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番外編・コス島の日々


  番外編・コス島の日々



トルコのボドルム港



コス島行きフェリーボート



トルコ側免税店



トルコ領



ギリシャ領



コス港と騎士団の城



コスタウン









リゾートの雰囲気

トルコのエーゲ海地方にあるリゾート地ボドルムから、フェリーで約45分、 わずか5キロほど海を渡るとギリシャのコス島です。島影がボドルムの港から見え るほど近くにあります。夏場は毎日船が運航しており、日帰りで往復する観光客でにぎわっています。
2017年9月、ボドルムからコス島へフェリーで渡ってみました。ちょうどその前の7月20日この地域一帯でM6.7の地震が起き、2人が死亡、20人が 負傷しました。島の人にたずねると、古いジャーミーの塔やローマ遺跡の柱が倒れたりしたものの、現在は日常生活にまったく問題はないということでした。

東西40キロ、南北8キロという細長いコス島は、ドデカニサ諸島のひとつ。青い海と空が広がり、美しいビーチが続く夏の穴場的リゾート地として人気があり ます。人口は約3万人。観光が主な産業で、葡萄、アーモンド、いちじく、オリーブ、トマト、レタスなど農業も盛んです。シーザースサラダによく使われるロ メインレタスは別名「コスレタス」とも言われ、この島が原産だとされています。

島には先史時代から人が住んでいましたが、前11世紀にドーリア人が入植(カリア人が住んでいたという説もあり)、その後ペルシアの支配下に置かれ、前 336年アレクサンドロス大王による占領後、プトレマイオス朝を経てローマ帝国の属州となります。エーゲ海貿易の要所として栄え、とくに繊細な絹製品は珍 重されたということです。
その後ヴェネツィア人から島を譲り受けたロードス島の聖ヨハネ騎士団が1315年に支配、1523年からオスマン帝国領となり、1912年イタリア、さら にドイツ、英国保護領を経て1947年ギリシャ領となりました。島にはこうした歴史を物語るさまざまな遺跡が残されています。医学の父と呼ばれるヒポクラ テスHippocrates(前460年頃〜前370年頃)はこのコス島で生まれました。



地震でミナーレが崩れかかったジャーミー



オスマン時代のお墓



改築されたオスマン時代のハマム



荒々しい波



街路樹



瞑想猫



コス側免税店



ボドルム行きフェリーボート



船内



クルーズ船停泊中のコス湾

ところで、2015年9月、シリア難民の男の子の遺体がボドルムの浜辺に打ち上げられた写真が報道されました。この3歳の男の子は家族とともに内戦のシリ アからトルコへ逃れ、さらにボドルムからコス島へ渡ろうとする途中で、乗っていたゴムボートが転覆して溺れてしまったのでした。
この時期はトルコ南西部沿岸からギリシャへ渡り、バルカン半島を北上してEUの主要都市をめざす難民がギリシャの島々に殺到したころです。海を渡るばかり ではなく、イスタンブールの西にあるトラキア地方を経由して陸伝いにギリシャに入ろうとする難民も多くいました。トルコとの国境に近いアレクサンドルポリ に住む知人から、街には難民があふれているという話を聞いたことがあります。

2015年だけでコス島にたどり着いた難民は3万人を越え、その後も増え続けていました。3万人とは島の人口とほぼ同じ人数です。それだけの難民を受け容 れる施設も何も、島にはありません。ギリシャ政府は当時深刻な財政危機の真っただ中でした。行政からの援助はなく、地元住民やNGOが物資や医療を支援す るばかりです。難民はテントや空き家となったホテルに住みつき、国連難民高等弁務官事務所(UHNCR)が行う難民申請の手続きを待つしかありませんでし た。
その後ギリシャ政府はエーゲ海域の島々の窮状を受け、人員と資材の投入を決定、EUからの緊急支援を求めたということです。
翌2016年3月、EUとトルコは、トルコからギリシャへ渡った不法難民を審査の上トルコへ送還するという合意を結びます。欧州に流入する不法難民の抑制 対策です。その結果、ギリシャを通過するいわゆる「バルカンルート」は事実上閉鎖されました。

