」というのは正式名称ではありませんが、ここでは便宜上南側にある「キプロス共和国」を南キプロス、北側の「北キプロス・ト ルコ共和国」を北キプロスと呼ぶことにします。

両国の首都はニコシアNicosia(レフコシアLefkosia、レフコーシャLefkoşa)。ニコシアは英語名、レフコシアがギリシャ語名、レフ コーシャはトルコ語名です。ニコシアの街中も南北に分かれています。
公用語は南キプロスはギリシャ語、北キプロスはトルコ語ですが、広く英語も使われます。通貨は南がユーロ、北はトルコリラ。南は2004年EUに加盟しま した。
かつて島は英国領だったせいか、南北ともに車は左側通行で日本人には馴染みやすく感じます。電気プラグもヨーロッパやトルコで多いC型ではなく、英国で使 われるB型です。

キプロスでは前3000年ごろ世界最古といわれる銅鉱床が発見され、以来鉱業が盛んでした。「キプロス」という名前は「銅」に由来するという説もありま す。現在南は観光業や金融業が主要産業ですが、北にはめぼしい産業がないということで、南北の経済格差は大きいようです。

南北間の情勢は流動的ですが現在は安定しており、欧米からバカンス客が多く訪れます。南はラルナカやアヤ・ナパといった海岸沿いのリゾート地が有名で、施 設も充実していて夏は大にぎわいです。北に大きなリゾート地はあまりないようですが、近年トルコでは人気のあるバカンス先になってきました。
輝く海と空の美しさは特筆すべきものです。その素晴らしさは南も北も関係ありません。島には遺跡が点在しているため、ビーチリゾートに加えて遺跡めぐりが 楽しめるのも大きな魅力となっています。〈2021.4.25.〉



  南北キプロス往来Round Trip in Cyprus
  


北キプロス・エルジャン空港



北キプロス・レフコーシャ













北側のロクマジュ検問所



境界線



南側のリドラス検問所



キプロスには前項で挙げたような複雑な歴史的背景があるため、外国人が島の南北を往来するには注意が必要です。
かつて南北間の移動には厳しい規制があり、一度北のトルコ軍占領地域に入ったらその後EU諸国(あるいは第三国)には入国できないとか、南から北へ行った 場合宿泊は認められず、その日のうちに戻ってこなければならないということが多々ありました。しかし近年は両国間の情勢がおさまっているため、だいぶ規制 が緩和されています。

わたしがキプロスを訪れたのは2019年9月。トルコのイスタンブールから北キプロスに入り数日滞在、その後南キプロスに滞在してから、再び北に戻ってト ルコに帰るというルートでしたが、とくに問題はありませんでした。
とはいえ、ちょっと緊張する場面があったのも事実です。
空路で北キプロスに入るには、トルコからしか路線がありません。イスタンブール空港のパスポートコントロールでは、わたしのパスポートと搭乗券を見た係員 が「日本国籍の人間が(北キプロスの)エルジャン空港へ行こうとしている」と、どこかへ電話連絡をしていました。
普段は乗客と気さくに世間話などをする係員が多いのですが、この時はそんな雰囲気ではありません。ややあって大丈夫だということのようで、すぐに通過する ことができました。

北キプロスの空港で入国する際には、滞在日数や目的を聞かれ、いきなりパスポートに入国印を押されてあせりました。パスポートに北キプロスの入国印がある と、その後EU圏に入れないため、外国人の場合は別の用紙にハンコが押されると聞いていたからです。
この後南キプロスはもちろん、EUに行く予定もあったので、果たして大丈夫なのかと不安になります。周囲を見ると、同じ飛行機に乗っていたトルコ人は別紙 にハンコを押してもらっているようでした。
入国審査のカウンター近くに空港警察のオフィスがあったので、中に入って事情を説明して確認すると、警察官はパスポートを眺めて問題ないと言います。空港 に詰めている警察官がそう言うなら大丈夫だろうと、とりあえず安心することにしました。
パスポートには北キプロス入国印とともに「30日」(滞在可)というようなことが手書きされていました。

北キプロス滞在の後、首都のニコシアで南キプロスに入ります。この街はちょうど真ん中に境界線があり、ドイツが東西に分断されていたころのベルリンのよう です。旧市街の城壁のなかも真っ二つに分かれています。
城壁のなかに徒歩で通過できるクロスポイントがあります。北から南へ続く1本の歩行者専用の石畳の道で、両側に連なるのはイタリア時代に建てられた美しい 建物群です。北側のクロスポイント近くにはカフェやレストラン、土産物店が多く、トルコでよく見るバザール的雰囲気濃厚。その先にロクマジュ Lokmacı検問所が見えてきます。
ロクマはトルコの伝統的なお菓子で、シロップ漬けの丸い小さなドーナツのことです。ロクマジュとは「ロクマ屋」というほどの意味なので、かつてここにロク マの店があったのかもしれません。

検問所でパスポートを見せて何事もなく通過。数メートル歩いて南側の検問所にたどりつき、再びパスポートを見せます。検問所間の道路両脇の建物は、当然の ことながらすべて閉鎖されています。
南の検問所の係員は陽気なおじさんで、ちらっとパスポートを見ると「ヨコハマか〜?」などとニコニコ上機嫌です。何でいきなりヨコハマ?ちょうどこの時ラ グビーのワールドカップが日本で開催されていたので、会場になった横浜が出てきたのかもしれません。
緊張した割にはあっさり通過することができました。両脇の建物や頭上にある日除けのシェードが北から南へ連続しているため、まっすぐ道を歩いているうちに 境界線を越えたという感じです。



リドラス通り









アジアレストラン



アジア系八百屋



インド人の青空床屋



涼し気



エルジャン空港免税店



イスタンブール行き

西側の検問所を出ると、きらびやかな繁華街のリドラスLidras通りになります。土産物店、おしゃれなカフェやレストラン、ブティックやブランド店が並 び、観光客が闊歩してにぎやかです。アジア料理店も目につき、現地に住む東南アジア系やインド系とおぼしき買い物客もたくさん歩いていました。
城壁内には東南アジアの食材や雑貨を扱うスーパーが何軒かあり、エスニックな生鮮野菜を売る八百屋なども見かけます。遠く離れた南キプロスに、こんなにも アジア系の人々が定着しているとはびっくりです。
一方、城壁の外にある公園はインド系の人々の憩いの場になっていて、青空床屋が出たり、軽食を持って家族で遊びに来た人々がくつろいでいました。
ニコシアを北から南へ縦断すると、トルコのちょっと古びた地方都市から、突然国籍不明のカラフルでモダンな街に飛び込んだような、何とも不思議な感じにな ります。地元の人々は買い物などで日常的に南北を行き来しているようでした。

帰りは来たルートを逆に戻ったわけですが、結局パスポートには北キプロスの空港で押された入国と出国の印だけで、南キプロス出入国の印はありません。その 後EUに入る時も、何も問題はありませんでした。

規制緩和によって、現在は南から入った観光客が北側を数日観光することも可能なようです。北キプロス各地を観光している外国人を多く見かけました。
また、ヨーロッパ経由で南キプロスに入るより、トルコ経由で北キプロスに入る方が航空券が安いため、そのルートでキプロスに来て南北を観光するケースも多 いということです。

現在キプロスは平和的な状況が保たれており、街を歩いていて不穏な場面に出会うことはありませんでした。とはいえ、今後いつ何が起きるかはわかりません。
トルコがEUに加盟するにはキプロス問題を解決することが前提にありますが、先行きは不明です。また近年、キプロス周辺で大規模な天然ガス田が次々と発見 されました。しかし北キプロスが領有権を主張する海域とガス田が重なっているため、関係諸国と緊張の種になっています。

南北キプロスを訪れる際には、最新の情報を確認したうえで入国されることをおすすめします。
〈2021.4.25〉



  北キプロス・ガズィマウサGazimağusa(ファマグスタ Famagusta)




要塞の街



リマソール門



旧市街



裏路地





広場への道



聖ニコラウス大聖堂







連続する飛梁



ベネチア宮



聖ペテロと聖パウロ教会





教会の扉



双子教会



よろず屋



エレガントな住宅



あふれる花

キプロス北東部のガズィマウサは北キプロス側にある港町です。ガズィマウサはトルコ語名、英語名はファマグスタ。古代にはアルシノエArsinoeと呼ば れた小さな漁村でしたが、前285年ごろプトレマイオス朝時代にフィラデルファスPhiladelphusとなり、さらにファマグスタとなりました。
島でもっとも深さのある天然港として4世紀から12世紀のビザンツ時代に栄えます。その後フランスのリュジニャンLusignan家がキプロス王となり (1192〜1489年)、これを機に13世紀にローマカトリック教徒が流入しました。交易で豊かになった商人たちは次々と教会を寄進し、当時は街中に 365もの教会があったということです。

リュジニャン時代からベネチア時代に造られた堅固な城壁は現在もきれいに姿をとどめています。城壁はニコシアのように整った円型ではなく、横700メート ル×縦1050メートルの平行四辺形に近い形で、東側の城壁のすぐ外はガズィマウサ港です。城壁の南にあるメインの出入口はリマソール門と呼ばれ、分厚い 壁と複雑な塔がいかにも中世の城塞らしい構造を見せています。

英国統治時代は城壁内の旧市街はトルコ系住民地区、城壁の外のファマグスタ南部がギリシャ系住民地区と住み分けられていました。1960年のキプロス独立 以降、ギリシャ系住民地区は海岸沿いのリゾート地としてヨーロッパ各国から多くの観光客が訪れてにぎわい、近代的なビルが林立して経済的に繁栄します。
しかし1974年のトルコ軍侵攻後この地区は閉鎖され、ギリシャ系住民は街から脱出を余儀なくされました。以来閉鎖は続き、一帯は無人のまま廃墟と化して いるということです。

一方、ガズィマウサの新市街には東地中海大学Doğu Akdeniz Üniversitesiなど大きな大学がいくつかあり、広々としたキャンパスに各国から学生が集まってきます。この一帯は都会的な学生の街として活気に あふれ、旧市街周辺とは対照的です。キプロスは南北ともに大規模な大学があり、近年は人気のある留学先のひとつになっているということでした。

旧市街の方は長くトルコ系住民が住み続けているわけですが、現在は城壁内に民家が建ち並ぶばかり、閑散としていて商店も多くありません。街の中心部に観光 客相手のカフェやレストランが数軒、小規模のホテルやペンションが数軒ある程度です。あちこちに廃墟と化したベネチア時代の教会がそびえているせいか、街 全体が時代に取り残されてひっそりとした印象を受けます。

城壁のメインゲートを入ってすぐ左側の建物はオスマン時代にメスジット(礼拝所)として使われたもので、今はツーリストインフォメーションになっていま す。このオフィスは観光案内のパンフレットやさまざまな資料、地図などがたいへん充実していて、情報収集にはお薦めです。係員の方々も丁寧にいろいろなこ とを教えてくれました。

街の中央にそびえるのは聖ニコラウス大聖堂St.Nicholas Cathedral。堂々とした美しいフランスゴシック様式の建物で1291年から1373年にかけての建造です。ここでキプロス王の戴冠式が行われてま した。オスマン帝国が1571年にファマグスタを占領した後モスクに転用され、現在はララ・ムスタファ・パシャ・ジャーミーLala Mustafa Paşa Camiiとして使われています。
堂内は絨毯が敷き詰められ、メッカの方角を表すミフラーブやミンベル(説教壇)がしつらえてあります。イスラム教寺院の付属設備と、欧州の典型的なゴシッ ク教会建築との組み合わせが不思議です。現役のモスクのため礼拝中は見学できません。せっかく美しい歴史的建造物なのに、外壁の劣化が目につくのが残念で す。
現在旧市街に残る16の大聖堂、教会、礼拝堂のうち健在なのはこの大聖堂だけで、他は史跡になっています。

広場に面してベネチア時代の宮殿があります。ファサードしか残っていませんが、キプロスにある16世紀のイタリア建築としては非常に稀有なものということ です。正面の3本の柱は、ガズィマウサ近郊のサラミス遺跡から運ばれてきました。

宮殿の南のかなり大きな建物は聖ペテロと聖パウロ教会Church of Sts.Peter and Paulです。1360年ごろの建造、ガズィマウサにあるゴシック建築の教会としてはもっともよい保存状態だといわれています。大聖堂に比べるとやや素朴 な印象ですが、時代を追うごとに改築されていきました。オスマン時代の1572年にモスクとなり、英国統治時代には倉庫や図書館として使われていたという ことです。

広場近くに双子教会Twin Churchesがあります。左側が14世紀初頭建造のテンプル騎士団教会、右が14世紀末にできた聖ヨハネ騎士団教会です。



聖アンネ教会



ネストリア派教会



カルメル会教会



聖シメオン教会



ビザンツ教会



聖ゲオルギオス教会



壁に残る装飾



ユニークな案内板



海の門



ライオン像



  城壁の上から



オセロの塔



観光地風



お土産品



  レストラン街



旧映画館



路傍のヘチマ



城外のロータリー



コンサートのポスター



新市街



ピンク色の夾竹桃

広場周辺から北西の城壁近くにネストリア派教会Nestrian Church、聖アンネ教会Church of St. Anne、カルメル会教会Carmelite Church、アルメニア教会Armenian Churchなどが並びます。いずれも14世紀の建造、すべてフェンスに囲まれて保存されており、遺跡状態になっています。
ネストリア派はコンスタンチノープル(現イスタンブール)の総司教ネストリウスの説を支持する一派で、トルコやシリアで5世紀に興りました。ローマ帝国内 では異端として迫害されましたが、6世紀ごろから中東で布教活動が盛んになり、インドや中国にまで伝わりました。中国では景教と呼ばれます。ファマグスタ のネストリア派の人々は当時もっとも裕福な階級に属する商人が多かったそうです。
カルメル会は12世紀にパレスチナで生まれた修道会で、13世紀に発祥地を離れてキプロスとシチリアに移りました。現在は世界各地に修道院があります。

旧市街南東にあるのが聖シメオン教会Church of St. Symeonです。聖シメオンは390年頃キリキア(現トルコの地中海地方)に生まれた聖人で、高さ18メートルの塔の上に4メートル四方の小屋を作り、 そこで40年以上も祈祷を続けたという伝説があります。他に例を見ない独自な修行方法から正教では登塔者シメオンSymeon Stylitesと呼ばれました。修行が行われた柱はシリアのアレッポに現存するということです。この教会は1360年代の建造、現在は何故か駐車場に なっています。

聖シメオン教会の近くに並んで建つのが、ビザンツ様式の聖ゾニ教会Church of St.Zoniと聖ニコラウス教会Church of St.Nicolaosです。他の教会跡のようにフェンスで囲まれて保存されているわけでもなく、大きな住宅の庭のような空き地にぽつねんとあります。現 在旧市街に3つ残るビザンツ教会のうちの2つで、建造は中世後期ごろ。オスマン時代を通して、何か教会以外の目的で当時周辺に住んでいた正教徒らに使われ ていたのではないかと考えられています。

