マルマラ地方
◆ブルサ Bursa
マルマラ海Marmara
Denizはエーゲ海と黒海の間、ボスポラス海峡とダルダネス海峡にはさまれた内海です。古代名はプロポンティスPropontis。大理石(トルコ語で
mermer)の採れる島があったことから、マルマラという名前がつきました。
トルコ北西部に位置するこの地域一帯がマルマラ地方です。イスタンブールはもちろん、ヨーロッパ側にはエディルネ、テキルダー、ガリポリ(ゲリボル)、ア
ジア側にはブルサ、イズニック、チャナッカレ、トロイといった街があります。
マルマラ地方のアジア側はかつてビティニアBithyniaと呼ばれていました。ヨーロッパ側はトラキアThraciaの一部だったため、現在でもトルコ
ではこのあたりをトラキアTrakya地方と呼んでいます。
気候は温暖でヨーロッパ側はヒマワリやブドウの産地。ワインやラクはもちろんブランデーも作られています。夏には青いマルマラ海を背景に、なだらかな丘陵
地帯一面に黄色いヒマワリ畑が広がります。アジア側のブルサ周辺は一大工業地帯になっています。
この地方の世界遺産はイスタンブール歴史地区(1985年)とトロイ遺跡(1998年)。いずれも文化的遺産として登録されています。
〈2011.9.25.〉
また、2011年7月、あらたにエディルネのセリミエ・ジャーミーが「セリミエ・モスクと
その社会的複合施設群」として世界文化遺産に登録されました。〈2014.5.2.〉
16世紀街道沿いの風景
エディルネはトルコのヨーロッパ側、ギリシャとブ
ルガリアに国境を接する街です。ローマ時代はハドリアノポリス Hadrianopolis
と呼ばれていました。14世紀にはオスマン帝国の首都として栄え、15世紀イスタンブール遷都の後も重要な都市として発達しました。現在もオスマン時代の
すぐれた建造物が多く残されています。現在の人口は約13万。オイル・レスリングでも有名な街です。
ローマ時代にこの一帯はトラキアと呼ばれていたため、イスタンブールとエディルネを結ぶ幹線道路には「トラキア自動車道」という名前がついています。この
高速道路を使うと、イスタンブールから224キロ、所要約3時間。日帰り観光が十分可能です。しかし09年の旅行では一泊二日の日程で「寄り道たっぷりプ
ライベートツアー」を敢行してみました。
というのも、エディルネに行きたいとフズリさんに相談したところ、高速ではなく16世紀の街道を使って、途中に点在する宿場町を見物しながら行くというプ
ランを提案してくれました。普通の観光旅行では行かないような場所に行ってみたかったので、案内をお願いした次第です。
行程としては以下のようになりました。
1日目 :
朝イスタンブールを出発。ビュユックチェクメジェBuyukcekmece、シリヴリSilivri、テキルダーTekirdag、リューレブルガズ
Luleburgaz、ババエスキBabaeski、ハヴサHavsaなどに寄りながら、夕方エディルネ着。
2日目 : ゆっくりエディルネ観光。午後に出発して夕方イスタンブール着。
往路はほとんどガイドブックにも載っていない街ばかり行きましたが、どこも街道筋の歴史ある街だけあって、なかなか見応えがありました。派手な観光地とは
また少し違った街の雰囲気が印象に残っています。
イスタンブール県、テキルダー県、エディルネ県を
横断する旅行だったので、ルート的に関連しているエディルネのページでご紹介したいと思います。〈2009.9.22〉
歩行者専用
橋桁
イスタンブール中心部から30キロほど西にある湖の町。この広大な湖は道一本へだててマルマラ海に面しているため、悪天候のときには海水が混ざってしまい
ます。それでも一応湖で、イスタンブール市の水瓶の役目を果たしています。