トルコのボドルムからフェリーに乗った時のことです。ボドルム湾を出るまで、波は静かでほとんど揺れも感じません。しかし沖に出るとトルコ側から吹きつけ る風がにわかに強くなり、海面には三角波が立っています。飛び散る波しぶきと風が冷たくて、外のベンチに座っていられません。お天気が安定している夏でこ の状態です。海が荒れる冬には極端にフェリーの便数が減るのも理解できます。
島が見えるほど近くにあるからといって、ここをゴムボートで渡るのがどれほど危険なことであるかと実感しました。

コス島に殺到した難民が、その後どうなったのかはわかりません。2017年にわたしが訪れた時、街は何事もなかったかのように平和に見え、各国からの観光 客が楽しそうにバカンスを謳歌していました。〈2018.5.31〉 



  コス・タウンKos Town



青い国旗



ホテルとビーチ





カフェやレストラン



市庁舎



カトリック教会



夾竹桃に似た花







お土産物ストリート



通りの主

島の北東にあるコス・タウンに中心となる港があります。コス島の主要な街はかつて島の西端のケファロス付近にありましたが、前366年にそこから北東へ 43キロ離れた場所に遷都されました。新しい街はミレトスヒッポダモスが考案した都市設計に基づいて建設され、これが現在のコス タウンになっています。 かつて首都だった場所ははっきりしないということでした。
現在のコスタウンは豪華客船も停泊するにぎやかな観光地で、ホテルが立ち並ぶ海岸沿いから土産物屋が連なる通り、レストラン街、カフェやバーなど、こぢん まりした街ながらどこも活気にあふれています。四角い家の白壁が太陽に輝いてまぶしく、緑豊かな美しい街です。
冬場は観光客が減るため、閉めてしまうホテルなども多くあります。夏の間が書き入れ時ということで、観光地ずれしているかもしれないと思っていましたが、 まったくそんなことはありません。街のひとたちはにこにこして対応も丁寧で親切。何よりもみんな楽しそうに仕事をしていて、たいへん気持ちよく感じられま す。ギリシャの経済状態は決していいわけではありませんが、それとは別に、それぞれが自分の人生を楽しむ術を心得ているという印象を受けました。



ヒポクラテスの木



エレフセリアス広場



広場近くのレストラン



よくわからない看板



観光用













街角の景色

遺跡などの見どころは街のなかに点在しており、ほとんどが徒歩でまわることができます。
港沿いの道から少し入ったところにあるのが「ヒポクラテスの木」です。コス島で生まれた医学の父ヒポクラテスが、このプラタナスの下で弟子たちに医学を説 いたとされています。ヒポクラテスは前460年ごろから前370年ごろのひと。そうするとこの木は少なくとも樹齢2400年以上ということになります。確 かに自重がありすぎて枝を支えきれず、鉄パイプで補強するほど大きく茂った木です。しかし、トルコのマルマラ地方ブルサで見た樹齢約600年というプラタ ナスと比べると小さく見えます。プラタナスは一般に寿命の長い木とされていますが、いくら何でも2400年というのはどうなんでしょう。元にあった木が世 代交代しながら生き続けているということかもしれません。
ヒポクラテスの逸話に因み、この木から株分け(挿し木)されたプラタナスが、日本のいくつかの病院に植えられているそうです。

日中はじりじりと太陽が照りつけて猛烈な暑さですが、夕方になると海風が吹いてぐっと涼しくなり、夜は長袖の羽織ものがないと肌寒く感じます。お向かいの トルコ領ボドルムよりはるかに気温が低く、ホテルではエアコンなしで窓を閉 めて寝ても風邪を引かないかちょっと心配なぐらいでした。〈2018.5.31〉