城壁内東寄りにある聖ゲオルギオス・カトリック教会Church of St.George of the Latinは1302年から1307年の建造、この街ではかなり古い教会です。羊に喰らいつくライオンのレリーフやガーゴイルなど、わずかに装飾が残って います。

旧市街には他にも16世紀オスマン時代に造られたハマムや水場、教会からモスクに転用された建造物が形をとどめており、数時間で全部歩いて回ることができ ます。いずれも見学自由。
閉鎖された教会などはEUやUNDP(国連開発計画)によって保存されていますが、建物の修復をするというわけでもなく荒れるにまかせているようです。
街中に時折教会のフォルムを表す図入りの案内板が立っています。これがたいへん便利でデザイン的にも秀逸です。立て続けに似たような教会をいくつも見ると 何が何だかわからなくなるものですが、この図のおかげで教会の名前と現物が混乱することなく判別できます。

それほど広くない城壁内に、実にさまざまな宗派の教会がひしめいているのが特徴的です。ほとんどが14世紀のもので、当時のファマグスタがキリスト教の歴 史の中でどれほど重要だったかがわかります。また、この土地と小アジア(現トルコ)やシリアとの結びつきの深さも実感できるのでした。

大聖堂から東にまっすぐ進んだ先の城壁にも門があります。リマソール門が陸の門ならば、こちらは海の門、いずれも建造当時のオリジナルの姿を残していま す。海の門は閉鎖されて外部とは通じていませんが、城壁に登ってすぐ外にある港を見渡すことができます。門の前に鎮座するライオン像もベネチア時代のもの です。

さらに北に進むとオセロの塔が見えてきます。シェークスピアの『オセロ』(1602年)の舞台になったとされることから名前がつきましたが、シェークスピ アがこの地を訪れたことはありません。最初に塔ができたのはリュジニャン家統治時代で、その後拡張されました。塔の脇の門から城壁の上に登れますが、この 時は閉まっていました。

見どころがたくさんあるガズィマウサ、旧市街を歩いていると中世教会ツアーのようです。エルジャン空港からシャトルバスが走っているため、アクセスは悪く ありません。
街のバスターミナルから旧市街へ向かう時、同じバスに乗り合わせた年配の方がタクシーでわざわざ城門近くまで送ってくれました。ついでだからと言って。
城壁の外側はかなり広い車道になっていますが、横断歩道はあるのに信号が見当たりません。それなりに車は走っているので渡るのをためらっていると、次々と 停まってくれます。気忙しい都会ではなかなかそんな光景に出くわすことはありません。
また、暑いさなか見学に疲れ果てて裏道をとぼとぼ歩いていたら、玄関先のテラスで夕涼みしていた地元の人から飲み物をご馳走になったこともありました。 よっぽどヘタレて見えたのでしょうか。
トルコの人は一般に世話焼きで親切ですが、北キプロスもなかなか親切な人が多いようです。

基本的に本土より英語が通じます。街の標識や解説パネルなども必ず英語表記があるので困ることはありません。地元の人々が話すトルコ語は、本土のトルコ語 よりわかりやすく感じました。言葉の使い方に多少の違いはあるものの、とくになまっているとかイントネーションがまるで違うということもないようです。本 土よりゆっくり静かに話す人が多いせいかもしれません。北キプロスのテレビ番組を見てもそんな感じでした。

複雑な歴史が今もそのまま痕跡を残すガズィマウサですが、何となくおだやかでのんびりした雰囲気が漂っています。幾度もの激動の時代を越え、人々はこの地 で静かに生活しているという印象を受けました。〈2021.5.28.〉






サラミス



ギムナシウム



コリント様式





複合施設



ローマ浴場



床のモザイク



浴室





八角形の水風呂



スタジアムのトラック



スタジアム観客席



野外劇場







テルマエ・ロマエもうひとつ

無休・夏期8:00〜17:00・冬期8:00〜15:30
ガズィマウサの北6キロほどの海岸沿いにサラミス遺跡があります。ヘ ロドトスの『歴史』に記されている「サラミスの海戦」があった場所ではありません。こ の海戦は前480年ペルシア戦争の際、ギリシアのサラミス島付近で起きたものです。
とはいえ、キプロスのサラミス沖でも歴史に残る海戦がありました。前450年デロス同盟艦隊とアケメネス朝ペルシア艦隊との海戦、前306年ディアドコイ 戦争でプトレマイオス1世とデメトリオス1世との海戦です。何故キプロスに「サラミス」があるかというと、この街を興した伝説上の人物テウクロス Teukrosがギリシアのサラミス島出身だったからだと伝えられています。

前11世紀の青銅器時代後期に人が住んでいた痕跡があり、フェニキア人が入植していました。前877年にアッシリアの支配を受け、近東を中心にした地中海 貿易で栄えます。前400年にはキプロスの首都となり、アレクサンドロスのペルシア征服後プトレマイオス朝が、後にデメトリウスが支配し、58年ローマの 属州となります。首都は島の南西にあるパフォスPaphosに移されましたが、サラミスの重要性は変わりませんでした。
47年ごろパウロは第1回目の伝道の旅で、サラミス出身のバルナバとともにアンティオキア(現トルコのアンタクヤ)を出発、この街とパフォスを訪れていま す。
街はたびたび地震に見舞われ、とくに4世紀の地震では甚大な被害を被りました。コンスタンティヌス2世がこれを再建、以降コンスタンチア Constantiaと呼ばれるようになります。しかしやがて港が埋まって街は衰退、7世紀にアラビア人の侵略によって破壊され、人々はアルシノエ(現 ファマグスタ)に移り住みました。



柱が並ぶ道



エピファニオスの大聖堂



アゴラ



ゼウス神殿?



貯水場



カンパノペトラのバシリカ





モザイク



遺構







白く輝く地中海



正真正銘の砂浜



ビーチ

現在残されている建造物はほとんどがローマ時代のものです。
前1世紀のギムナシウム(運動場)とローマ浴場の複合施設はスケールが大きく、保存状態も優れています。広大なギムナシウムをとりまく列柱を見ると、その 規模がよくわかります。いくつもある浴室には彫像が置かれていた壁のニッチや浴槽、モザイクの床、水道管などが見られます。
複合施設の隣にあるのがスタジアムです。スタジアムのトラックを使った円形競技場もありました。今はトラックと観客席の一部しか残っていません。

その南西にある野外劇場は観客席50列、15000人収容という堂々たるもので、典型的なローマ様式の劇場です。非常にきれいに復元されており、一部大理 石の客席が見られます。オーケストラピットの中央には演劇の神ディオニュソスの祭壇がしつらえられ、ローマ皇帝の彫像が飾られていました。4世紀の大地震 で崩壊した後に再建されることはなく、建材は他の建築物に使われたということです。

4世紀の司教エピファニオスEpiphaniosのバシリカはキプロスで最大のものでしたが、7世紀にアラビア人に破壊されました。その後南側の後陣の裏 に小さな教会が建てられ、それが遺跡として残されています。

バシリカの東にアゴラ、ゼウス神殿、貯水場と並んでいますが、並んで見えるのは地図の上だけで、実際にはどこが何なのかははっきりわかりません。神殿はヘ レニズム初期に建立され、ローマ時代に再建されました。貯水場はニコシア近くのキトレアKytreaからここまで、50キロものダクトを通して運ばれた水 を溜めていた場所。水道はローマ時代から7世紀のビザンツ時代まで現役だったということです。

構内の北、海に近いところにも大きなバシリカがあります。カンパノペトラCampanopetraのバシリカは6世紀か7世紀ごろの建立、床の幾何学模様 のモザイクがきれいに残っています。

敷地を越えた南西部には広大なネクロポリスが広がり、前9世紀から初期キリスト教時代の埋葬場になっていました。王家の墓ではエジプトやレバノン製の副葬 品が発見され、当時のサラミスが地中海世界で豊かな富を築いていたことがわかります。動物の供犠なども行われていたそうです。

かなり広い遺跡です。標識や解説パネルは整備されており、道も平坦で歩き安くなっています。遺跡の常で日陰はほとんどありません。夏のキプロスは日中気温 が高く日差しが肌に突き刺さるので、訪れる際に熱中症対策は万全に。
構内にカフェがあり、見学後に一息いれることができるのは助かります。
チケットブースの係員は知識が豊富で、見学の前にいろいろなことを教えてくれました。
午前中ここから見える海はちょっと不思議です。海全体は白く輝き、水平線だけが青い線を引いたように見えます。向う側の陸地が見えるわけではありません。 地中海はトルコ語で「白い(明るい)海Akdeniz」という意味ですが、それはこうした光景に由来するそうです。遺跡とは直接関係ありませんが、印象的 な話でした。

見学途中で国連平和維持軍の兵隊さんと話をする機会がありました。スロバキアの出身で、任期を終えて国に帰る前の休暇でここに訪れたそうです。歴史や遺跡 に関心があるということで、休みのたびにキプロス中を見て回ったとか。「キプロスは太陽がいっぱいで素晴らしいけれど、いかんせん暑すぎる!」とは彼の弁 です。南北を比べると、北は遅れていて南の方が快適だと話していました。

遺跡の脇に遠浅の美しい砂浜が続きます。遺跡見学の後は海水浴をおすすめします。
周囲に民家も何もないため海はたいへんきれいで、海底の砂が波に揺られてできる砂紋がはっきり見えるほどです。海水は暖かく波はおだやかで快適。泳いでい るとメダカほどの小さな魚が寄ってきます。
訪れる人も少ない田舎のビーチという風情で、静かに海を楽しみたい向きには理想的な場所といえるでしょう。トルコ側の地中海は波が荒く砂浜も少ないので、 ここを訪れて地中海の印象がだいぶ変わったのでした。〈2021.5.28.〉




  番外編・サモス島の日々

 


トルコ、クシャダス発



小さい船です



トルコ側免税店



客室



サモス島



コンテナが入国審査の窓口



ピタゴリオ







目抜き通り



お店いろいろ









静かな路地







  爆睡中



  町はずれのビーチ

東エーゲ海に浮かぶギリシャ領サモス島は、細いサモス海峡を隔ててトルコからわずか2キロ足らずという近さです。夏場はトルコのリゾート地クシャダスから 毎日フェリーが運航され、日帰りで両国を往来することができます。
島の大きさは467平方キロ、石川県金沢市より少し大きい程度。北東部にあるサモス・タウンが島の中心で、アテネからの定期船が発着します。南東部のピタ ゴリオにも港があり、近くに国際空港もあります。全島の人口は45.050人(2020年)。

産業はおもに観光業と農業で、葡萄、柑橘類、オリーブオイル、綿花、タバコといった産物があり、マスカットから作られる甘口のワインが特産品として有名で す。
日本ではあまり馴染みのないサモス島ですが、ヨーロッパからの旅行者は多く、バカンス客が島のあちこちに点在する美しいビーチに長逗留します。エーゲ海の 他の島に比べるとリゾートの規模はかなり小さく、たいへん地味な印象です。それがかえってこの島の魅力となり、静かでゆったりした滞在が楽しめる穴場的存 在として人気があります。
「ピタゴリオとヘラ神殿」は1992年世界文化遺産に登録されました。

島の歴史は古く、紀元前11世紀にイオニア人が入植、イオニア12都市のひとつとなりました。前7世紀にはギリシアでも有数の商業都市に発展し、エジプト やコリントスなどとの地中海貿易はもちろん、黒海地方とも交易し、小アジアのミレ トスと覇を競うほどだったと伝えられます。
前6世紀の僭主ポリクラテスPolycratesの時代には文化が栄え、建築家や工芸家などを輩出しました。ピタゴラス(Pythagoras前582〜 前496)やヘレニズム時代の哲学者エピクロス(Epikouros前341〜前270)はこの島の出身です。
やがてペルシアの支配を受けますが前5世紀にデロス同盟に加盟、その後さまざまな大国に支配されます。前133年にローマ帝国の属州となり、ビザンツ帝 国、ジェノバ支配を経て、1475年オスマン帝国領。最終的にギリシャ領となったのは1923年になってからでした。

2018年、トルコのクシャダスからサモス島へ行ってみました。この時はフェリーでピタゴリオまで約1時間ほど。常に陸地が見える航路でしたが、狭い海峡 を通るせいか波がかなり高いように感じます。



  夕暮れ時



  ピタゴラスのモニュメント



にぎやかな夜











トルコへ戻る船



  島付近を航行中の大型客船



  エーゲ海の日没

2011年のシリア内戦勃発以降、トルコを経由して多くの難民がギリシャの島々に逃れています。サモス島にも難民が殺到し、2016年にはサモス・タウン にある旧軍事施設が難民キャンプとなりました。当初650人だった難民は2019年には8000人に膨れ上がり、施設に入り切れなかった人々がキャンプ周 辺にあふれたそうです。
現在はシリア、アフガニスタンを中心にコンゴ、イラク、パレスティナなどからの難民約4000人が厳しい環境の中で生活しているということでした。

2020年は新型コロナウイルスが世界中に広がりました。観光客の途絶えた島の経済や、人々の健康状態も心配です。加えて同年10月30日にはトルコのイ ズミール沖でマグニチュード7.0という大地震が発生、震源地はサモス島北部から至近距離でした。この地震でイズミールでは115人が亡くなり、サモス島 では10代の2人が犠牲となっています。
かつてのように静かでおだやかな日々が、この島ばかりではなく、再び世界に戻ってくることを願わずにいられません。〈2020.12.27.〉 



  ピタゴリオ Pythagorio
 



ピタゴリオ港







カラフルなお店









「ワインのセレクトの仕方」



咲き乱れる花



ピタゴラスのモニュメント



水は冷たい

ピタゴリオはサモスの古代都市があった町です。人工の港としては地中海最古の港を有し、前6世紀後半には強力な貿易都市として栄えました。かつてはティガ ニTiganiと呼ばれていましたが、この町出身の数学者ピタゴラスにちなんで1955年にピタゴリオとなりました。

現在はこぢんまりとした静かな保養地として人気を集めていますが、観光客が訪れるようになったのは1980年代ごろからということです。さすがに海沿いは レストランやカフェが並んでリゾート地らしくにぎわうものの、目抜き通りから一歩入るとひっそりとした路地が続きます。人口は7.996人(2011 年)。

いわゆる観光ホテルは見当たらず、長期滞在用の家具付きワンルームや小さなペンションが港周辺にたくさんあります。こういった宿泊施設のほとんどは冬場に は閉じてしまいます。町中に充実したスーパーが数軒あり、キチネット付きの部屋で自炊を楽しむ滞在者も多いようです。