08年から09年にかけての冬は雨が多かったため、いつもより水位が上がっているとか。イスタンブールは毎年夏になると水不足に悩まされるので、この夏は
安心だとフズリさんは喜んでいました。
この湖の一端に歩行者専用の長大な橋がかかっています。全長635メートル。オスマン時代の建築家、ミマール・スィナン Mimar Sinan
(1489-1588)の設計です。1565年着工1567年完成。現役の橋であるというところが素晴らしいですね。下手な現代の橋よりもはるかに堅固に
できているということでしょうか。橋桁のフォルムも独特な美しさです。
ケルヴァンサライ
内部にはベンチが並んでいます
この橋のあたりは公園になっていて、散歩をするとなかなかいい気分です。敷地内にはかつてのケルヴァンサライ(隊商宿)が文化センターとして保存されてお
り、現在は催し物の会場などに使用されています。開館には早い時間だったのですが、フズリさんが事前に連絡をしておいてくれたので、内部を見学することが
できました。
希少なミナーレ
同じ街のなかに、スィナン設計のソクルル・メフメット・パシャ・ジャーミー Sokullu Mehmet Pasa Camii
があります。完成は1567年。壮大な寺院というわけではありません。ミナーレも高くそびえる尖塔ではなく、石段を数段登ってちょっとあたりを見回す、と
いった感じの可愛らしさです。しかしこのミナーレはひとつの石を彫り出して作られたというめずらしいもので、こういうミナーレは他にはエジプトに一例しか
ないそうです。〈2009.9.22〉
青が美しいステンドグラス
こぢんまりとした寺院です
マルマラ海を左に見ながら、さらに西に行くとシリヴリの街があります。イスタンブールから約65キロ。夏の別荘地として知られているところです。
ここにもスィナンが設計した寺院、ピリ・メフメット・パシャ・ジャーミー Piri Mehmet Pasa Camii
があります。1517年完成。ちょうど午前中の光が外から射し込んでいて、美しいステンドグラスを見ることができました。
バロック様式風のミナーレ
このジャーミーのミナーレも特徴的です。一本しかありませんが、塔の上部の周囲に縁取りのような装飾が施されています。これはスィナンが、ヨーロッパのバ
ロック建築の手法を意識して取り入れたものと考えられています。たしかにヨーロッパの建築にはこういう装飾が多く見られますね。塔の上の方にちょこっと、
というところが控えめというか奥ゆかしいというか。〈2009.9.22〉
09年3月、ガイドのフズリさんに案内してもらって、イスタンブールから一泊旅行に出かけました。途中でさんざん寄り道しながら、暗くなってから市内中心
部のホテルにチェックイン。部屋でしばし休憩した後、夜の街に繰り出します。わたしたちが休んでいる間、フズリさんは近所のおいしいところを下見してくれ
たようです。その結果、観光客が行くレストランではなく、街のひとたちがいつも通っている食堂で晩ごはんを食べることになりました。今夜の食事は魚料理。
本来いわゆる食堂(ロカンタ)ではアルコールを出しません。持ち込みも禁止です。でもこの店では、外で買ったアルコールを持ち込むことができました。エ
ディルネは昔からヨーロッパとの交流が盛んな場所だったため、今でも自由な雰囲気を強く残しているそうです。だからこういうことができたのかもしれませ
ん。
魚屋のカウンターで物色中
食堂近くの食料品店でトルコ産ワインを調達。それを抱えて目的地に向かいます。
まず、魚屋のカウンターのようなお店に行きます。ウィンドウに本日の魚が数種類並んでいます。それを見て魚を選び、料理の仕方を注文します。料理の仕方と
いっても焼くか油で揚げるぐらいですが。10センチほどの鯵がよさそうだったので、それの唐揚げと炭火焼きを頼みます。