邸宅復元模型



展示室



彩色の残る壁



前350年ごろ



美しい装飾



アトリウムその1



バンケットルーム



床の装飾モザイク

月曜日休館・8:00〜20:00
街の南西に、2世紀に建てられたカーサ・ロマーナ(「ローマ人の館」)があります。大小あわせて36の部屋、水盤のある中庭(アトリウム)が3つもあると いう非常に贅沢な邸宅です。南東の棟には当時珍しかった家庭用浴室(テルマエ・ロマエ個人宅版)があり、現在は残されていませんが床はゴージャスな大理石 でおおわれていたそうです。とても裕福な一族が住んでいたことがわかります。邸宅内には「家内安全」を祈願して祭壇などをしつらえた小部屋もありました。

1933年に起きた大地震でコス島は壊滅的な被害を受けましたが、その後イタリアの考古学者がこの地域に入って調査した結果、さまざまな遺跡が発見された ということです。このカーサ・ロマーナもそのうちのひとつで、1940年に復元が完成されました。
たいへん美しい瀟洒な建物です。当時の人々が実際に生活していた空間を体験することができます。当時の裕福層は、自宅をさまざまに装飾することを好んでい ました。主要な部屋の壁にフレスコ画を描いたり、床を精緻なモザイク画で埋め尽くすといったことがはやった時代です。邸内には彩色が残る壁やモザイク画が 多く残されており、その保存状態のよさに驚かされます。
展示室の壁に赤く塗られた厚い漆喰が見えます。この壁一面に、装飾的なフレスコ画が描かれていたのでしょう。現在残っている部分をガラスなどでおおって保 護しなくても大丈夫なのか、少し気になるところです。



アトリウムその2



姫睡蓮咲く



モザイク



二階から見下ろすアトリウム





庭のフラグメント











中央ローマ浴場などの跡

こうした形式の豪華な邸宅は、南イタリアのポンペイなどでも見ることができます。ポンペイは後79年のベスヴィオス山の噴火で街が灰に覆われ、そのおかげ で街全体が細部に至るまで現代に残された貴重な遺跡です。ポンペイの邸宅とこのカーサ・ロマーナ、共通点が多いように感じます。もっともポンペイの方は前 2世紀から後1世紀ごろの建物なので、時代的にはここより少し前のものです。カーサ・ロマーナの壁に残る赤い漆喰も、ポンペイの建築に特徴的な「ポンペ イ・レッド」によく似ています。
アトリウムは雨水の貯蔵や採光という実用的な意味と、隣接する部屋から中庭の眺めを楽しむという効果があるものでした。現在は水盤に夏草がぼうぼう茂って いたり、水生植物が花を咲かせていたり、何となく放ったらかしという雰囲気でのんびりしています。

邸宅の東側に広大な遺跡が広がっていました。ここは街の中心部の一角だったようで、「中央浴場」などがあったとされています。こんな至近距離に大きな公衆 浴場があるのに、自宅の中にも浴室を作ってしまうとは、どれだけお風呂が好きな人々だったのでしょう。その日の気分によって、内湯と外湯を使い分けたりし ていたのでしょうか。想像すると、何だか楽しくなってきます。〈2018.6.25〉








オデオン





ディオニュソスの祭壇



台座の脚





神殿跡







途中の発掘エリア



民家の庭に咲く花

カーサ・ロマーナから道伝いに、オデオン、ディオニュソスDionysosの祭壇、「西遺跡」と、考古学エリアがほぼつながっています。道路の両脇に大き な街路樹が植わっており、涼しい木陰を散歩しながら見て回ることができます。
オデオンは1世紀から2世紀の建造で約750席。1929年に発掘されました。劇場と紹介されることもあるようですが、劇場ではなく音楽コンクールなどを 行う音楽堂や議事堂として使われていたものです。本来は屋根付きの建物で、廊下には大理石の彫像が置かれ、ステージの床はモザイクで装飾されていました。 現在は野外にぽつんと建っています。ホールの下には当時売店や事務室に使われていた部屋が残っているそうです。1994年から5年をかけて修復され、現在 の姿となりました。