通りにはアーティスティックなギャラリーやブティックが並び、他では見られないようなアクセサリーや装飾品など、見ていて退屈しません。大手ブランド店な どはなく、地元の人々がセレクトした品や手作りの作品を並べていて好ましく感じられます。土産物店もカラフルでしゃれたディスプレイが素敵です。

通りの奥にある土産物店にはEn Arche oinologosという看板が出ています。何だか不思議な名前だと思って店のアントニオさんにたずねると、これは新約聖書のヨハネによる福音書冒頭の 「初めに言葉ありき」というギリシャ語をもじって、「ワインのセレクトの仕方」といったような意味なのだそうです。アントニオさんは以前ワイン関係の仕事 をしていたとかで、ダジャレみたいなものだけど、と笑っていました。
この店はお土産用のマグネットやポストカードから、オーガニックのオリーブオイル製品、アクセサリーやギフトなどいろいろな物がそろっていて、なかなかに ぎわっています。ワインは置いてないようでしたが。
またあるブティックで聞いたところによると、北ヨーロッパやロシアからの観光客に合わせて、靴や洋服などはサイズの大きいものをそろえているそうです。た またまハンドメイドの革のサンダルで日本人向けサイズがあり、料金も手頃だったのでお土産に買いました。
観光地は得てして物価が高めですが、ここはそんなこともありません。緑ゆたかな通りを散歩しながら、あれこれ物色するのも楽しみのひとつです。

港にあるピタゴラスのモニュメントが印象的でした。大きな直角三角形の頂点に向かって右手を伸ばすピタゴラス。左手に三角定規を持っています。三平方の定 理をイメージさせるモダンなモニュメントです。観光地にあるモニュメントというと、いかにも取ってつけたようなやぼったいものが多いですが、このピタゴラ スは洗練された芸術性を感じさせます。
もっとも、この像のモティーフとなっている三平方の定理は、ピタゴラス個人が発見したのではなく、彼が後にイオニア海沿岸の町で興したピタゴラス教団によ るものだとも言われています。

町の西側にゆるやかな弧を描く海岸があり、海水浴ができます。町からややはずれているため周辺に民家も少なく、水がとてもきれいです。波も静かで絶好の ビーチですが、実際に入ってみると午前中だったせいかとても冷たく感じます。ご近所のお母さんたち数人が井戸端会議ならぬ海中会議をしていて、数十分も肩 まで水に浸かったままおしゃべりに興じていますが、とてもそんなに長く入っていられません。パワフルなお母さんたちに脱帽だったのでした。



要塞と教会



リュクルゴス・ロゴテティス要塞





城壁



変容教会



バシリカ跡





フラグメント









遺跡猫



パナギア・スピリアニス修道院





要塞とピタゴリオの町



地下の洞窟







礼拝所





教会構内



夏の花

港の南西にある断崖絶壁の高台に、リュクルゴス・ロゴテティスLykourgos Logothetisの要塞があります。月曜日休 館・9:00〜日没まで。
ロゴテティス(1772〜1850)はギリシャ独立戦争勃発後サモス島の指導者に選出され、サモスの軍政システムを整えた人物です。この要塞は対オスマン 帝国の拠点として、1824年から3年をかけて建設されました。
堅牢な要塞は島で最も古いアクロポリスがあったとされる場所にあり、周辺の考古学的遺構を利用して造られたということです。すぐ隣にはキリスト教初期のバ シリカの遺構や、1831年に建立された「救世主キリストの変容教会 Church of the Transfiguration of Christ the Savior」があります。
バシリカははっきり構造がわかるように残されていました。周囲に散らばる柱のフラグメントは、さらに古い時代のものと思われます。要塞と教会と遺跡がすべ て一緒になっていて、歴史を深く感じさせる光景です。
ロドス島コス島な ど、トルコに近いギリシャの島はほとんどがオスマン帝国領だったため、町を歩くと必ずオスマン時代の建物が残っているものです。しかし ピタゴリオの町に当時の名残は見当たりません。徹底抗戦の最前線だったからでしょうか。

海沿いにある要塞のちょうど反対側、町の北西の丘の上にそびえるのがパナギア・スピリアニスPanagia Spilianis修道院です。無休、9:00〜15:00。
この修道院の地下に泉が湧く洞窟があり、その中の礼拝堂にお参りすることができます。教会内の販売所では、イコンなどの他に瓶入りの聖水も売っていまし た。ここから眺めるピタゴリオの町とエーゲ海の景色は素晴らしく、それを目当てに多くの人が訪れます。



暮れゆく港





夜のにぎわい











レストラン満席

夕暮れが近づくにつれ、町は活気づいてきます。暑い日中はビーチや部屋で静かに過ごし、涼しくなってから外に繰り出すのはどのリゾート地も同じですが、こ こは町が小さいせいかたいへん家庭的で親密な雰囲気です。治安がよく、暗くなっても安心して歩けます。
緑あふれるピタゴリオ。のんびりリラックスして心地よく滞在できる町です。ぜひまた訪れたい場所がひとつ増えてしまいました。〈2020.12.27.〉  







モダニズム建築



展示室





クーロス



コレー



黒絵、ミダス王とサテュロス



黒絵、オリュンポスの神々



古層のアルテミス



羊の角があるゼウス



新しいアルテミス



アフロディテ



トラヤヌス



テラコッタ製



月曜日・祝日休館・9:00〜14:00
町の目抜き通りの先にピタゴリオ考古学博物館があります。紀元前4000年の新石器時代から後7世紀のビザンツ時代まで、この町や近郊の発掘物が展示され ています。
こぢんまりした建物はピロティがあり、直線を強調したモダニズム建築です。2010年改築。
建物の外側だけではなく展示室もたいへんモダンで、自然光を多く採り入れる構造になっています。大理石の彫像やフラグメントなど、光に当たっても劣化しな い展示物が多い博物館だから可能なことです。すっきりした内装に古代の展示品が映えます。

クーロスは直立青年裸像、聖域の奉納神像または墓の上に置く墓像として、前7世紀から前5世紀の間に多く作られました。これは前560年のもので、左膝の 上にアポロンに関連する記述が彫りつけられています。対するコレーは着衣の少女像で、クーロスとほぼ同じ時代に奉納神像として作られました。この像はアテ ネに捧げられたもの。コレーはゼウスとデメテルの娘、ペルセポネの別称ですが、一般に「娘」という意味もあるようです。
黒絵のポットにはミダス王とサテュロス(またはシレノス)、ミノタウロスと戦うテセウスが描かれています。前540年から前530年ごろ。
同じ黒絵の壺は前550年から前525年ごろのもので、デメテルやポセイドンなどオリュンポス十二神の姿が見えます。神々の衣装の柄が細かく描かれている ところに独創性を感じます。

一連の大理石像やレリーフは、小ぶりながらも保存状態のよいものが多く、見事なコレクションです。
前1世紀のアルテミスは豊穣多産を表す古層の姿をしており、トルコのエーゲ海地方エフェソスで信仰された地母神を思わせるタイプです。女神の標章 であるラ イオン、パンサー、蜂などが彫られています。
同じ年代のゼウスのレリーフは頭に羊の角があり、足元にも羊がいます。これはエジプトのアモン神とギリシアのゼウスが混淆した姿だということです。エジプ トの神々は前5世紀ごろからギリシア世界に入ってきていましたが、アレキサンドロスの遠征後に広く一般に知られるようになりました。
2世紀のアルテミスは先ほどのアルテミスとは打って変わり、現在に広く伝わる姿です。大きく踏み込んだ足やその装束、足元にいる猟犬などから、狩猟を象徴 する女神だということがよくわかります。これはヘレニズム時代の模作。
ゼウスのレリーフがそうであったように、同じ名前の神でも時代や地域によって変容していく様子に興味深いものがあります。
サンダルを脱ぐアフロディテはヘレニズムからローマ時代の作で、脇にいるのは巨大な一物を持つプリアポス。プリアポスはアナトリア由来の豊穣神、男性の生 殖力の神で、アフロディテの子供です。父親はディオニュソス、ヘルメス、ゼウスと諸説あってはっきりしません。プリアポスもアレキサンドロスの遠征後にギ リシア世界に伝わりました。
ローマ皇帝トラヤヌスの大理石像は2.71メートルという堂々たる大きさです。

2体並ぶテラコッタ像は前550年から500年という古さで、エキゾチックな顔立ちをしています。
もう一方のテラコッタ像はお腹が頭になっているようなユニークなスタイルで、地母神デメテルの聖域から発掘されました。前3世紀から前2世紀のもの。



遺跡の上の博物館



広がる遺跡



地図



神殿



モザイク



水道管



柱のフラグメント



遺跡の花

収蔵品が自然に近い状態で明るく見えるのはありがたいことですが、外光が保護ケースに反射して写真がなかなかうまく撮れません。アクリルを多用した解説パ ネルも充実した内容で、洒落た博物館全体の雰囲気にぴったりです。とはいえ、こちらも影が映り込んで写真にはちょっと不向きでした。博物館の展示コンセプ トのむずかしいところかもしれません。

博物館恒例の屋外展示も見学しようと庭に出て茫然としました。博物館裏手のかなり遠くの方まで、遺跡が広がっています。前7世紀の神殿や祭壇、ローマ時代 のアゴラ、ストア、浴場や貯水池などの遺構です。この博物館は古代都市の真上に建っているのでした。
床を飾っていたモザイクや浴場の水道管などがきれいに残っていて、なかなか見応えがあります。遺跡内は通れる道が限られているため、奥の方まで歩いていけ ないのがちょっと残念でした。〈2021.1.28.〉 



  ピタゴリオ考古学エリア Pythagorio Archaeological Sites
 



アフロディテ神殿





神殿向かいのカフェ



山の中腹にある邸宅





邸宅近くの遺構



野外劇場



床下



客席後部



海岸近くの遺構



道?



正体不明の遺構



ピタゴリオは考古学博物館が遺跡の上に建っているばかりではありません。町のいたるところに遺跡が顔を出しています。町なかに点在する遺跡と、町から6キ ロほど離れたところにあるヘラ神殿を併せて、「サモス島のピタゴリオとヘラ神殿」という名目で1992年世界文化遺産に登録されました。

町の中心部、島の各方面へ行くバス停脇にあるのがアフロディテ神殿です。これは民家の隙間のような場所にあり、フェンスに囲まれて中に入ることはできませ ん。フェンスの網の隙間にカメラのレンズを差し込んで、何とか写真に収めます。すぐ向かいのカフェはいつもにぎわっています。
町の北側、パナギア・スピリアニス修道院に行く途中の坂道脇に、ヘレニズム時代の邸宅跡が見えます。この 邸宅からモザイクの床が発見されたということで す。裕福な住民の別荘だったのかもしれません。周囲にも何かの遺構が垣間見えます。
さらに丘を登っていくと2世紀の野外劇場があります。木材でオーケストラピットや舞台、観客席が整えられていて、現在は催し物会場として使われているよう です。遺跡としてはかなり破損されており、修復をあきらめて遺跡の上に新しい劇場を乗せたという感じがします。ギリシア様式の劇場で、裏山の傾斜からする ともう少し高いところまで客席があったのではないかと思います。数名の観光客と、犬を連れて散歩に来ているご近所さんがいました。

山の中腹から町を望むと、海岸近くに遺跡とおぼしき建造物が密集しているのを発見。それをめがけて、道があるようなないような斜面を一気に下ります。目指 した建築群は金網に囲まれていますが看板はなく、何なのかわかりません。ローマ時代の邸宅でしょうか。



ビーチ



スポーツセンター



ホテル敷地内





スタジアム跡



左側の帯が城壁







アルテミス聖域



キリスト教徒の墓地



考古学公園







ニンフの聖域





民家の裏庭のアゴラ







涼し気な花



花の向こうは考古学博物館

そこから海岸に出ると、リゾートホテルの敷地内にも遺跡のフラグメントが散乱しています。このあたりは一大スポーツセンターがあった場所で、古代ギリシア 世界で最大級のひとつに入るというスタジアム(トラックの長さ約200メートル、幅約50メートル)、ギムナジウム、運動場、ローマ浴場がそろっていまし た。サモス国際空港はすぐ近くです。
ここから北側にある山を見上げると、前6世紀の僭主時代に築かれた都市の城壁がはっきりわかります。かつては全長6430メートル、35の砦と12の門が あったということです。

さらに西に進むと池があり、そのほとりはアルテミスの聖域となります。夏草におおわれ、かろうじて遺跡があるとわかる程度です。神殿や聖域は水のある場所 に多く見られるものでした。
近くにキリスト教徒の墓地もあります。キリスト教がこの島に伝わったのは4世紀ごろなので、それ以降のものと思われます。
道路脇に、柱などの発掘品がきれいに並んで置かれていました。修復現場というわけではなく、フラグメントをデザインして並べ、ちょっとした「考古学公園」 に仕立てたという感じです。列柱状の柱の足元は、何かの建造物の土台か床のように見えます。

このあたりから町に戻る途中にあるのが、フェンスに囲まれたニンフの聖域です。ニンフはニュンペとも呼ばれる山や泉、川などに宿る精霊で、古くは山中の泉 が湧く洞窟などに祀られていました。後には水をたたえた水槽に神像などを飾ったドーム付きの建物、ニンファエウムが街中に造られるようになります。ここは かなりの規模の遺構なので、ローマ時代のニンファエウムのようです。

最初のアフロディテ神殿近くまで戻ると民家が増えてきます。どなたかのお宅の裏庭(?)にアゴラと書かれた看板があったので、ちょっと失礼して見学するこ とにしました。規模は大きくあっちの方まで広がっていますが復元されておらず、大理石の床や壁の一部が地面から顔を出しているばかりです。このアゴラには 陶器や金属製品の工房などもありました。
ちょうどお昼を少し回ったころで、民家のテラスで一杯やりながら昼食を楽しむご一家がこちらを見ています。不審者に思われないよう手を振ったら、楽しそう に手を振り返してくれてちょっと安心します。暑い夏の午後、自宅のテラスで遺跡を眺めながら一杯なんてうらやましい限り。とはいえ、実際に住むとなると旅 行者がうろうろ入り込んできたり、風が吹けば砂ぼこりも多そうで、それなりのご苦労があるのかもしれませんが。

遺跡の点在具合を見ると、ピタゴリオはかなり大きな都市だったことがわかります。現在の町の南西部に古代の港があり、そのエリアを中心に遺跡が残されてい るようです。町の東側はすでに家が建っていて、発掘不可能だったという事情があるのかもしれません。他には町の北西に、前6世紀にできた水道トンネル(エ フパリノスのトンネル)があります。