その後、魚屋の二軒隣の二階建て食堂に入ります。お店のひとは暑いか寒いかを気にして、エアコンの調節などをしてくれて親切です。
前菜も何もないと言われましたが、いつの間にか山盛りのサラダが出てきました。まずはそれをつまみに乾杯。籠にてんこ盛りのパンはもちろんおかわり自由。
あれこれおしゃべりしているうちに、どさどさと魚が載ったお皿が出てきました。とても新鮮な鯵で、素晴らしく美味です。炭火焼きはたんに塩を振って焼いた
だけ。唐揚げはほとんど素揚げに近い状態です。レモンをたっぷり絞って、手づかみでむしゃむしゃといただきます。身はふっくらとして、甘みさえ感じられま
す。
総じて日本の魚は世界的に高水準ですが、トルコの魚もあなどれません。同じ鯵でも産地が違うと味も違うようで、日本にいるときはあまり鯵を食べないわたし
も、ばくばくとむさぼり喰ってしまったのでした。
魚には通常白ワインですが、トルコの赤ワインは魚にも合います。軽くてすっきりした味わいです。おいしく魚をいただいた後、チーズと果物のお皿が出てきま
した。フズリさんがチーズを頼んでみたら、お店のひとが近所で買ってきてくれたそうです。写真右の出来の悪い豆腐みたいなものがそれです。
このチーズがまた、何故こんなにおいしいのかわからない。「ベヤズ・ペイニルbeyaz
peynir」(白いチーズ)と呼ばれる軽くプレスしたフレッシュチーズで、塩味が効いています。おもに山羊や羊のミルクで作られます。ベヤズ・ペイニル
はトルコ全土でさまざまな種類がありますが、エディルネ周辺はとくにおいしいものができるので有名なのだそうです。これはシェーブルより柔らかい食感で、
見た目よりもしっかりした味と香りでした。
途中で地元のひとたちのグループが入ってきました。やはり同じようにアルコールを持ち込んで宴会をしています。彼らは「ラクraki」を飲んでいました。
ラクはトルコの蒸留酒。アニスの香りがして、水を入れると白濁します。フランスのパスティスやリカールに似ています。魚料理に合うとされていて、トルコで
は「ラクがないと魚が悲しむ」というようなことわざがあるそうです。
それにしても、彼らの飲みっぷりはなかなかのものでした。この日はサッカーの試合があったから、ひょっとしてひいきのチームが勝ったお祝いだったのかしら
ん…?
おいしく飲んで食べて三人ともお腹いっぱい大満足。メモ用紙に書かれたお勘定を見て一瞬絶句!サラダ、鯵4皿、外部調達のチーズ、持ち込み料合わせて40
リラ(約2400円)!フルーツはおまけだそうです。
この上なくしあわせな晩ごはんでありました。〈2009.7.26〉
無休。ミマール・スィナン Mimar Sinan(1489-1588) 設計。1568年着工、1574年完成。
オスマン建築の最高峰といわれるセリミエ・ジャーミーは、セリム2世の命を受けて建造されました。生涯に500近い建築物を設計したスィナンは、この
ジャーミーが自分の最高傑作だと語っていたそうです。本当に美しいフォルムの寺院です。天井のドームは高さ43.28メートル、直径31.30メートル。
イスタンブールのアヤソフィアを超える大きさの寺院を造ろうと意図されました。周囲には病院、学校、市場、ハマムなど、キュルリエkulliyeと呼ばれ
る寺院付属の総合施設も残されています。
左手にミンベルが見えます
天井のドーム
イズニックタイル
内部は窓が多く、広々とした空間を明るく見せています。ミンベル(説教壇)はひとかたまりの大理石を掘り出した見事なものです。壁のイズニックタイルはど
れも精巧なものばかり。二階には、林檎の花をモティーフにしたとてもめずらしいタイルもありました。
不思議なことに、堂内中央に水盤をおおうようにして段がしつらえてあります。これは本来こういう場所に作るものではありません。そもそも礼拝するのに邪魔