ディオニュソスの祭壇は、ベンチなどが置いてある広場の隣、道路から2メートルほど低くなった敷地の中にあります。これは前2世紀のもので、おそらくペル ガモン王国の王が建造したのではないかと考えられています。ペルガモンは現在トルコのエーゲ海地方にあるベルガマのことです。ベルガマにも壮大な遺跡が 残っており、野外劇場の脇にディオニュソス神殿がありました。
コス島の祭壇はヘレニズム時代の典型的な祭壇だということです。儀礼の際に神官が供犠を捧げる台に上がるための段や、祭壇の外側の壁が土台の上に残ってい ます。
祭壇は142年の地震で破損したものの、その後修復されたという記録があります。祭壇上部の壁にはディオニュソスに関連する場面が描かれたレリーフがあり ましたが、そのほとんどは15世紀に聖ヨハネ騎士団が海岸沿いの要塞(ネランジア城)を築くため、石材として持ち去ってしまいました。
ディオニュソスの祭壇が残っているのは非常に稀で、その意味でたいへん貴重な遺構です。同じ敷地には祭壇の他にドリス式の神殿、さらに二つの建造物の基礎 が見えます。いずれも1936年の調査で発掘されたということです。

西遺跡に向かう途中で、発掘品が散らばっている広い敷地がありました。現在調査中の遺跡なのかもしれません。入口の扉が開いていたのでのぞいてみました が、調査中というよりも、発掘された石材をとりあえず並べてあるという感じです。なるほど、カーサ・ロマーナからこのあたり一帯はかつて街の中心部で、建 物がびっしり並んでいたことがわかります。



西遺跡の大通り





さまざまな遺構



前4〜3世紀のアーケード





モザイク



  バシリカ



ギムナジウムの列柱



地震で倒れた柱



「エウロパの館」



神話的場面が描かれたモザイク

西遺跡は住宅に囲まれるようにしてL字型に広がった敷地の中にあります。かなりの広さで、ヘレニズムからローマ時代の遺構が多く、2世紀と3世紀に建てら れたふたつの公衆浴場やニンファエウム(泉の妖精ニンフを祀る場所)、同時期の邸宅、前2世紀のギムナジウム、前4世紀から3世紀のアーケードなど、見応 え十分です。
ギムナジウムはアトリウムつきで長さ180メートル、奥行き90メートルという大きさ、その隣に浴場があります。5世紀以降ギムナジウムの一部はバシリカ に使われたということです。
敷地の一番奥にある「エウロパの館」には神話から題材をとったモザイクの床があり、その部分が屋根で保護されています。しかし午後には屋根の間から強い西 日が射し込み、ハレーションを起こしてモザイクの色柄がよく見えませんでした。

入口付近に地図と解説パネルがありますが、内部には案内がほとんどないので少しわかりにくい感じです。発掘された大理石に文字を刻んで、案内板のように置 いてあるのを時折見かけました。出土品をそういう風に使うという発想が大胆です。

ここから少し離れた場所に競技場跡もあります。前4世紀から前3世紀に建造が始まり、前2世紀前半に長さ180メートル、幅30メートルのトラックがある 競技場になったということです。こちらはフェンスに囲まれて中に入ることができませんでした。
オデオン、ディオニュソスの祭壇、西遺跡はいずれも無休、常時見学可能です。考古学エリアの地図が街の角々にあり、見学して回るのに道に迷うということは ありません。観光地だけあってこういうところがたいへん親切、おおいに助かりました。〈2018.6.25〉






考古学博物館入口



モザイクのあるアトリウム



アスクレピオスとヒポクラテス



巨大なヒポクラテス像



ハデス



コレー



館内



アルテミス

月曜日休館・夏期8:00〜20:00(冬期は時間変更)
(宗教行事のある日などは休館または8:30〜15:00)