ほとんどの場所にいちおう看板はあるものの、解説その他のパネルはいっさいなし。後でネットで調べてもよくわからないものが多く、詳細不明の遺跡探訪に なってしまいました。
いくつかはフェンスに囲まれて入れませんでしたが、他は囲いもなく、民家の裏や道端の空き地、あるいは海岸沿いなどにほったらかしにされているようです。 せっかくの世界遺産なのに、その脱力ぶりに驚かされます。
そんなわけでいずれも無人、24時間見学自由。大らかなギリシャなのでした。〈2021.1.28.〉  



  



ヘラ神殿



まっすぐ伸びる「聖なる道」



沿道の彫像(レプリカ)



沿道



祭壇



  遺構



前6世紀、円型モニュメント



遺構






月曜日、祝日休場・夏期8:00〜15:00、冬期9:00〜16:00(休場日、開場時間は要確認)
ピタゴリオから西へ6キロほどの海岸近くにヘラ神殿があります。町に点在する遺跡群とともに1992年世界文化遺産に登録された神殿です。ここは人々が生 活する場所ではなく、祭祀に関係する建造物だけがある宗教的な中心地でした。

サモス島はギリシア神話で女神として最高位のヘラが誕生した地とされ、古くからヘラ信仰が盛んでした。ヘラは結婚や出産を守護する女神で、夫はオリュンポ ス十二神の主神ゼウスです。
ヘラは嫉妬深い女神といわれますが、他の女神や人間の女性と浮気三昧のゼウスが夫であれば、嫉妬深くなるのも当然かもしれません。神話では、ゼウスの浮気 相手やその子どもに対して、ヘラが残酷な罰を科したエピソードが多く見られます。情け容赦なく恐ろしい一面を持つヘラですが、自身は貞淑だったため、家庭 に入った婦人の守護神でもありました。

この場所には前8世紀ごろすでに集落があったとされています。
最初に神殿が建てられたのは前750年ごろ。幅6.5メートル、奥行きは約33メートルという神殿で、当初は日干しレンガで作られていました。サモスの町 に通ずる「聖なる道」や、神殿南側のストアなどもこの時期に造られます。聖なる道の沿道には、さまざまな彫像が置かれていました。神殿は前670年ごろ、 おそらく水害で流されてしまったということです。
そのすぐ後に再建された神殿はさらに大きいもので、幅約12メートル、奥行き約38メートル。これは古代ギリシア世界で初めて列柱廊がある神殿でした。

さらに前570年、神殿は幅52.5メートル、奥行き105メートルと大幅に拡張され、ギリシア初の二重周柱式のイオニア式神殿となります。ロイコス RhoikosとテオドロスTheodorosの設計による記念碑的な神殿は、古代ギリシアの神殿や公共建築の建造技術に大きな影響を与えました。この時 期にモニュメンタルな祭壇やロイコスの名を付した神殿、南北の建造物なども建てられます。
祭壇もまた縦36.5メートル、横16.5メートルという大きなもので、上部は緑に覆われ、供犠を置く部分は耐火性の高い蛇紋岩が使われていました。これ は後1世紀に大理石で改築されることになります。現在は大理石のフラグメントを積み上げたものが置かれています。

神殿が前540年に戦火で失われた後、ポリクラテス時代の前535年、幅約55メートル、奥行き約109メートル、高さ20メートル、155本の柱がある 壮大な神殿が建てられます。しかしこれは250年かけて建設が続いたものの、未完のまま終わりました。神像は別の神殿に移されましたが、奉納品などはその ままここに保管されていました。
ローマ時代の392年に異教禁止令が発令されたことで、神殿はヘラ信仰の中心地としての役割を終えます。5世紀にはキリスト教の聖堂が建てられ、その後一 帯は採石場になったということです。



神殿の柱



ストア



キリスト教のバジリカ



パネルの地図



エーゲ海





近くの村







冷え冷え



炎天下

現在の神殿は、当時の半分の高さの柱が一本そびえ立つばかりです。
聖域は平らで開けた場所にあり、かなり広さがあります。広々とした全体を見渡すことができるので、全貌がつかみやすい遺跡です。奥の方に一本だけぽつりと 見える神殿の柱が目安になります。解説のパネルもきちんと整備され、たいへんわかりやすくなっていて申し分ありません。

ここを訪れたのは閉場までまだ十分時間がある時でしたが、入口でもう閉めるから入場できないと告げられてびっくり仰天。しばし押し問答をして何とか入れて もらったものの、30分ほどで係員が追いかけてきて閉め出されてしまいました。せっかく遠路はるばるたずねて来たのに、あまりいい気分はしません。
どうもギリシャでは時々こういうことがあるようなので、開場時間をその都度確認する必要があります。もっとも、休場日や時間変更は必ずしもネットなどに反 映されるわけではなく、結局現場にたどり着いてみて初めてわかる、という場合がほとんどですが。実際に後でネットで調べてみると、この遺跡の開場情報は実 に千差万別のことが書かれていました。

閉まった門の外で未練がましく写真を撮っていると、係員が「暑いからバイクで近くの村まで乗せて行ってあげよう」などと言います。人を追い出しておきなが ら、親切なのか不親切なのかよくわかりません。確かに日差しが最強の時間帯だったので、それはそれでたいへんありがたく、おおいに助かりました。

海岸沿いにある村は、海水浴客がぽつぽつ見える程度で静まり返っています。みなさん昼食後の午睡を楽しんでいるのでしょう。先ほどの係員も自宅に戻ってヤ レヤレと思っているかもしれません。

まぶしく輝くエーゲ海を眺めながら冷たいレモネードなどを頂いていると、しかしまあ、たいがいのことはどうでもいいような心持ちになってくるのでした。 〈2021.2.27.〉  






サモス・タウン



考古学博物館旧館



新館



新館展示室



巨大クーロス







ゲネレオス群像
]




お嬢さん



鳥を胸に抱くコレー、前540年

月曜日休館・9:00〜16:00(休館日・開館時間は要確認)
ピタゴリオから北東へ約11キロにあるのが、島の中心となるサモス・タウンです。ここの港には長距離の定期便やクルーズ船が発着します。こぢんまりとした ピタゴリオから訪れると、人がたくさんいて立派な「街」という雰囲気です。街の南寄りの海岸沿いから少し入ったところにサモス考古学博物館があります。

博物館は新旧二棟の建物があり、いずれもおもにヘラ神殿の発掘品を収蔵しています。
旧館には陶器の他、ブロンズ、象牙、木、粘土などさまざまな素材で造られた小品のコレクション、新館にはアルカイク期の大型の彫像などが展示されていま す。
ネオクラシック様式の美しい旧館は1912年建造。裕福な商人から寄贈されたものです。モダン建築の新館は1987年に建てられました。

新館にあるクーロスが圧倒的です。前580年から560年ごろのもので、その高さ5.5メートル。ギリシャ最大の大きさです。ヘラ神殿の聖なる道の北の角 に奉納されていました。
ヘラ神殿はアテネのパルテノン神殿をはるかに越える規模でしたが、クーロスも尋常な大きさではありません。島で産出される灰色の筋目が入った大理石製で、 像の表面はかつて赤茶色に彩色されていました。

こんな大きな彫像がひとつの大理石から造られたというのが驚異的です。さらにそれが、1980年になってから発掘されたというのも奇跡のように感じられま す(頭部は1984年発掘)。
間近で見ると、なめらかな肌、膝や大腿の筋肉がリアルです。左の大腿には奉納者の名前が彫られています。こうした巨大クーロスが造られたのはこの時期だけ で、やがて小型化されていったということです。
彫刻家ゲネレオスによる「ゲネレオス群像Geneleos Group」は前560年から540年のもので、これも聖なる道の脇に奉納されていました。もともとは台座に男性像2体、女性像4体が並んでおり、当時の 裕福な一族の「家族の肖像」と考えられています。

右端でクッションに横たわっているのが父親、大きく破損していますが左端の椅子に母親、中央に立つのが2人の娘です。それぞれの名前も残されており、母親 はフィレイアPhileia、娘はオルニテOrnitheとフィリッペPhilippe、父親は下半分のみがアルケスarchesとわかっています。他の 1体は像そのものが不明で、たぶん男の子だったと考えられています。
父親が奉納者で、欠損している左手には葡萄酒の入った器を持っていたのかもしれません。横たわって飲食をするというのは、当時の饗宴スタイルでした。娘た ちは薄い衣装のドレープを右手でつかんでいるという繊細な描写です。

古代ギリシア世界では、一般に巫女などを除く女性の社会的地位は低いものでした。女神像やコレーなどの奉納像はありましたが、家庭の婦人像はほとんど見ら れません。ましてや女性(妻)が男性(夫)と同列に並んでいるのはたいへんめずらしいことです。しかもその名前まで記録されていたわけです。
これには、ヘラが既婚女性の守護神であることが関係しているのではないか、という説があります。こうしたことから、ゲネレオス群像はアルカイク期における 非常に貴重な作品と考えられてきたのでした。



旧館



展示室



テラコッタ



ライムストーン、前7世紀



陶製の壺、前7世紀



彩色の残るテラコッタ、前6世紀



異国風





グリフィン







サモスの空



サモス・タウンの街並み







ギリシャ正教会



聖具店



食料品店



映画館?

旧館には、一昔前の博物館にあったような展示ケースに小さな発掘品がひしめいています。人型の造形は、素朴なものから写実的なものまでさまざまです。一部 に彩色が残っているテラコッタ像もありました。異国を思わせる顔立ちが多く、アルカイク期の特徴が感じられます。

グリフィン(グリュプス)は頭部と翼、前肢が鷲で、獅子の胴と後脚を持つ伝説上の霊獣です。さまざまな神話に登場しますがその起源はオリエントにあり、ギ リシア神話では北方の国に住み、黄金を守ると伝えられます。
グリフィンの装飾品は前8世紀ごろヒッタイトからもたらされ、ギリシア各地の聖域に奉納されるようになりました。青銅製、または鉄製の三脚ポットの上にグ リフィンの頭部が6つ並んでいます。前7世紀には3メートルの高さになる三脚ポットがあったそうです。
ここで見られる膨大な数のグリフィンは、ひとつひとつの表情が異なっていて個性豊かです。こうした奉納品は、前6世紀ごろからクーロスのような彫像に取っ て代わられました。

大きなものから小さなものまで猛烈な数のコレクションで、見応えのある博物館です。アルカイク期の出土品がこれだけ充実している博物館はそれほど多くあり ません。ヘラ神殿の重要性が伝わってくるようです。解説パネルも丁寧で見やすくなっています。時間にゆとりを持って、ゆっくり見学したい博物館です。 〈2021.3.25.〉



サ モスの美味 Taste of Samos



裏通りのレストラン街



アイスクリーム屋





レストランのテラス席



地ワイン



タラモサラダ



グリルドポーク



牛の頬肉ワイン煮



帰省中

ピタゴリオの港周辺に軒を連ねているカフェやレストランは、いかにも観光客向けという趣きです。日中のカフェは海を眺めながらまったりする人でいっぱい。 夜のレストラン街はどこもここ一番の混みようです。ちょっと路地に入ると地元の人でにぎわうレストランもあり、概してこういう店の方がおいしくて料金も リーズナブルに感じられます。目抜き通りにはテイクアウトの店やアイスクリーム屋、軽食を出すカフェなどがあり、食べるには困りません。

裏の方にある小さなレストランに入って、グリルしたポークやタラモサラダ、牛の頬肉のワイン煮といった料理をいただきました。小さな店構えの割にメニュー は豊富です。テラス席は気持ちよく、込み合う前の時間帯はゆったり快適に過ごせます。料理はどれもていねいに作られ、絶妙な味わいです。ワインはもちろん 地元産、デカンタで頼むとアルミ製のちろりのような容器に入れて供されます。軽くフレッシュな飲み口が身上です。

隣のテーブルで楽しそうに食事をしているグループから声をかけられました。ご主人はピタゴリオ出身で、20数年ぶりに帰省したということです。奥さんはサ モス島の北にあるレスボス島出身、ふたりともアテネで知り合ってずっとアテネに住んでいるとか。
ご主人がいたころのピタゴリオは、本当に小さな村で何もなかったと言います。今はすっかり様子が変わってしまったとびっくりしていました。
牛の頬肉のワイン煮は奥さんから強くすすめられた一品です。別の日にこれを食べたさに行ってみました。フランス料理店で出てくるような強い味つけではな く、さっぱりとしたワインソースでほろほろと柔らかく煮こんであります。付け合わせのリゾットはぷちぷちと楽しい歯ごたえで、いいアクセントです。帰省中 のみなさんのおかげで、バランスの取れた魅力的な一皿を堪能することができました。



ギロス屋



テイクアウトのギロス



食料品店



スープとサンドイッチ



フェタチーズのパイ



テラスで軽食



ほうれん草のパイ



魚屋で物色中



魚屋の猫



毎度おなじみギリシャコーヒー

わたしが泊まったホテルは朝食なし。ピタゴリオにはそういう宿泊施設が多くあります。その代わり部屋にキチネットがついていたので、スーパーで仕入れた食 材で朝食やお昼用のお弁当を作ったり、テイクアウトの料理を温め直したりできてなかなか便利です。
目抜き通りのギロス屋でギロスのパックを買ってきて、キチネットでさっと作ったサラダと一緒に部屋のテラスでいただきます。もちろん、地ワインと一緒に。
ギロスはドネルケバブのギリシャ版。トルコのドネルケバブは牛とチキンしかありませんが、ギリシャではポークもあります。総じてトルコのものより塩気や 脂、スパイスが控え目で、ギリシャ版の方が日本人の口に合うような気がします。一人前はかなりのボリュームです。
ワインはスーパーや食料品店に手ごろな値段のものがたくさん並んでいました。どれがいいのかわからないので店のおじさんにたずねると、しばし考えて2種類 すすめてくれます。どちらにしようか悩んでいたら、おじさん「両方買えば?」などとなかなかご商売が上手です。

一般に島は本土より生鮮食品が高めですが、ピタゴリオではとくに生野菜が品薄なようで、レタスやきゅうり、トマトを買うのに何軒かスーパーを回るはめにな りました。日中はあちこちの見学に忙しく、あらかた品物が売れてしまった夕方にしか買い物ができなかったせいかもしれません。
レストランでも生野菜のサラダは意外と値が張り、その割に中に入っている野菜の種類がやや貧弱という印象がなきにしもあらず。

ギリシャではどこでも必ずパイを売っていて、テイクアウトで手軽に楽しめます。甘いお菓子系のものではなく、ソーセージやチーズ、ほうれん草などが入った 塩味系です。種類が豊富で軽食にぴったり。お店によって形やパイ皮の具合もさまざま、どれもサクサクパリパリの皮が美味なのでした。 〈2021.3.25.〉








  番外編・ロドス島の日々



  朝のマルマリス港



  船着き場へ向かう



  マルマリス・ロドス間のフェリー



  パスポートコントロール



  免税店



  船内



  ロドス到着



  海に面した城壁





  ロドス・タウン旧市街



  歴史的建造物の商店街

ギリシャのドデカニサ諸島にあるロドス島は、トルコのマルマリスから南 へ約47キロの位置にあります。マルマリスからフェリーが運航しており、夏場は毎日 1往復、1時間ほどの船旅です。2017年のボドルムコス島に続いて、2018年にマルマリスからロドス島へ渡ってみました。

マルマリスを出発する時、パスポートコントロールの窓口に大きな注意書きが目に留まりました。「パスポートに『北キプロス・トルコ共和国』のスタンプが押 されている場合には、コス島やロドス島といったギリシャ領には入国できません」という内容です。
北キプロスはキプロス島北部の地域を指しますが、ここを独立した国と認めているのはトルコだけで、国際社会では国として認められていません。1955年の ギリシャ系住民とトルコ系住民との対立に起因するキプロス紛争の関係から、現在もこうした措置が取られています。

ロドス島は長さ約80キロ、最大幅34キロという大きさで、ドデカニサ諸島のなかで一番大きい島です。人口は115.290人(2011年)。
ギリシャでも有数の観光地とあって、夏は島のあちこちに点在する美しいビーチめざしてヨーロッパから観光客が殺到します。おもな産業は観光の他に農業、牧 畜業、漁業があり、島のワインは名産となっています。

島の歴史は古く、新石器時代から人が住んでいた痕跡がわずかに残されているそうです。紀元前10世紀にドーリス人が移住し、イアリソス、カメイロス、リン ドスといった都市国家を建設しました。前408年に3つの都市国家を統合して、島の北端に新しい都市国家ロドスを興します。これが現在島の中心となってい るロドス・タウンです。
島は前357年にハリカルナッソスマウソロスに征服され前340年アケメネス朝の支配に入りますが、前 332年これをアレクサンドロス大王が解放しまし た。ヘレニズム時代には地中海貿易の中心地として繁栄し、島の貨幣が地中海全域で流通するほどになりました。前167年ローマ帝国に入り、さらにビザンツ 帝国が支配します。1291年ヨハネ騎士団領、1522年オスマン帝国領、1912年イタリア領となった後、1948年ギリシャに編入され現在に至ってい ます。



  カフェ



  観光バス?