です。このジャーミーを作る際、クライアントがさまざまに横やりを入れたため、腹を立てた設計者が不満の意を込めてわざわざ真ん中にこれを配置したそうで
す。それでも最高傑作だというところが、さすが。
水盤上の段の支柱の一つに、下を向いたチューリップが彫られています。下を向いているため、地獄につながっているとか、何かの呪術の印だなどという噂が
あったそうです。実はこれはそんな恐ろしげなものとは関係ありません。この広大な寺院を建てるため、当時ここに住んでいた人たちは立ち退かなければなりま
せんでした。そのうちのある老婦人は、自分の亡くなった家族の思い出がたくさんあるこの地を離れるのがつらく、最後まで残ろうとしたそうです。結局彼女も
最後は別の場所に移ったわけですが、婦人の思いに深く感じ入った関係者は、彼女のために一輪のチューリップを柱に残した、というお話が伝えられています。
このジャーミーは1913年に砲撃を受けたものの、たいへん頑強に作られていたのでほとんど壊れることはありませんでした。唯一天井のドームにその痕跡が
残っています。中心の青い装飾部分の外側、左斜め上あたりに、わずかに塗装が剥落している部分が見えます。後世に戦争の事実を伝えるため、あえて修復しな
いでそのままにしてあるそうです。〈2010.7.26.〉
「長い橋」
エディルネから南に50キロほど下ったところにウズンキョプルUzunkopru
という町があります。ギリシアとの国境に位置する町で、鉄道が通っています。まだ少し時間がありそうなので、そこに寄っていきましょうとフズリさんが車を
走らせてくれました。
この町のはずれに「ウズンキョプル」という名前の長大な橋があります。ウズンキョプルは「長い橋」という意味。要するにそのまんまです。全長1329メー
トル、石造りのアーチは174あります。17年という長い年月をかけて1443年に完成しました。設計はムスリヒッディンMuslihiddin。
1963年に一度修復されていますが、今も現役の橋で、車がびゅんびゅん走っています。ゆるやかに長く美しいカーブを描いています。曲がっている橋という
のはめずらしいですね。橋桁の一箇所だけ張り出しているところに、動物の彫刻が彫られています。下を流れるのはエルゲネ川 Ergene
Nehri。かなりの水量で、どうどうと音を立てて勢いよく流れています。
しばし川辺からうっとりと眺めていたのですが、ふとあることが気になりました。橋ができる前にここに町があったのなら、何という名前だったのでしょうか。
あるいは橋ができて便利になったから町ができたのかもしれませんが。
夕暮れのトゥンジャ川
写真撮影に熱心な観光客
その後夕闇迫るころエディルネに入りました。眺めのいい場所があるから、と連れて行ってくれたのがトゥンジャ川Tunca
Nehriにかかる橋です。橋の中ほどに四阿のような屋根つきの場所がついています。かつてのチェックポイントだったのでしょうか。ちょうど日が沈む時間
で、夕日スポットになっているらしく、たくさんの観光客が写真を撮っていました。
橋の上からの景色は素晴らしいものでしたが、橋の上にいると肝心の橋の写真が撮れません。エディルネには他にも歴史的建造物といわれる橋がたくさんあるの
で、機会があればそれらをのんびり見て回るのも楽しいかもしれませんね。〈2010.7.26.〉
ブルサの街
ムダンヤ港
ブルサは、イスタンブールからマルマラ海をはさんだ対岸、ムダンヤMudanyaから少し入ったところにあります。イスタンブールのイェニカプ港からフェ
リーが出ていますが、2012年からカバタシュからの航路もできて便利になりました。
イスタンブールから日帰りで行けるので、内外の観光客に人気のある街ですが、できれば一泊したいところです。ここは古代ローマ時代から温泉の街、今も温泉