考古学博物館は、コス・タウンの中心にあるエレフセリアス広場に面して建っています。2階建てのモダンな建築です。1936年のイタリア統治時代に開館、 近年4年以上にわたる修復期間を経て2016年にリニューアルオープンしました。
1階にはコス島各地域からの出土品、「エウロパの館」のモザイクや彫刻群、2階は前期青銅器時代からローマ時代までの副葬品や陶器などが並んでいます。こ ぢんまりした博物館ですが、コレクションは国宝級のものが目白押し。この島の前12世紀から後2世紀までの出土品が結集している様子は、見事としか言いよ うがありません。

一階正面には天井から光が差し込むアトリウムがあります。ガラス越しの明るい陽光の下、西遺跡の館の床を彩っていた大きなモザイク画が完璧に修復されてい ます。医術の神アスクレピオスAsklepiosがコス島を訪れ、ヒポクラテスHippocratesが島の住民と迎え入れている場面です。
そのヒポクラテスの彫像は等身大をはるかに超える大きなもので、前4世紀の作。オデオンに置かれていました。
冥界の神ハデスHadesとその妃コレーKore(ペルセポネPersephone)は、それぞれ前3世紀と前4世紀の奉納品です。ハデスやコレーの像は あまり見ることがなく、きれいな形で両方そろっているのは珍しいと思いました。
コレーはゼウスと地母神デメテルDemeterの娘で、彼女に恋をしたハデスに冥界へ連れ去られてしまいます。地上に戻りたがったコレーは母親の尽力も あって戻ることになりますが、冥界で柘榴の実を食べてしまったため、そこに留まらなければなりません。そのため、コレーは食べてしまった柘榴の粒の数の月 だけ(1年の3分の1、または2分の1)冥界で暮らし、他の時期は地上で暮らすようになりました。娘が冥界へ戻っている間、母親のデメテルは嘆き悲しみ、 地上に作物を実らせるのをやめてしまいます。これが季節の始まりとなった、というエピソードがギリシア神話にあります。
アルテミスArtemisは狩猟と貞潔の女神で、アポロンApollonと双子の神です。トルコのエーゲ海地方でも信仰が盛んですが、エフェソスのアルテ ミスはこれとはだいぶ趣が違います。足元に猟犬を従え、今しも矢をつがえようとするこちらの姿は、ギリシア神話のイメージを彷彿とさせます。後 150年か ら200年のものです。



ディオニュソス



岩に腰掛けるヘルメス



ヒュギエイア



2階展示室



陶器



アテネ聖域の出土品



デメテル聖域の出土品



テラコッタ製副葬品

ディオニュソスDionysosは葡萄酒や演劇の神。眷属のサテュロスSatyrosにもたれかかるディオニュソスは「酔ったディオニュソス」と呼ばれる ことが多く、ローマ時代以降よく見られるパターンです。右手に酒杯を持ち、左手を葡萄の木に乗せて千鳥足で歩いています。葡萄の木には葦笛を吹く牧神パー ンPanの姿、足元にはディオニュソスの標章であるパンサー、そして一緒に戯れる子供がいます。この子供はキューピッドCupidoと解説にありました が、ディオニュソスとキューピッドが一緒にいる場面はあまり見たことがなく、関連性はよくわかりません。
帽子をかぶり、羽の生えたサンダルをはいたヘルメスHermesも典型的な形をしています。おそらく右手には2匹の蛇がからみついた「カドケウスの杖」を 持っていたと思われます。いずれの彫像も、アルテミスと同じ150年から200年の間に造られました。
ヒュギエイアHygieiaは医神アスクレピオスの娘で、健康と衛生を司る女神です。右手に蛇を持ち、左手に卵を持っています。1匹の蛇は薬学のシンボ ル、卵は普通再生を意味します。足元にいるのは眠りの神ヒュプノスHypnos。後200年から250年のもので、お父さんと縁の深いコス島ならではの出 土品という感じです。