  ギリシャ正教聖具店



  オスマン時代のジャーミー



  オスマン式家屋



  オスマン時代の水場



  野朝顔



  アクセサリー店のウインドウ



新市街のビーチ



入り江



エーゲ海の日没

マルマリスを出航した船は、ロドス・タウンの港に到着します。街の人口は49.500人(2011年)。船を降りて波止場からぶらぶらと歩いて行くと、城 壁に囲まれた旧市街に入ります。狭い通りに商店やレストラン、カフェが並び、観光客でにぎやかです。中世の城塞とオスマン時代の建造物が混在する様子に独 特な雰囲気があります。
城壁を抜けると新市街。近代的なホテルが立ち並び、その向こうに美しいビーチが続きます。街中はもちろん、少し離れるとギリシア・ローマ時代の遺跡も多く 残されています。歴史探訪と海辺のリゾートを同時に楽しめるのがロドス島の大きな魅力となっていると言えるでしょう。〈2019.7.30.〉 


  ロドス・タウンRhodes Town



要塞都市



城内へ至る道



旧市街







どこを見ても石造り



騎士団長の宮殿





壮大な空間







内部装飾



ラオコーン



観光マップ

ロドス島の中心、ロドス・タウンは中世の色濃く残る街です。旧市街は港に沿ってぐるりと一周を堅固な城壁で囲まれ、要所要所にある城門から外に出られるよ うになっています。東西約840メートル、南北約720メートルに広がる旧市街は、ヨーロッパに残る中世の要塞都市としては大きな部類に入るものでしょ う。中世の街は通常道幅が狭く曲がりくねっていますが、ここは道が比較的まっすぐであまり道に迷うことがありません。この旧市街は1988年「ロドス島の 中世都市」として世界遺産に登録されました。

ロドス島の中枢として、街の北西に「騎士団長の宮殿」がどっしりと構えています。宮殿というよりも要塞です。
ビザンツ帝国時代の7世紀に軍事拠点として建造され、聖ヨハネ騎士団が島を占有した後の1307年、騎士団長の邸宅件騎士団領の行政府として拡張されまし た。オスマン時代には監獄として使われていましたが、19世紀に弾薬庫の爆発で崩壊、20世紀になってからイタリアによって再建されました。ムッソリーニ の別荘だった時期もあったということです。
城壁から連なる外観や宮殿内部は実に壮観です。ヨーロッパに現存する中世の要塞としては最大級の建造物ということで、威容を誇っています。イタリアによる 修復にはオリジナルとは違う部分があるという批判的な意見もあるようですが、細部に至るまでかなり注意深く修復されたように感じられます。
宮殿内にギリシア神話に基づく「ラオコーン像」がありました。トロイアの神官ラオコーンと2人の息子が蛇に巻き付かれている場面を描いたもので、ヘレニズ ム時代の傑作と目されています。ロドス島出身の彫刻家が制作したと伝えられることから、ここロドスに置いてあるのでしょう。同じ作品はバチカン美術館にも あり、そちらの方が有名です。

観光業が盛んなロドスだけあって、街中にあるツーリスト・インフォメーションがたいへん充実しています。地図はもちろん、島の文化、歴史に始まり、郷土料 理や特産物、見学のスポットなどについて紹介した詳細なパンフレットが何種類も置いてあり、いずれも一般的なガイドブックをはるかに凌駕する質の高さで す。日本語版はありませんが、主要外国語版がそろっています。これさえあれば、ロドス観光完璧。
そこで入手した旧市街の地図を見ると、城壁内にある建造物がどの時代のものか色分けされています。青がヘレニズム時代、赤はビザンツ帝国時代、茶色は騎士 団時代、オレンジがオスマン時代。要塞の街そのものが中世にできたので圧倒的に騎士団時代の建築が多くありますが、ビザンツやヘレニズムのものも思いのほ か残っており、激動の東エーゲ海の歴史を実感します。



パナゲア・カストロウ



内部



イコン



壁の装飾画



中庭



アギオス・エカテリーナ







案内図に載っていたヘリオス像



コロナハーバー



マンドラキ港



鹿の像



アフロディテ神殿



ヘレニズムの港



ヘレニズムの遺構



詳細不明






ビザンツ時代の建造物として整っているのは、パナゲア・カストロウ教会です。11世紀建立の内接十字型教会堂。オスマン時代の1523年から1912年ま ではイスラム教のモスクとして使われ、イタリア統治時代にはカトリックの教会にもなっていたようです。何度かの修復や改築を経て、現在はイコンなどを展示 する博物館になっています。
それより後の14世紀に建てられたアギオス・エカテリーナ教会は廃墟のような状態ですが、観光客が見学に訪れていました。

さらに時代をさかのぼってヘレニズムの遺構をたどってみます。
ロドス・タウンの港には古代世界七不思議のひとつ、「ロドスの巨像」がありました。これは本体34メートル、大理石の台座を入れると50メートルの高さに なる太陽神ヘリオスの銅像で、港の入口をまたぐようにそびえ立っていたと伝えられます。前284年、アレキサンドロスの後継者争いに関係する攻防に勝利し た記念として、ロドス島はリンドスのカレス設計によって建てられたものです。建造には12年かかりました。しかしその後、前226年の地震で倒壊、材料の 青銅は鋳つぶされ売却されてしまいました。
ギリシア神話によると、ヘリオスは毎朝4頭立ての黄金の戦車を駆り、東から西へと天空を横切り、夜には大洋を航海して東に戻るとされています。太陽神とい うと音楽と予言の神アポロンが思い浮かぶため、混同されることもあるようです。
この巨大なヘリオス像が残されていないこともあって、後世の人々はさまざまに想像力をかきたてられました。その像は頭上に冠を頂き、器を手にしていたとい う考えが多いようです。この器に煮えたぎった油や鉛を入れ、不法に港に侵入してくる船めがけてからくり仕掛けで攻撃したという説もあります。とんだ「股く ぐり」といったところでしょうか。
現在の研究では、実際にこの像が港をまたぐのは構造的に不可能だったと考えられています。

ヘリオス像がどこにあったのかは、はっきりわかりませんでした。ロドス・タウンにはコマーシャルハーバー、コロナハーバー、マンドラキハーバーと3つの港 があり、地形と名前からするとおそらくコロナハーバーではないかと考えて写真を撮ってみました。
しかし旧市街から少し離れたマンドラキ港に回ると、港の入口に2頭の鹿のモニュメントが見えます。あるいはこちらに巨像が建っていたのかもしれません。鹿 はロドス島のシンボル。その昔蛇が多くて困っていたところに鹿がやってきて、それから蛇がいなくなって助かったというお話があるそうです。

ちょうど巨像が建造された前3世紀ごろ、街の北東にアフロディテの神殿が建立されました。砂岩でできた神殿に祀られていたアフロディテ像は、現在考古学博 物館で見ることができます。
城壁内の一番東の端にはヘレニズム時代の港の遺跡が残ってます。かつて海だったところがいくらか後退し、ビザンツ時代か中世にはすでに城壁の内側になって いたということでしょう。

ビザンツ時代やヘレニズム時代の遺構は、旧市街のあちこちに点在しています。しかし解説パネルなどがないものも多く、目の前の遺跡が何だったのかはっきり 特定することができません。中世の街を歩いていると、突然それよりはるかに古い時代のものだろうと思われる何かの遺構が出現します。このいきなり歴史の交 錯する感覚が、ロドス・タウンの独特な面白さだと感じました。



スレイマン・モスク



イスラム・ライブラリー



ライブラリー内部



イポクラトス広場の噴水



オスマン様式の市場



元ハマム



城外にあるオスマン様式の豪邸



シナゴーグ





コマーシャルハーバー近くはおだやか



旧市街













新市街のビーチ



島の北側は波が荒く



ビーチ沿いのホテル街



落日

さて、今度はひるがえって中世以降にできた街の様子です。オスマン時代の建造物はそれまでの建物と様式がまったく違うのですぐわかります。スレイマン・モ スクはオスマン軍がロドス島を占領した1522年に建立。軍を率いた当時のスルタンの名前が冠されています。ロドス島で一番最初に建てられたモスクで、 1808年に改築されました。
イスラム・ライブラリーがすぐ向かいにあり、美しい手書きのコーランなどが飾られています。外は観光客があふれるにぎやかな通りですが、ライブラリーの中 はひっそりと静かで落ち着いた雰囲気です。
オスマン様式の市場は城外の海岸沿いにあり、現在はカフェや土産物店などが入っています。他にも路地を歩いて行くとハマムの廃墟があったり、広場の噴水が オスマン時代のものだったり、公園の中にぽつんと水場があったり、あちこちでその時代の痕跡を見ることができます。
街全体が中世の建造物でがっちりと固められているため、後になって違う様式の建物が入り込む空間が少なかったのかもしれません。オスマン時代の建物は、独 立した建造物であることが多い印象を受けます。

旧市街の南東、細い路地を入ったところにユダヤ教の会堂がひっそりと建っています。このカハル・シャロームは1557年建造、ギリシャで最も古いシナゴー グです。かつてロドスにはユダヤ人が多く住んでおり、20世紀初頭には街の人口の約3分の1を占めていました。しかし第2次大戦時にそのほとんどがホロ コーストへ送られ、現在はごく少数しか住んでいないということです。ここを訪れたのはユダヤ教の安息日に当たる土曜日だったので、中に入ることはできませ んでした。

ロドス・タウンは見るべき場所が旧市街にぎゅっと詰まっています。主要な見どころがすべて徒歩圏内というのも嬉しい限りです。実際に街を歩いて歴史的な空 間を体験するには絶好の街といえるでしょう。日本ではあまり知名度が高くないようで、それが不思議に感じられました。
〈2019.8.26.〉

(ロドス・タウン補足)

騎 士団長の宮殿 Palace of the Grand Master of the Knights

月曜日休館・夏期8:0016:00、冬期8:0014:40

パナゲア・カストロウ教 会 Panagia tou Kastrou ( Our Lady of the Castle )

           月 曜日休館・9:0017:00

ス レイマン・モスク Suleiman Mosque

           日 曜日休館・9:3015:00

イ スラム・ライブラリー Muslim Library

           日 曜日休館・9:3016:00

カハル・シャローム(ユダヤ博 物館) Kahal Shalom Synagogue ( the Jewish Museum of Rhodes )

           土 曜日休館・10:0015:00

 

ここで取り上げた他の遺跡や遺構は無人で、自由に見学できました。〈2019.9.1.  