の湧くハマムやスパホテルがたくさんあります。トルコのハマムは通常蒸し風呂式で浴槽はありません。しかしブルサのハマムはお湯をたたえた浴槽つきです。
水着着用で入るため、温泉プールのような感じになります。日本の温泉とは趣が違いますが、天然のお湯にゆったりと浸かるのはうれしいものです。
2013年夏の終わりに、やっとこの街を訪れることができました。
「緑のブルサ」
柿はトルコで「トラブゾンのナツメ」と呼ばれ
ています
街の歴史は古く、古代ギリシア時代にはキオスCiusと呼ばれていました。紀元前202年にマケドニア王国からビティニアのプルシアス王Prusiasに
与えられ、「プルサPrusaになります。現在の「ブルサ」という名前はこれに由来しています。前74年以降ビザンティン帝国のもとにありましたが、
1326年オスマン帝国に支配され、オスマン帝国最初の首都になりました。そのため街には、オスマン朝初期の歴代スルタン廟が多く残されています。
シルクロードの街として古来より商業が盛んで、とくに絹織物の取引で有名でした。現在は繊維業の他に、トルコ自動車産業の中心地とされています。人口は約
274万人(2013年)。トルコで4番目に大きな都市です。
とはいえ実際に街の中心部を歩いてみると、商工業の都市という感じはあまりしません。ブルサは別名「緑のブルサyeşil Bursa
」と呼ばれるように、街には緑があふれ、静かで落ち着いた雰囲気が漂っています。街の南東にあるウル山Uludaĝは標高2543m、冬はスキー場として
人気のあるスポットです。この山は古代には「ミュシアMysiaのオリンポス」と呼ばれ、ギリシアの神々はここからトロイア戦争を観戦していたという神話
が残っています。
ウル・ジャーミー
内部のカリグラフィー
ミナーレ
コザ・ハン
コザ・ハン内部
さすがにオスマン時代初期の建造物がたくさんあります。街で一番大きなウル・ジャーミーUlu
Camiiは、ベヤズット1世の命によって1402年建立されました。様式としてはセルジュク様式の色が濃い寺院で、ミナーレなどにもそれが反映されてい
るようです。シャドゥルヴァンŞadırvanと呼ばれる泉が屋内に置かれています。アラブ圏では寺院内部に泉が配置されているタイプが多くありますが、
トルコではあまり見かけません。浄めの泉はたいてい屋外にあります。この水はウル山から引かれているそうです。総大理石の美しい泉なのに、「靴下で入る
な」とか「女性が入るのは禁止」などと書いてあって、やや興ざめ。壁には見事なカリグラフィー(アラビア書道)がたくさん飾られています。
ウル・ジャーミーのすぐ近くにコザ・ハンKoza
Han(繭の商館)があります。名前の通り、かつて繭や絹の取引所だった場所で、1491年ベヤズット2世によって造られました。現在は絹製品を扱う店が
集まるバザールになっています。イスタンブールより安いともっぱらの評判で、「シルクのスカーフは何枚も持っているけれど、ここに来るとやっぱりまた買っ
ちゃうよのね〜」と買い物好きの友だちはうれしそうです。見るとつい買いたくなる気持ちはよくわかります。
コザ・ハンの裏手にはバザールが広がっており、綿製品の店などが軒を連ねています。
イェシル・ジャーミー
印象的なイェシル・テュルベの外観
テュルベ内部
扉の意匠
さらに東に行くと、イェシル・ジャーミーYeşil Camiiとイェシル・テュルベYeşil
Turbeが隣りあっています。いずれも「緑のジャーミー」「緑の霊廟」という名前です。
ジャーミーはメフメット1世によって1424年に建立されました。オスマン初期の寺院建築を代表する美しさです。内部の装飾やミフラーブのタイルは緑とい
うよりも青に近く、静謐な空間を作りあげています。ひっそりと涼やかな水底にいるような気持ちにさせられます。このジャーミーにもシャドゥルヴァンがあり