2階には小さな出土品やフラグメントなどが並んでいます。アテネの聖域から出土したものは、前12世紀から後2世紀までのテラコッタの断片や儀礼用の杯、 奉納品の像などさまざまです。デメテルの聖域出土品は前6世紀から後5世紀の奉納品などで、5センチ足らずの小さな像も実に精緻な造りをしています。見て いて退屈することがありません。

最近リニューアルされただけあって展示物の照明が美しく、解説も丁寧です。収蔵品はどれも保存状態が最高のものばかりで、考古学的な価値はもちろん、芸術 的にも完成度の高い作品ばかり並んでいます。小規模ながらたいへんグレードが高い素晴らしい博物館です。この日は朝早くから遺跡巡りをして写真を大量に 撮っていたせいか、カメラの予備のバッテリーまで使い果たしてしまい、収蔵品の写真が十分に撮れなくて残念な思いをしました。機会があれば、ぜひもう一度 訪れてみたい博物館です。〈2018.6.25〉








広大なアゴラ









さまざまな遺構







フラグメント

夏期無休・火〜日8:00〜20:00、月13:30〜20:00(冬期は月休)

街の東側、海沿いの道を少し入ると古代アゴラが広がっています。ちょうどヒポクラテスの木の奥あたりです。西遺跡と同じように、周囲を民家に取り囲まれて いますが、古代ギリシア世界で一番大きなアゴラのひとつとされています。たしかに広大な面積です。カーサ・ロマーナと 同じように、ここも1933年の地震 の後に発掘が始まりました。現在のコスの街の地下には、このアゴラに連なる古代都市が埋もれたままになっているのでした。
街は前4世紀、交易の要所だった港を中心に広がり、アゴラには東、西、北と3つの門がありました。北の門は城壁につながり、他の門は商店などが並ぶアゴラ に入る通路となっていたそうです。





アフロディーテの聖域





ヘラクレス神殿





ヘラクレス神殿のモザイク

アフロディーテAphroditeの聖域には神殿跡が残っています。アフロディーテはオリンポス十二神の一柱で美と性愛の女神です。生殖と豊穣を司ること から古代ギリシア世界では人気があり、各地に神殿があります。何年か前の写真を見ると、この神殿には美しい柱が立っていたのですが、先ごろの地震で倒れて しまったようでした。
ヘラクレスHeraklesの神殿は前2世紀ごろのもの。ヘラクレスはゼウスとペルセウスの孫のアルクメネとの間に生まれた半神半人の英雄で、その怪力か らさまざまな武勇談が神話に残されています。亡くなった後にオリンポスの神々に迎えられ、人々から崇拝されるようになりました。ここでは、後2世紀から3 世紀のモザイクで飾られた床の一部を見ることができます。

街の中心部にあるせいか、遺跡にしてはめずらしく各国の観光客でにぎわっていました。入口に字がかすれたような案内板があり、所々に建造物の解説パネルが 設置されています。それでも遺跡自体が広いため、構内に散在する遺構が何なのかわかりにくい感じがしました。売店等の付属施設はありません。炎天下に構内 を延々と歩くのはなかなかきびしいものですが、敷地を出るとすぐ近くにエレフセリアス広場に出ます。広場にはカフェやレストランがあるので、見学が終わっ たらそちらに直行して、ゆっくり休憩することにしましょう。〈2018.7.29〉








アスクレピオン



聖泉



公衆浴場やストア跡



大階段



全体図



ローマ神殿



遺構



イオニア式神殿

月曜日休館・8:30〜15:00
コスの街から南東へ4キロ、人里離れた小高い山の頂上にアスクレピオンがあります。アスクレピオンはギリシア神話で医神と呼ばれるアスクレピオス Asklepiosを祀る聖域であると同時に、ヒポクラテスが考案した治療院や医学校を備えた一大医療センターです。ここの他には、トルコのベルガマ(ペ ルガモン)にも残されています。
コスのアスクレピオンは、ヒポクラテスを記念して前4世紀に建造されました。実に壮大な建築物です。全体は3層になっており、1層目は入口、公衆浴場や列 柱廊建築、2層目はイオニア式神殿やローマ時代の神殿、集会所など、3層目にアスクレピオスの神殿と、神殿を囲むようにコの字型の病棟があります。 1902年にドイツ人考古学者が発見し、1930年からイタリアの考古学チームによって発掘調査が始まりました。