堂々とした博物館



ヘレニズム後期のライオン像



湯浴みするアフロディテ



背面



ゼウス小像



ヒュギエイア



ヒュギエイアの持つ蛇



ヘリオス頭部



アフロディテ



岩に腰掛けるアフロディテまたはニンフ



広間



天窓



ヘレニズム後期のレリーフ



年代不詳

無休・夏期:8:00〜20:00・冬期:8:00〜15:00
騎士団長の宮殿から、堅牢な建物が連なる中世そのままの道を東に進むと考古学博物館があります。ここは聖ヨハネ騎士団の病院として15世紀に造られた建物 で、イタリア統治時代の1913年から1918年の間に修復されて博物館となりました。
ロドス・タウンを始め、イアリソスやカミロスといったロドス島にある古代都市から発掘されたものが収蔵されています。前9世紀の古典期からギリシア、ヘレ ニズム、ローマ、ビザンツ、中世まで、各時代の彫像、陶器、副葬品、ガラス製品、モザイク画など、どれも貴重なコレクションです。展示品の他に建物そのも のも興味深く、たいへん充実した博物館となっています。

小ぶりの彫像はどれも保存状態が素晴らしいものばかりです。
とりわけ「湯浴みするアフロディテ」は「ロドスのビーナス」とも呼ばれる名作とされ、完成度が非常に高い彫像です。白い大理石の肌がなめらかに輝いていま す。これは前3世紀の作品を模して前1世紀に造られました。こうした彫刻は裕福な人々の邸宅の庭や人口の池などに飾られていたということです。

ゼウスの小像は島の西側にある古代都市カミロス出土、ヘレニズム後期のもの。
医神アスクレピオスの娘ヒュギエイアは健康と衛生を司る女神で、後2世紀中葉の彫像。手にした器(杯)と蛇がほぼ完璧な状態で残されています。蛇は再生の 象徴とされ、蛇の巻きついた杯は薬学のシンボル「ヒュギエイアの杯」と呼ばれるようになりました。
ヘレニズム中期のヘリオス像は頭部しか残っていませんが、神殿の破風に飾られていたと考えられています。ロドス・タウンは港をヘリオスに守られている街で した。地中海文化圏でよく見られるアレキサンドロス大王と面影が似ているようです。
もうひとつの小さなアフロディテ像は、典型的な「ロドスのアフロディテ」の姿を見せています。ロドス・タウン西岸の海底で発見されたもので、これは装飾品 ではなくヘレニズム初期に実際の信仰の対象になっていた可能性があるということです。
腰掛けるアフロディテまたはニンフは前2世紀から前1世紀の作。



陶器の展示室



赤絵式



黒絵式



中庭に咲くブーゲンビリア



モザイク画



トリトン



狩りから戻るケンタウロス



蛇の柱



庭の小径



オスマン時代の水場



オスマン式のサロン



「七変化」とも呼ばれるランタナ

陶器のコレクションも見事です。
黒地に赤で絵柄が描かれているものは赤絵式と呼ばれます。演劇と酒の神ディオニュソスが右側の人物を祝福している場面です。ふたりとも松かさのついたディ オニュソスの霊杖を手にしており、まわりにはこの神の標章とされるツタのモティーフが見られます。イアリソス出土、前540年。
もう一方は赤地に黒で描かれた黒絵式です。これもディオニュソスにまつわる一場面で、踊る信女とサテュロスの間にディオニュソスが立っています。赤絵と同 じイアリソス出土、こちらは前470年から450年のものと解説にありました。
一般的に黒絵の方が古くからあり、赤絵は後に伝えられたとされていますが、この二点に関しては時代が逆転しています。絵柄としては、黒絵の方に古風な雰囲 気が漂っているようです。いずれにせよ、イアリソスでは古くからディオニュソス信仰があったことがうかがえます。

屋内の展示室から屋外に出る回廊があり、大型のモザイク画が展示されていました。
1972年、街の西にある初期キリスト教のバジリカの下から発見された前3世紀のものです。黒やグレイ、白の細かいモザイクが精緻なスケッチ画を思わせま す。この時代のモザイクでこの大きさのものはあまり見る機会がありません。保存状態も申し分なく、大変貴重なモザイク画といえるでしょう。
トリトンは海神ポセイドンの息子で半人半漁の姿をしていますが、ここでは翼や角も加わり、左手に舵の柄を持っています。周囲を縁どるのはアカンサスなど植 物のモティーフや波の文様です。
もうひとつは狩りから戻る半人半馬のケンタウロス。ツタの冠をいただき、獲物の野ウサギを掲げています。

この回廊からさらに中庭に出ることができました。表通りは石造りの壁が隙間なく連なっているばかりなので、敷地内にこんな広い庭があるとは想像もできませ ん。ちょっとした散策気分が楽しめます。
無造作に置かれた蛇の柱は解説も何もありませんでしたが、アスクレピオスに関連する場所から運ばれたものかもしれません。展示物というより素敵なエクステ リアといった雰囲気です。
オスマン時代の名残の水場では実際に水がちょろちょろと流れ出し、周囲は水を好むシダ類が茂っていて何とも涼し気。その奥の建物にはオスマン式のサロンも ありました。
さすがにこのあたりまで見学に来る人は少ないようで、人影がまったくありません。緑豊かな中庭でほっと一息つけるような静けさでした。 〈2020.2.24.〉  





アクロポリスのアポロン神殿



神殿東のアゴラ





テラスとオデオン



修復は完璧



広大な敷地の向こうにエーゲ海が



競技場



観客席



資料館のパネル



古代ロドスの地図

ロドス・タウンから南西3キロほどにスミス山という山があります。ギリシャの島で「スミス」という英語名がついているのも不思議ですが、もとはアギオス・ ステファノスと呼ばれていました。スミス山は英国の提督ウィリアム・シドニー・スミス Sir William Sidney Smith(1764-1840)に因んで後世名づけられたそうです。
この山の頂上にあるのが、古代都市ロドスの面影を色濃く残すアクロポリスAcropolisです。12.500平方メートルという広い敷地内に、紀元前3 世紀から前2世紀にかけての建造物が点在しています。ここはイタリア占領時代に発掘が始まり、1946年以降ギリシャ考古学局がそれを引き継ぎ、60年代 から70年代にかけて第二次大戦の爆撃で破壊された遺跡の修復が行われました。

山頂にそびえるアポロン神殿にはドリス式の列柱が数本残っています。がしかし、修復中で足場が組まれて柱は見えず、周囲は立ち入り禁止で近寄ることもでき ません。たいへん残念です。修復がいつ始まっていつ終わるのかもわかりませんでした。
神殿の東側にはアゴラの遺構が広がっています。かなり発掘は進んでいるようですが、解説パネルなどがないため建造物の詳細はわかりません。そこから完璧に 修復されたテラスを下ると、800席のオデオンが見えます。劇場に似ていますが、当時ここでは演奏会や講演などが行われていました。高い場所にあるため、 彼方にエーゲ海を望めます。
オデオンの南側にあるのがU字型の競技場です。前2世紀の建造。トラックは210メートルで観客席も整っていました。競技場としては非常に保存状態のよい ものです。
道路脇のアクロポリス資料館(無休・8:00〜20:00)には、当時スタジアムで行われた競技や発掘時の様子などについてパネルが展示されています。

広い敷地には入場門や柵などがありません。修復や調査中のエリアを除いて24時間自由に見学できるようでした。構内に地図や解説パネルの類は見当たらず、 見学にはやや不便です。
資料館の隣にお手洗いがありますが、他は荒地が広がるばかりで何もありません。完璧に修復された建造物と、未修復の遺構とのギャップが対照的な遺跡です。 発掘はまだ終わっておらず、今後の調査のために周囲一帯を保存しているということでした。



「ニンフの洞窟」地上部分



泉の跡?



階段のある通路



細い溝



不思議な花



聖二コラオス教会



礼拝堂の入口



イコン



ゆらめく蝋燭の灯り







小さな庭



礼拝堂から空を仰ぐ



教会でくつろぐ主(?)



民家の庭先に柿



住宅地



アクロポリスからほど近いところに「ニンフの洞窟」があります。何もない野原にいちおう標識らしきものが建っていますが、場所がなかなかわかりません。し ばらくあたりを歩いて見つけた洞窟は、洞窟というよりも立派な地下建造物です。かなり大きいものだったようで、狭い通路やかつて水がたたえられていたと思 われる泉の遺構が見られます。
昔から地下にあったのか、長い年月の間に埋もれてしまってまだ完全に発掘されていないのかは不明です。ここは古代都市でよく見かける町中の水場とは違い、 宗教的な儀礼などに使われていました。見学自由。
この周辺で、地面からいきなり花が出現している植物を見ました。真夏の日照りで枯れ果てた草の合間に、アザミに似た花がぽこぽこと点在しています。茎も 葉っぱもありません。日本とはまったくかけ離れた気候の土地を訪れると、こういう不思議な植物に出会うことがあります。

新市街へ向かって少し道を下ると、車道の脇に白い十字架がぽつねんと建っていました。ギリシャでは交通事故があった場所に十字架や小さな祠を建てるという 習慣があるようで、幹線や山道の脇でよく見かけます。この十字架もそうしたものかと思っていたら、その下に「聖二コラオス教会」がありました。
車道の脇に階段があり、そこを降りていくとごつごつした岩山の前に出ます。この岩山をくりぬいた内部が礼拝堂になっていました。車道で見た十字架は、岩山 のてっぺんに建てられたものだったのです。天然の岩を利用した洞窟教会ということなのでしょうが、屋根部分が車道に連なり、道路の下の岩盤が礼拝堂になっ ているという構造は見たことがありません。
礼拝堂は3、4人も入れば一杯になってしまうくらいの狭さです。内部はくりぬいた跡がそのまま残る岩壁一面にイコンが飾られ、祭壇には蝋燭がともされてい ます。入口付近の庭にベンチとテーブルがあり、丁寧に手入れされた植木鉢などが並んでいます。信者が集い、祈りを捧げる場になっているのかもしれません。
たいへん印象的な礼拝堂です。きれいに整えられた庭や構内の様子から、信仰が現在も続いていることがよくわかります。

街の中心に戻る車道から脇へ入ると、そこは瀟洒な家が並ぶ住宅街です。南国の花や緑豊かな庭を眺めながら散策するうちに、旧市街の城壁が遠くに見えてくる のでした。〈2020.3.31〉  





リンドスのアクロポリス



入り江



家並み



込み合う道



ひっそりとした路地



鐘楼



要塞





ロドス式三段櫂船のレリーフ

リンドスのアクロポリス:無休・夏期8:00〜20:00・冬期8:00〜15:00
ロドス島に残る古代都市のひとつ、リンドスはロドス・タウンから南へ約50キロの地中海沿いにあります。島の西側にあるロドス・タウンはエーゲ海に面して いますが、リンドスは東側にあるため、地図の上では地中海に面していることになります。
前408年にロドスの街ができるまで、リンドスは前8世紀ごろからフェニキア人などとの交易で栄えた都市でした。海抜116メートルの断崖絶壁にあるアク ロポリスは、アテナ信仰の聖域として重要な役割を担っていたということです。ここはビザンツ帝国時代に要塞となり、中世になってから聖ヨハネ騎士団がそれ をさらに堅牢なものとしました。
現在は遺跡とともに美しいビーチが有名で、夏場は観光客でにぎわう場所です。

旧市街は道が狭く、車が入れません。中世特有の狭くて曲がりくねった坂道を登っていくと、頂上の遺跡にたどり着きます。途中には高い鐘楼のある教会、土産 物屋、カフェなどがひしめいてにぎやかです。登るにつれ眼下に青い海と白い家が広がり、いかにもギリシャの島らしい眺めを楽しめます。中世の堅牢な要塞の 入口をくぐると、その向こうにはるか古代の聖域が姿を現すのでした。



アテナ・リンディア神殿



上の層



プロピュライア



下から階段を見上げる



ヘレニズムのストア



断崖絶壁



下の層



右手は中世の要塞部分



装飾的な柱



遺構



坂を上る人々の癒しスポット



オスマン式建築



居室



フレッシュなオレンジジュース



幹線沿いのリゾートホテル

アクロポリスの玄関口には、崖状の岩盤にロドス式三段櫂船の図が刻まれています。三段櫂船は前5世紀ごろから使われていた軍艦で、文字通り船の漕ぎ手を上 下三段に配置する構造になっています。スピードがあり小回りが利くため当時の海戦で活躍しました。レリーフは前180年ごろのもの。手前に見える石を切り 出した部分は、坂道を上ってきた参拝者が腰掛けて一休みできるようなベンチになっていたそうです。

アクロポリスの南端、一番高い層にあるアテナ・リンディアAthena Lindiaは、ドリス式の列柱が残るアテナ神殿です。前4世紀から徐々に拡張され、現在は前3世紀の姿をとどめています。
そこから広い階段と列柱のあるプロピュライアが下に向かって続きます。前4世紀のプロピュライアは儀礼的な門で、かつては下からこの門をくぐって階段を上 り、神殿に詣でていました。
下の層にはヘレニズムのストアなどの遺構があります。ほんとうに断崖ぎりぎりの場所に造られた聖域だということがよくわかります。

アクロポリスにはきびしい日射しを遮る日影がほとんどなく、夏場の見学はなかなか大変です。おまけにここはかなり急な坂を登ったり降りたり、暑さと相まっ ていちじるしく体力を消耗します。見学を終えたら、まずは旧市街にあるカフェでひと休みしましょう。たまたま入ったお店の奥には、堂々とした石造りのオス マン建築が残っていました。〈2010.4.18.〉  


  ロドスの美味 Tast of Rhodes



バスターミナル近くのギロス屋



巨大ドーナツ



アイスクリーム屋



カフェのお兄さん



家庭的雰囲気



ギリシャサラダ



ポークのオーブン料理



ヒラメのムニエル



サービスのフルーツ盛り合わせ

観光でにぎわうロドス・タウンです。カフェやレストランに困ることはありません。日中のカフェはどこも大にぎわい。直径20センチはあろうかという巨大な ドーナツや、ギリシャ式ドネルケバブのギロスを売る店、アイスクリームショップなどもあります。何でもてんこ盛りのギリシャです。アイスクリームはものす ごいボリューム、おやつの時間に夕食分(以上)はありそうなのをみんな盛大に食べています。
通りの様子を写真に撮っていると、カフェで客引きをするお兄さんが「僕も撮って!」とポーズを決めてくれました。

ほとんどが観光客向けのお店ですが、旧市街よりも新市街の方にこぢんまりした家庭的な雰囲気のタヴェルナが多いようです。
どの店にもあるギリシャサラダは、オリーブや白いフェタチーズがのったサラダ。チーズのフレッシュで塩気の強い味がアクセントになります。豚肉と野菜を一 緒にオーブンで煮込んだ一品は、この地方の伝統料理だそうです。ここにも砕いたフェタチーズがのっています。野菜と肉の旨味がぎゅっと濃縮されたようで、 素朴にして奥行きのある味わいでした。

ヒラメのムニエルは何故か1匹と半分がお皿に載っています。ヒラメは口当たりの軽い白身魚なので、1匹ではちょっと少ないという判断でしょうか。サワーク リームのようなソースが別の器でサービスされます。このソースはパンに塗って食べても美味。ムニエルにはレモンを追加してたっぷり絞って頂きました。
ギリシャの島では料理の付け合わせというと圧倒的に大量のじゃがいもだけということが多く、たまにトマトやスライスした玉ねぎがついてくる程度です。しか しこの店では小ぶりのじゃがいもの他にズッキーニやカリフラワー、アスパラガス、酢漬けのビーツなど色とりどりの野菜が出てきて、料理人の心意気が感じら れます。



地ワイン



ラムチョップ、トマトとチーズのオーブン焼き



ギリシャサラダ



ラムのスブラキ



しゃれたレストラン



夜の店





午後7時半



夏の宵

旅行中はホテルのお部屋でテイクアウトの料理を食べることもあります。ロドスでは立派なかまえのタヴェルナでも料理のテイクアウトができて、これはなかな か便利でした。リゾート地のホテルはテラス付きの部屋がほとんどで、アウトドア用のテーブルや椅子も置いてあります。一日の観光を終えて日が傾くころ、 シャワーを浴びてさっぱりしてからテラスで夕食というのも悪くありません。涼しい海風が日中の暑さを忘れさせてくれます。
スブラキはスパイスで味付けした豚や羊、牛などの串焼きです。見た目は日本の串焼きそっくり、たいへん親近感が湧きます。テイクアウトした串焼きの下には 平たくて丸いパンが敷いてあります。
総じて料理の味付けは控え目。オリーブオイル、トマト、塩、胡椒が味のベースで、必要に応じてタイムやローズマリーなどのハーブが加わります。肉、魚、野 菜、チーズなど、素材本来の味が充実しているため、どこで何を頂いても満足です。地中海料理の底力全面展開なのでした。〈2020.4.18.〉