ました。
イェシル・テュルベはターコイズブルーに輝く八角形の建物です。1421年メフメット1世の建立。ブルサのシンボルとして、当時は街のどこからでも見られ
る場所に建てられたそうです。堂内にはメフメット1世とその家族の棺が置かれています。棺の深い青と金色に輝くカリグラフィーはすぐれて芸術的。ミフラー
ブや細部の装飾の繊細さにも驚かされました。〈2014.5.2.〉
オスマン廟
オルハン廟
オルハン廟の床に残るモザイク
樹齢約600年のプラタナス
ウル・ジャーミーから西に歩くと、トプハーネ公園の近くにオスマン廟とオルハン廟が並んでいます。オスマン帝国初代と2代目スルタンの霊廟です。両方とも
ビザンティン時代の聖エリー修道院の一部を使って建てられましたが、1855年の地震で倒壊。現在の建物は1863年に修復されたものです。ビザンティン
修道院の面影はほとんど残っておらず、オルハン廟の床のモザイクがわずかにそれを伝えています。
街から少し山に入ったところに、樹齢595年という巨大なプラタナスの樹があります。プラタナスは日本では鈴掛の木(スズカケノキ)と呼ばれることが多
く、並木道や公園などでよく見られます。しかしこんなに大きく茂ったプラタナスにはちょっとお目にかかりません。日本のプラタナスは少し種類が違うようで
す。
ここの樹は巨大になりすぎて自力で枝を支えきれず、つっかえ棒で何とかもっているという箇所も見られました。周囲は人々の憩いの場になっており、お茶やト
ルコ版お焼きのギョズレメといった軽食を出す店も並んでいます。本当に緑ゆたかな街だと実感できる場所でした。
にぎやかなレストラン街
前菜各種
毎度おなじみ鰯の唐揚げ
ブルサといえば、マロングラッセkestane şekeriとイスケンデル・ケバブが有名です。
マロングラッセは瓶詰めやチョコレートをかけたタイプなどいろいろあります。いずれもフランスやイタリアのものとは違って、リキュールを使っていません。
ドライタイプの栗の甘露煮みたいです。イスタンブールでも買えますが、やはり地元の方が安いようです。
イスケンデル・ケバブはドネルケバブにトマトソース、ヨーグルト、溶かしバターをかけたもの。トルコでは普通ケバブ類にソースを使わないので、その意味で
はちょっと珍しい料理です。街にはこのケバブ専門の本家と元祖があって、人気を二分しているとか。「イスケンデル」とはアレクサンダー大王のことですが、
19世紀にこの料理を発案したひとの名前に因んでいるそうです。
この機会にぜひイスケンデル行こう!と思ったのですが、何分まだ暑い時期だったことに加えて温泉にどっぷり浸かってしまったせいか、いささかぐったり気味
になってしまいました。こんな状態で見るからに迫力ある肉料理をクリアする自信はなく、ホテルで教えてもらったシーフードレストラン街に出かけました。海
にほど近い街なので、魚料理専門店が集まっているエリアがちゃんとあります。
行った先は狭い路地にこぎれいなレストランが並び、流しの楽隊なども入って盛り上がっていました。イスタンブールの有名なシーフードレストラン街によく似
た雰囲気。とはいえ、イスタンブールのように観光客が多い感じではありません。地元のひとたちが楽しそうにやっています。適当な店に入って、サラダ風の前
菜と鰯の唐揚げでラクを一杯。鰯の旬は冬なのでどうかとも思いましたが、まぶしてあるとうもろこし粉の衣も薄く、あっさりお腹におさまってしまったのでし
た。次回はぜひ冬に来て、たっぷり温泉とこってりイスケンデルに挑戦してみましょう!〈2014.6.27.〉
ペ
リントス(ヘラクレイア) Perinthos (Heracleia)
考古学公園
フラグメント
2世紀ごろの石棺
公園内