1層目にある大階段脇の連続するアーチの壁が、遠目にも印象的です。右から三番目のアーチだけ少し大きく、奥の壁から水が湧き出るようになっています。こ の時は水が少なく、かすかに染み出すぐらいという感じでしたが、そこだけシダが青々と茂っていました。下が水盤状になっているので、本来ならば滔々と水が 流れていたことでしょう。参拝者はまずここで身を清めて入場していたのかもしれません。
周囲にある公衆浴場や建物はかなり広範囲にわたっています。その規模を見ると、医療施設でありながらも相当数の人々がここで生活していたようです。
2層目のイオニア式神殿は前3世紀、ローマ神殿は後2世紀から3世紀の建造。ローマ神殿に残る白い列柱が美しく輝いています。集会所や談話するための半円 形のベンチなどもあり、治療を受ける人々は静かで平和な療養生活を送っていた様子が伝わってきます。





エーゲ海を望む



アスクレピオスの神殿



神殿の柱



牛のモティーフ



ライオンの彫刻



フラグメント



神殿裏



看板



バス停近く

3層目まで登ると、眼下にコスの街とエーゲ海が広がっています。さらにその先に見えるのはトルコ領。素晴らしい眺めです。ヒポクラテスの治療法には物理的 な方法ばかりではなく、現代で言う音楽療法やリラクゼーションなど、メンタルにかかわる療法も多く採り入れていたそうです。もしかしたら、この美しい景色 にも病気を治す効果があったのかもしれません。さまざまな治療が行われていたという病棟は、残念ながら現在残っていませんでした。

神話によると、アスクレピオスは詩歌や音楽、予言の神アポロンとギリシア中部テッサリアの王女コロニスの間に生まれました。彼は半人半獣のケンタウロス族 の賢者ケイロンに育てられ、とりわけ医術に優れた才を発揮します。それは死者を蘇らせるほどのものだったため、人間の領域をはるかに越えた行いとして神々 の怒りを買い、ゼウスの雷に打ち殺されてしまいました。とはいえ、病気で苦しむ人々を救った功績は認められて蛇使い座となり、医神として崇拝されるように なったということです。
アスクレピオスの杖には一匹の蛇が巻きついています。これは医療の象徴として、現代でも病院や薬局などでよく見られます。蛇は脱皮しながら成長することか ら、死と再生のシンボルでもありました。また、アスクレピオスが亡くなってから蛇使い座になったということにも関連性がうかがえます。

たいへん素晴らしい保存状態で、見応えのある遺跡です。堂々とした階段、その上にそびえ立つ神殿。アスクレピオスの功績とヒポクラテスの偉業を称えるにふ さわしい建造物として、深い感銘を受けます。案内図や解説パネルは完備され、当時の再現図や発掘時の写真などもあり、理解が深まります。

ひとつ妙なパネルがありました。飲食喫煙禁止、遺物の持ち出し禁止、水着禁止というのはわかりますが、一番下の図は何なんでしょうか。柱の上に登って踊る な?見学するうちにだんだん人が増えてきて、なかにはテラスに腰掛けて休憩したり、テラスに登って景色を眺めようとする人も出てきます。すると間髪を入れ ず制服姿の警備員が鋭く笛を吹き、降りるように注意します。謎の図はどうやら、「遺跡保護と安全のため各層のテラスに登るな」ということのようでした。暑 いさなかに監視する警備員は不機嫌そうで、時折怒鳴ったりしていましたが、パネルの絵はコミカルでユニーク、悪くないと思います。

構内にお手洗いはあるものの、売店や休憩所はありません。付近に民家はなく、うねうねと山道が続くばかりです。日よけ対策と飲料水をお忘れなく。 〈2018.7.29〉

〈この項続く〉