  番外編・コス島の日々



トルコのボドルム港



コス島行きフェリーボート



トルコ側免税店



トルコ領



ギリシャ領



コス港と騎士団の城



コスタウン









リゾートの雰囲気

トルコのエーゲ海地方にあるリゾート地ボドルムから、フェリーで約45分、 わずか5キロほど海を渡るとギリシャのコス島です。島影がボドルムの港から見え るほど近くにあります。夏場は毎日船が運航しており、日帰りで往復する観光客でにぎわっています。
2017年9月、ボドルムからコス島へフェリーで渡ってみました。ちょうどその前の7月20日この地域一帯でM6.7の地震が起き、2人が死亡、20人が 負傷しました。島の人にたずねると、古いジャーミーの塔やローマ遺跡の柱が倒れたりしたものの、現在は日常生活にまったく問題はないということでした。

東西40キロ、南北8キロという細長いコス島は、ドデカニサ諸島のひとつ。青い海と空が広がり、美しいビーチが続く夏の穴場的リゾート地として人気があり ます。人口は約3万人。観光が主な産業で、葡萄、アーモンド、いちじく、オリーブ、トマト、レタスなど農業も盛んです。シーザースサラダによく使われるロ メインレタスは別名「コスレタス」とも言われ、この島が原産だとされています。

島には先史時代から人が住んでいましたが、前11世紀にドーリア人が入植(カリア人が住んでいたという説もあり)、その後ペルシアの支配下に置かれ、前 336年アレクサンドロス大王による占領後、プトレマイオス朝を経てローマ帝国の属州となります。エーゲ海貿易の要所として栄え、とくに繊細な絹製品は珍 重されたということです。
その後ヴェネツィア人から島を譲り受けたロードス島の聖ヨハネ騎士団が1315年に支配、1523年からオスマン帝国領となり、1912年イタリア、さら にドイツ、英国保護領を経て1947年ギリシャ領となりました。島にはこうした歴史を物語るさまざまな遺跡が残されています。医学の父と呼ばれるヒポクラ テスHippocrates(前460年頃〜前370年頃)はこのコス島で生まれました。



地震でミナーレが崩れかかったジャーミー



オスマン時代のお墓



改築されたオスマン時代のハマム



荒々しい波



街路樹



瞑想猫



コス側免税店



ボドルム行きフェリーボート



船内



クルーズ船停泊中のコス湾

ところで、2015年9月、シリア難民の男の子の遺体がボドルムの浜辺に打ち上げられた写真が報道されました。この3歳の男の子は家族とともに内戦のシリ アからトルコへ逃れ、さらにボドルムからコス島へ渡ろうとする途中で、乗っていたゴムボートが転覆して溺れてしまったのでした。
この時期はトルコ南西部沿岸からギリシャへ渡り、バルカン半島を北上してEUの主要都市をめざす難民がギリシャの島々に殺到したころです。海を渡るばかり ではなく、イスタンブールの西にあるトラキア地方を経由して陸伝いにギリシャに入ろうとする難民も多くいました。トルコとの国境に近いアレクサンドルポリ に住む知人から、街には難民があふれているという話を聞いたことがあります。

2015年だけでコス島にたどり着いた難民は3万人を越え、その後も増え続けていました。3万人とは島の人口とほぼ同じ人数です。それだけの難民を受け容 れる施設も何も、島にはありません。ギリシャ政府は当時深刻な財政危機の真っただ中でした。行政からの援助はなく、地元住民やNGOが物資や医療を支援す るばかりです。難民はテントや空き家となったホテルに住みつき、国連難民高等弁務官事務所(UHNCR)が行う難民申請の手続きを待つしかありませんでし た。
その後ギリシャ政府はエーゲ海域の島々の窮状を受け、人員と資材の投入を決定、EUからの緊急支援を求めたということです。
翌2016年3月、EUとトルコは、トルコからギリシャへ渡った不法難民を審査の上トルコへ送還するという合意を結びます。欧州に流入する不法難民の抑制 対策です。その結果、ギリシャを通過するいわゆる「バルカンルート」は事実上閉鎖されました。

トルコのボドルムからフェリーに乗った時のことです。ボドルム湾を出るまで、波は静かでほとんど揺れも感じません。しかし沖に出るとトルコ側から吹きつけ る風がにわかに強くなり、海面には三角波が立っています。飛び散る波しぶきと風が冷たくて、外のベンチに座っていられません。お天気が安定している夏でこ の状態です。海が荒れる冬には極端にフェリーの便数が減るのも理解できます。
島が見えるほど近くにあるからといって、ここをゴムボートで渡るのがどれほど危険なことであるかと実感しました。

コス島に殺到した難民が、その後どうなったのかはわかりません。2017年にわたしが訪れた時、街は何事もなかったかのように平和に見え、各国からの観光 客が楽しそうにバカンスを謳歌していました。〈2018.5.31〉 



  コス・タウンKos Town



青い国旗



ホテルとビーチ





カフェやレストラン



市庁舎



カトリック教会



夾竹桃に似た花







お土産物ストリート



通りの主

島の北東にあるコス・タウンに中心となる港があります。コス島の主要な街はかつて島の西端のケファロス付近にありましたが、前366年にそこから北東へ 43キロ離れた場所に遷都されました。新しい街はミレトスヒッポダモスが考案した都市設計に基づいて建設され、これが現在のコス タウンになっています。 かつて首都だった場所ははっきりしないということでした。
現在のコスタウンは豪華客船も停泊するにぎやかな観光地で、ホテルが立ち並ぶ海岸沿いから土産物屋が連なる通り、レストラン街、カフェやバーなど、こぢん まりした街ながらどこも活気にあふれています。四角い家の白壁が太陽に輝いてまぶしく、緑豊かな美しい街です。
冬場は観光客が減るため、閉めてしまうホテルなども多くあります。夏の間が書き入れ時ということで、観光地ずれしているかもしれないと思っていましたが、 まったくそんなことはありません。街のひとたちはにこにこして対応も丁寧で親切。何よりもみんな楽しそうに仕事をしていて、たいへん気持ちよく感じられま す。ギリシャの経済状態は決していいわけではありませんが、それとは別に、それぞれが自分の人生を楽しむ術を心得ているという印象を受けました。



ヒポクラテスの木



エレフセリアス広場



広場近くのレストラン



よくわからない看板



観光用













街角の景色

遺跡などの見どころは街のなかに点在しており、ほとんどが徒歩でまわることができます。
港沿いの道から少し入ったところにあるのが「ヒポクラテスの木」です。コス島で生まれた医学の父ヒポクラテスが、このプラタナスの下で弟子たちに医学を説 いたとされています。ヒポクラテスは前460年ごろから前370年ごろのひと。そうするとこの木は少なくとも樹齢2400年以上ということになります。確 かに自重がありすぎて枝を支えきれず、鉄パイプで補強するほど大きく茂った木です。しかし、トルコのマルマラ地方ブルサで見た樹齢約600年というプラタ ナスと比べると小さく見えます。プラタナスは一般に寿命の長い木とされていますが、いくら何でも2400年というのはどうなんでしょう。元にあった木が世 代交代しながら生き続けているということかもしれません。
ヒポクラテスの逸話に因み、この木から株分け(挿し木)されたプラタナスが、日本のいくつかの病院に植えられているそうです。

日中はじりじりと太陽が照りつけて猛烈な暑さですが、夕方になると海風が吹いてぐっと涼しくなり、夜は長袖の羽織ものがないと肌寒く感じます。お向かいの トルコ領ボドルムよりはるかに気温が低く、ホテルではエアコンなしで窓を閉 めて寝ても風邪を引かないかちょっと心配なぐらいでした。〈2018.5.31〉






邸宅復元模型



展示室



彩色の残る壁



前350年ごろ



美しい装飾



アトリウムその1



バンケットルーム



床の装飾モザイク

月曜日休館・8:00〜20:00
街の南西に、2世紀に建てられたカーサ・ロマーナ(「ローマ人の館」)があります。大小あわせて36の部屋、水盤のある中庭(アトリウム)が3つもあると いう非常に贅沢な邸宅です。南東の棟には当時珍しかった家庭用浴室(テルマエ・ロマエ個人宅版)があり、現在は残されていませんが床はゴージャスな大理石 でおおわれていたそうです。とても裕福な一族が住んでいたことがわかります。邸宅内には「家内安全」を祈願して祭壇などをしつらえた小部屋もありました。

1933年に起きた大地震でコス島は壊滅的な被害を受けましたが、その後イタリアの考古学者がこの地域に入って調査した結果、さまざまな遺跡が発見された ということです。このカーサ・ロマーナもそのうちのひとつで、1940年に復元が完成されました。
たいへん美しい瀟洒な建物です。当時の人々が実際に生活していた空間を体験することができます。当時の裕福層は、自宅をさまざまに装飾することを好んでい ました。主要な部屋の壁にフレスコ画を描いたり、床を精緻なモザイク画で埋め尽くすといったことがはやった時代です。邸内には彩色が残る壁やモザイク画が 多く残されており、その保存状態のよさに驚かされます。
展示室の壁に赤く塗られた厚い漆喰が見えます。この壁一面に、装飾的なフレスコ画が描かれていたのでしょう。現在残っている部分をガラスなどでおおって保 護しなくても大丈夫なのか、少し気になるところです。



アトリウムその2



姫睡蓮咲く



モザイク



二階から見下ろすアトリウム





庭のフラグメント











中央ローマ浴場などの跡

こうした形式の豪華な邸宅は、南イタリアのポンペイなどでも見ることができます。ポンペイは後79年のベスヴィオス山の噴火で街が灰に覆われ、そのおかげ で街全体が細部に至るまで現代に残された貴重な遺跡です。ポンペイの邸宅とこのカーサ・ロマーナ、共通点が多いように感じます。もっともポンペイの方は前 2世紀から後1世紀ごろの建物なので、時代的にはここより少し前のものです。カーサ・ロマーナの壁に残る赤い漆喰も、ポンペイの建築に特徴的な「ポンペ イ・レッド」によく似ています。
アトリウムは雨水の貯蔵や採光という実用的な意味と、隣接する部屋から中庭の眺めを楽しむという効果があるものでした。現在は水盤に夏草がぼうぼう茂って いたり、水生植物が花を咲かせていたり、何となく放ったらかしという雰囲気でのんびりしています。

邸宅の東側に広大な遺跡が広がっていました。ここは街の中心部の一角だったようで、「中央浴場」などがあったとされています。こんな至近距離に大きな公衆 浴場があるのに、自宅の中にも浴室を作ってしまうとは、どれだけお風呂が好きな人々だったのでしょう。その日の気分によって、内湯と外湯を使い分けたりし ていたのでしょうか。想像すると、何だか楽しくなってきます。〈2018.6.25〉








オデオン





ディオニュソスの祭壇



台座の脚





神殿跡







途中の発掘エリア



民家の庭に咲く花

カーサ・ロマーナから道伝いに、オデオン、ディオニュソスDionysosの祭壇、「西遺跡」と、考古学エリアがほぼつながっています。道路の両脇に大き な街路樹が植わっており、涼しい木陰を散歩しながら見て回ることができます。
オデオンは1世紀から2世紀の建造で約750席。1929年に発掘されました。劇場と紹介されることもあるようですが、劇場ではなく音楽コンクールなどを 行う音楽堂や議事堂として使われていたものです。本来は屋根付きの建物で、廊下には大理石の彫像が置かれ、ステージの床はモザイクで装飾されていました。 現在は野外にぽつんと建っています。ホールの下には当時売店や事務室に使われていた部屋が残っているそうです。1994年から5年をかけて修復され、現在 の姿となりました。

ディオニュソスの祭壇は、ベンチなどが置いてある広場の隣、道路から2メートルほど低くなった敷地の中にあります。これは前2世紀のもので、おそらくペル ガモン王国の王が建造したのではないかと考えられています。ペルガモンは現在トルコのエーゲ海地方にあるベルガマのことです。ベルガマにも壮大な遺跡が 残っており、野外劇場の脇にディオニュソス神殿がありました。
コス島の祭壇はヘレニズム時代の典型的な祭壇だということです。儀礼の際に神官が供犠を捧げる台に上がるための段や、祭壇の外側の壁が土台の上に残ってい ます。
祭壇は142年の地震で破損したものの、その後修復されたという記録があります。祭壇上部の壁にはディオニュソスに関連する場面が描かれたレリーフがあり ましたが、そのほとんどは15世紀に聖ヨハネ騎士団が海岸沿いの要塞(ネランジア城)を築くため、石材として持ち去ってしまいました。
ディオニュソスの祭壇が残っているのは非常に稀で、その意味でたいへん貴重な遺構です。同じ敷地には祭壇の他にドリス式の神殿、さらに二つの建造物の基礎 が見えます。いずれも1936年の調査で発掘されたということです。

西遺跡に向かう途中で、発掘品が散らばっている広い敷地がありました。現在調査中の遺跡なのかもしれません。入口の扉が開いていたのでのぞいてみました が、調査中というよりも、発掘された石材をとりあえず並べてあるという感じです。なるほど、カーサ・ロマーナからこのあたり一帯はかつて街の中心部で、建 物がびっしり並んでいたことがわかります。



西遺跡の大通り





さまざまな遺構



前4〜3世紀のアーケード





モザイク



  バシリカ



ギムナジウムの列柱



地震で倒れた柱



「エウロパの館」



神話的場面が描かれたモザイク

西遺跡は住宅に囲まれるようにしてL字型に広がった敷地の中にあります。かなりの広さで、ヘレニズムからローマ時代の遺構が多く、2世紀と3世紀に建てら れたふたつの公衆浴場やニンファエウム(泉の妖精ニンフを祀る場所)、同時期の邸宅、前2世紀のギムナジウム、前4世紀から3世紀のアーケードなど、見応 え十分です。
ギムナジウムはアトリウムつきで長さ180メートル、奥行き90メートルという大きさ、その隣に浴場があります。5世紀以降ギムナジウムの一部はバシリカ に使われたということです。
敷地の一番奥にある「エウロパの館」には神話から題材をとったモザイクの床があり、その部分が屋根で保護されています。しかし午後には屋根の間から強い西 日が射し込み、ハレーションを起こしてモザイクの色柄がよく見えませんでした。

入口付近に地図と解説パネルがありますが、内部には案内がほとんどないので少しわかりにくい感じです。発掘された大理石に文字を刻んで、案内板のように置 いてあるのを時折見かけました。出土品をそういう風に使うという発想が大胆です。

ここから少し離れた場所に競技場跡もあります。前4世紀から前3世紀に建造が始まり、前2世紀前半に長さ180メートル、幅30メートルのトラックがある 競技場になったということです。こちらはフェンスに囲まれて中に入ることができませんでした。
オデオン、ディオニュソスの祭壇、西遺跡はいずれも無休、常時見学可能です。考古学エリアの地図が街の角々にあり、見学して回るのに道に迷うということは ありません。観光地だけあってこういうところがたいへん親切、おおいに助かりました。〈2018.6.25〉