ペリントスはイスタンブールから西に約90キロ、エディルネへ向かうトラキア街道を途中で南に下ったマルマラ海北岸にある遺跡です。テキルダー県の県都テ
キルダーからは、東に30キロほどのところに位置します。
紀元前6世紀ごろサモス人が街を興し、一時アケメネス朝ペルシャに属しましたが、その後ギリシアの都市国家同盟のひとつであるデロス同盟の成員となりま
す。前202年マケドニアのフィリッポス5世に征服されてペルガモン王国に従属、前2世紀末にローマの支配下に入りました。
街の名称は3世紀ごろペリントスからヘラクレイアHeracleiaに変わり、これが現在のトルコ語の地名マルマラ・エレーリシMarmara
Ereğlisiに連なっています。「マルマラ海のヘラクレイア」というほどの意味でしょうか。ヘラクレイアはギリシア神話に登場する半神半人の英雄ヘラ
クレスに由来する名前で、世界各地に同名の街があります。トルコでは他に中央アナトリア地方のコンヤ県、黒海沿岸地方のゾングルダク県にもヘラクレイアと
いう古代都市がありました。
ここは2つの自然港に恵まれ、早くから商業的、軍事的拠点として栄えました。遺跡はこぢんまりした町のなかに点在しています。町の中心部に「考古学公園」
があり、列柱の一部やローマ時代の石棺、水道管の一部などが置かれています。これらは最初からここにあったわけではなく、それぞれ発掘された場所から移さ
れたようです。構内の案内板に、城壁や水道施設、貯水池、聖泉、アクロポリスの家々などが残っているとありましたが、場所がわからず訪れることはできませ
んでした。
道の真ん中
バシリカ
劇場跡
菜の花
公園の近くに、5世紀末建造のバシリカがあります。初期ビザンツ様式のバシリカの好例とみなされ、メインホールの床は美しいモザイク、壁はフレスコ画で飾
られていました。発掘調査中で敷地内に立ち入ることができませんが、1400平方メートルとかなり大きな規模のものです。出土品は現在テキルダー市内の考
古学博物館に所蔵されているということでした。
付近の道路に妙な建造物が鎮座していました。交差点の真ん中、どう見ても交通の妨げになる場所です。遺跡の一部として保存されているものなのでしょうか。
貯水池か何かだったのかもしれませんが、現在は猫の住まいになっているようでした。
港の裏側、高台の斜面に劇場跡があります。犬を連れて散歩をしていたご近所の方が教えてくれなければ、劇場跡だとわかりません。海に直面してなだらかな傾
斜がくぼんでいるだけです。よく見ると、観客席の跡とおぼしき凹凸がかすかにわかります。下にある道一本の先は断崖。本当に崖っぷちの劇場です。かなり高
い場所にあるため、当時港に近づいてきた船は遠くからその姿を認めることができたでしょう。ペルガモンの劇場のように、半円形ではなく扇形の劇場だったよ
うに見えます。11月なのにあたり一面に菜の花が咲き乱れ、甘い香りが漂っていました。
港
海に面したカフェ
マントゥ
マルマラ・エレーリシはイスタンブールから近い割に海がきれいなため、夏場には海水浴客でにぎわい、海岸沿いの通りには観光客向けのホテルやレストラン、
カフェなどが並んでいます。夏の週末、夕方になると海辺でのんびり過ごした人々がイスタンブールへ帰るため、道は混雑してひどい渋滞になるそうです。
季節外れの閑散としたレストランのひとつで、お昼にマントゥを頂きました。マントゥは奇岩で有名なカッパドキアに近いカイセリの名物料理。指先ほどの小さ
な水餃子にヨーグルトやハーブなどをかけた家庭料理で、トルコ全土で食べられます。マルマラ海を眺めながら頂いたマントゥ、皮がもちもちしてなかなか美味
でした。〈2018.1.29.〉
〈この項続く〉
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