考古学博物館入口



モザイクのあるアトリウム



アスクレピオスとヒポクラテス



巨大なヒポクラテス像



ハデス



コレー



館内



アルテミス

月曜日休館・夏期8:00〜20:00(冬期は時間変更)
(宗教行事のある日などは休館または8:30〜15:00)

考古学博物館は、コス・タウンの中心にあるエレフセリアス広場に面して建っています。2階建てのモダンな建築です。1936年のイタリア統治時代に開館、 近年4年以上にわたる修復期間を経て2016年にリニューアルオープンしました。
1階にはコス島各地域からの出土品、「エウロパの館」のモザイクや彫刻群、2階は前期青銅器時代からローマ時代までの副葬品や陶器などが並んでいます。こ ぢんまりした博物館ですが、コレクションは国宝級のものが目白押し。この島の前12世紀から後2世紀までの出土品が結集している様子は、見事としか言いよ うがありません。

一階正面には天井から光が差し込むアトリウムがあります。ガラス越しの明るい陽光の下、西遺跡の館の床を彩っていた大きなモザイク画が完璧に修復されてい ます。医術の神アスクレピオスAsklepiosがコス島を訪れ、ヒポクラテスHippocratesが島の住民と迎え入れている場面です。
そのヒポクラテスの彫像は等身大をはるかに超える大きなもので、前4世紀の作。オデオンに置かれていました。
冥界の神ハデスHadesとその妃コレーKore(ペルセポネPersephone)は、それぞれ前3世紀と前4世紀の奉納品です。ハデスやコレーの像は あまり見ることがなく、きれいな形で両方そろっているのは珍しいと思いました。
コレーはゼウスと地母神デメテルDemeterの娘で、彼女に恋をしたハデスに冥界へ連れ去られてしまいます。地上に戻りたがったコレーは母親の尽力も あって戻ることになりますが、冥界で柘榴の実を食べてしまったため、そこに留まらなければなりません。そのため、コレーは食べてしまった柘榴の粒の数の月 だけ(1年の3分の1、または2分の1)冥界で暮らし、他の時期は地上で暮らすようになりました。娘が冥界へ戻っている間、母親のデメテルは嘆き悲しみ、 地上に作物を実らせるのをやめてしまいます。これが季節の始まりとなった、というエピソードがギリシア神話にあります。
アルテミスArtemisは狩猟と貞潔の女神で、アポロンApollonと双子の神です。トルコのエーゲ海地方でも信仰が盛んですが、エフェソスのアルテ ミスはこれとはだいぶ趣が違います。足元に猟犬を従え、今しも矢をつがえようとするこちらの姿は、ギリシア神話のイメージを彷彿とさせます。後 150年か ら200年のものです。



ディオニュソス



岩に腰掛けるヘルメス



ヒュギエイア



2階展示室



陶器



アテネ聖域の出土品



デメテル聖域の出土品



テラコッタ製副葬品

ディオニュソスDionysosは葡萄酒や演劇の神。眷属のサテュロスSatyrosにもたれかかるディオニュソスは「酔ったディオニュソス」と呼ばれる ことが多く、ローマ時代以降よく見られるパターンです。右手に酒杯を持ち、左手を葡萄の木に乗せて千鳥足で歩いています。葡萄の木には葦笛を吹く牧神パー ンPanの姿、足元にはディオニュソスの標章であるパンサー、そして一緒に戯れる子供がいます。この子供はキューピッドCupidoと解説にありました が、ディオニュソスとキューピッドが一緒にいる場面はあまり見たことがなく、関連性はよくわかりません。
帽子をかぶり、羽の生えたサンダルをはいたヘルメスHermesも典型的な形をしています。おそらく右手には2匹の蛇がからみついた「カドケウスの杖」を 持っていたと思われます。いずれの彫像も、アルテミスと同じ150年から200年の間に造られました。
ヒュギエイアHygieiaは医神アスクレピオスの娘で、健康と衛生を司る女神です。右手に蛇を持ち、左手に卵を持っています。1匹の蛇は薬学のシンボ ル、卵は普通再生を意味します。足元にいるのは眠りの神ヒュプノスHypnos。後200年から250年のもので、お父さんと縁の深いコス島ならではの出 土品という感じです。

2階には小さな出土品やフラグメントなどが並んでいます。アテネの聖域から出土したものは、前12世紀から後2世紀までのテラコッタの断片や儀礼用の杯、 奉納品の像などさまざまです。デメテルの聖域出土品は前6世紀から後5世紀の奉納品などで、5センチ足らずの小さな像も実に精緻な造りをしています。見て いて退屈することがありません。

最近リニューアルされただけあって展示物の照明が美しく、解説も丁寧です。収蔵品はどれも保存状態が最高のものばかりで、考古学的な価値はもちろん、芸術 的にも完成度の高い作品ばかり並んでいます。小規模ながらたいへんグレードが高い素晴らしい博物館です。この日は朝早くから遺跡巡りをして写真を大量に 撮っていたせいか、カメラの予備のバッテリーまで使い果たしてしまい、収蔵品の写真が十分に撮れなくて残念な思いをしました。機会があれば、ぜひもう一度 訪れてみたい博物館です。〈2018.6.25〉








広大なアゴラ









さまざまな遺構







フラグメント

夏期無休・火〜日8:00〜20:00、月13:30〜20:00(冬期は月休)

街の東側、海沿いの道を少し入ると古代アゴラが広がっています。ちょうどヒポクラテスの木の奥あたりです。西遺跡と同じように、周囲を民家に取り囲まれて いますが、古代ギリシア世界で一番大きなアゴラのひとつとされています。たしかに広大な面積です。カーサ・ロマーナと 同じように、ここも1933年の地震 の後に発掘が始まりました。現在のコスの街の地下には、このアゴラに連なる古代都市が埋もれたままになっているのでした。
街は前4世紀、交易の要所だった港を中心に広がり、アゴラには東、西、北と3つの門がありました。北の門は城壁につながり、他の門は商店などが並ぶアゴラ に入る通路となっていたそうです。





アフロディーテの聖域





ヘラクレス神殿





ヘラクレス神殿のモザイク

アフロディーテAphroditeの聖域には神殿跡が残っています。アフロディーテはオリンポス十二神の一柱で美と性愛の女神です。生殖と豊穣を司ること から古代ギリシア世界では人気があり、各地に神殿があります。何年か前の写真を見ると、この神殿には美しい柱が立っていたのですが、先ごろの地震で倒れて しまったようでした。
ヘラクレスHeraklesの神殿は前2世紀ごろのもの。ヘラクレスはゼウスとペルセウスの孫のアルクメネとの間に生まれた半神半人の英雄で、その怪力か らさまざまな武勇談が神話に残されています。亡くなった後にオリンポスの神々に迎えられ、人々から崇拝されるようになりました。ここでは、後2世紀から3 世紀のモザイクで飾られた床の一部を見ることができます。

街の中心部にあるせいか、遺跡にしてはめずらしく各国の観光客でにぎわっていました。入口に字がかすれたような案内板があり、所々に建造物の解説パネルが 設置されています。それでも遺跡自体が広いため、構内に散在する遺構が何なのかわかりにくい感じがしました。売店等の付属施設はありません。炎天下に構内 を延々と歩くのはなかなかきびしいものですが、敷地を出るとすぐ近くにエレフセリアス広場に出ます。広場にはカフェやレストランがあるので、見学が終わっ たらそちらに直行して、ゆっくり休憩することにしましょう。〈2018.7.29〉








アスクレピオン



聖泉



公衆浴場やストア跡



大階段



全体図



ローマ神殿



遺構



イオニア式神殿

月曜日休館・8:30〜15:00
コスの街から南東へ4キロ、人里離れた小高い山の頂上にアスクレピオンがあります。アスクレピオンはギリシア神話で医神と呼ばれるアスクレピオス Asklepiosを祀る聖域であると同時に、ヒポクラテスが考案した治療院や医学校を備えた一大医療センターです。ここの他には、トルコのベルガマ(ペ ルガモン)にも残されています。
コスのアスクレピオンは、ヒポクラテスを記念して前4世紀に建造されました。実に壮大な建築物です。全体は3層になっており、1層目は入口、公衆浴場や列 柱廊建築、2層目はイオニア式神殿やローマ時代の神殿、集会所など、3層目にアスクレピオスの神殿と、神殿を囲むようにコの字型の病棟があります。 1902年にドイツ人考古学者が発見し、1930年からイタリアの考古学チームによって発掘調査が始まりました。

1層目にある大階段脇の連続するアーチの壁が、遠目にも印象的です。右から三番目のアーチだけ少し大きく、奥の壁から水が湧き出るようになっています。こ の時は水が少なく、かすかに染み出すぐらいという感じでしたが、そこだけシダが青々と茂っていました。下が水盤状になっているので、本来ならば滔々と水が 流れていたことでしょう。参拝者はまずここで身を清めて入場していたのかもしれません。
周囲にある公衆浴場や建物はかなり広範囲にわたっています。その規模を見ると、医療施設でありながらも相当数の人々がここで生活していたようです。
2層目のイオニア式神殿は前3世紀、ローマ神殿は後2世紀から3世紀の建造。ローマ神殿に残る白い列柱が美しく輝いています。集会所や談話するための半円 形のベンチなどもあり、治療を受ける人々は静かで平和な療養生活を送っていた様子が伝わってきます。





エーゲ海を望む



アスクレピオスの神殿



神殿の柱



牛のモティーフ



ライオンの彫刻



フラグメント



神殿裏



看板



バス停近く

3層目まで登ると、眼下にコスの街とエーゲ海が広がっています。さらにその先に見えるのはトルコ領。素晴らしい眺めです。ヒポクラテスの治療法には物理的 な方法ばかりではなく、現代で言う音楽療法やリラクゼーションなど、メンタルにかかわる療法も多く採り入れていたそうです。もしかしたら、この美しい景色 にも病気を治す効果があったのかもしれません。さまざまな治療が行われていたという病棟は、残念ながら現在残っていませんでした。

神話によると、アスクレピオスは詩歌や音楽、予言の神アポロンとギリシア中部テッサリアの王女コロニスの間に生まれました。彼は半人半獣のケンタウロス族 の賢者ケイロンに育てられ、とりわけ医術に優れた才を発揮します。それは死者を蘇らせるほどのものだったため、人間の領域をはるかに越えた行いとして神々 の怒りを買い、ゼウスの雷に打ち殺されてしまいました。とはいえ、病気で苦しむ人々を救った功績は認められて蛇使い座となり、医神として崇拝されるように なったということです。
アスクレピオスの杖には一匹の蛇が巻きついています。これは医療の象徴として、現代でも病院や薬局などでよく見られます。蛇は脱皮しながら成長することか ら、死と再生のシンボルでもありました。また、アスクレピオスが亡くなってから蛇使い座になったということにも関連性がうかがえます。

たいへん素晴らしい保存状態で、見応えのある遺跡です。堂々とした階段、その上にそびえ立つ神殿。アスクレピオスの功績とヒポクラテスの偉業を称えるにふ さわしい建造物として、深い感銘を受けます。案内図や解説パネルは完備され、当時の再現図や発掘時の写真などもあり、理解が深まります。

ひとつ妙なパネルがありました。飲食喫煙禁止、遺物の持ち出し禁止、水着禁止というのはわかりますが、一番下の図は何なんでしょうか。柱の上に登って踊る な?見学するうちにだんだん人が増えてきて、なかにはテラスに腰掛けて休憩したり、テラスに登って景色を眺めようとする人も出てきます。すると間髪を入れ ず制服姿の警備員が鋭く笛を吹き、降りるように注意します。謎の図はどうやら、「遺跡保護と安全のため各層のテラスに登るな」ということのようでした。暑 いさなかに監視する警備員は不機嫌そうで、時折怒鳴ったりしていましたが、パネルの絵はコミカルでユニーク、悪くないと思います。

構内にお手洗いはあるものの、売店や休憩所はありません。付近に民家はなく、うねうねと山道が続くばかりです。日よけ対策と飲料水をお忘れなく。 〈2018.7.29〉



  コスの美味 Tast of Kos



プラタナスの木陰



自家製レモネードたっぷり



  スパークリングウォーター



てんこ盛りパスタ



公営市場



コスの名産あれこれ



石鹸やコスメティック



果物部



海綿



焼肉用ミックススパイス



日本式スナック?味は微妙でした

観光でへとへとに疲れて腹ペコでも、街中にはカフェやレストランが多く、食べるのに困ることはありません。日中の暑いさなか、涼しげな木陰のカフェでキン キンに冷えたレモネードを飲むと生き返るようです。ガラス瓶入り並々。お昼に頼んだパスタは、優に2人分はあろうかという迫力です。ギリシャはどこも1人 前の分量が信じられないくらいのボリュームなのでした。

街の中心エレフセリアス広場に面して、「公営市場」と称する建物がそびえ立っています。かつては野外市場や住宅があった場所で、1933年の地震の後に造 られました。かつては敷地の右側に肉屋と魚屋、左側に商店、中央の中庭には八百屋などがあったということです。
現在はオリーブオイル製品、袋入りスパイス、土地の産物などが並んでいます。公営のため他の土産物店より良心的な料金で、安心して買い物ができるのも魅力 的です。手のひらからはみ出すくらい大きな海綿が1つ6ユーロというのは、確かに破格の値段。オリーブオイルの石鹸やコスメ、蜂蜜やナッツ、お菓子などを 求める観光客でにぎわっていました。ナッツの棚に日本のおせんべいに似たスナックも紛れ込んでいます。眺めているだけでも楽しい場所です。



街角で見た肉屋のウィンドウ



八百屋



量り売りのワインや蒸留酒



ホテルのバー



夜ごとのにぎわい



チーズフライとミートボールトマト煮ピラフ添 え



骨付きローストポーク

ホテル近くにあったタヴェルナは、外国人観光客も多く訪れるようで連日満員。家族経営の小さなお店で、お父さんから店を継いだ今の店主ヨルゴスさんが愛想 をふりまきつつ、きびきびと立ち働いています。厨房は女性2人が担当し、注文が殺到すると大忙し。料理は気取らないギリシャの家庭料理という風情です。伝 統的で素朴な味つけが素材の持ち味をひきたてています。
チーズフライ(サガナキ)やミートボールのトマト煮はいずれも前菜用のお料理ですが、ボリュームたっぷりなのでメインとして頂きました。別の晩に頼んだ骨 付きローストポークはとろけるような味わい。付け合わせのじゃがいもは少な目にしてもらってもたいへんな分量です。暖かい雰囲気のお店でおなかも心も大満 足になりました。〈2019.2.13.〉

〈この項続く〉