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 iç anadolu

  中央アナトリア  

カッパドキア Kapadokya
ディヴリーイ Divrigi
シヴァス Sivas


中 央アナトリア Iç Anadolu Bölgesi

中央アナトリアはその名の通り、トルコのアジア (アナトリア)側の真ん中に位置しています。トルコ全土の約2割を占める広大な地域で、カッパドキア、シ ヴァス、コンヤ、アンカラ、エスキシェヒルといった街があります。アナトリア高原にあるため標高が高く、夏は乾燥が続き、冬は雪が降りますがそれほど多く ありません。一日の寒暖の差が激しい地域です。
シルクロードの経路として昔から交易がさかんな地方でした。新石器時代の集落跡も発見されています。その後紀元前1700年ごろからヒッタイト、フリギ ア、ペルシア、セルジュク、モンゴル、オスマンとさまざまな帝国に支配されました。カッパドキアCappadocia、フリギアPhrygia、ガラティ アGalatia、リカオニアLycaoniaなどといった古代都市はほぼこの地方に含まれます。
森林限界を越える地帯が多く、赤茶色の高地にブッシュが点在し、その合間に羊や山羊が遊んでいる光景を目にします。山々は険しく、カッパドキアから見える エルジエス山は3971メートル。起伏に富んだ自然の景観が楽しめます。黒曜石、小麦、綿などの産地です。冷涼な気候のため、すっきりしたおいしいワイン も作られています。
カッパドキアは1985年複合的世界遺産として、ディヴリーイのウル・ジャーミと病院も同年文化的世界遺産として登録されました。アンカラの東にあるヒッ タイトの遺跡ハットゥシャシュは1986年の登録です。〈2011.9.25.〉



  ギョレメ Goreme

カッパドキア名物

カッパドキア名物(※)


(※)

妖精の煙突

にょきにょきとした岩窟は「妖精の煙突」と呼 ばれています(※)

土産物通り

ギョレメの南、カイマクル地下都市に向かう途 中の土産物通り (※)

カッパドキアはトルコ観光の目玉で、イスタンブー ルから一泊ツアーで訪れるひともたくさんいるところです。カッパドキアという地名は行政上の地名ではなく、「カッパドキア地方」という意味で使われていま す。
観光の名所とはいえ、このときは12月も半ば過ぎ。どこに行っても観光客でごった返すということはなく、ゆったり見学することができました。寒い季節だか らということもあるのでしょう。お天気はとてもよかったのですが、夕方日が暮れるころには氷点下近くになりまし た。日中でもところどころうっすらと雪が残っています。売店のお兄さんたちも、一行が通るときにちょっと外に出てきて声をかけるだけで、あまりご商売熱心 ではありませんでした。〈2009.7.26.〉



ギョ レメ屋外博物館 Goreme Acik Hava Muzesi

博物館入り口

博物館入り口(※)

岩山の教会

この岩山のなかに教会が隠されています(※)

ギョレメは「見てはいけない」という意味です。 ローマ時代に迫害され逃れてきたキリスト教徒たちは、この地の奇岩に穴を穿って隠れ住んでいました。この地名は、そんな彼らを見てはいけない、ということ だったのでしょうか。
キリスト教の岩窟教会がたくさん残されています。教会の他に修道院や食堂、厨房などがあり、すべて岩窟内部に点在しています。それぞれの教会は「蛇の教 会」「サンダルの教会」など、内部のフレスコ画や装飾の特徴から名前がつけられています。11世紀から12世紀ごろのフレスコ画には、色がきれいに残って いるものが多くありました。
トルコにはこうしたキリスト教関係の遺跡が多く残されています。そういう場所には、やはりキリスト教圏のひとびとが多く訪れるようです。このときもフラン ス人グループが熱心に見学していました。〈2009.8.26.〉



カッ パドキアのお昼ごはん

岩窟レストラン

岩窟レストラン(※)

鱒の塩焼き

鱒の塩焼き(※)

カッパドキアでは、ギョレメの北にある町アヴァノ スAvanos の岩窟レストランで昼食をとりました。山というか丘というか、そのふもとに立派な入口があります。枯れ草に覆われた斜面からいきなり煙突が突き出してい て、煙がたなびいています。
レストランの名前はウラノス。 ウラノスはギリシャ神話の天空の神で、地の神ガイアの夫です。地面のなかのお店に、地の神ではなくその夫の名前をつけるというのは、ちょっとした遊び心で しょうか。海苔巻きとお稲荷さんの詰め合わせを「助六」というみたいに…(?)。
内部は明るく広く暖かく、たいへん快適でした。
トルコ沿岸部では海の魚をよく食べますが、内陸部には川魚があります。とはいえ、やはり内陸部のひとたちはあまり魚を好まないそうです。アヴァノスにはク ズル・ウルマックKizilirmak(赤い河)というトルコで一番長い河が流れています。全長1355キロ。昼食の鱒はこの河で採れたものかどうかはわ かりませんが、しっとりと脂がのっていて美味でした。
テーブルには何故か中国製と思われる醤油の瓶が置いてあり、付け合わせのピラウpirav (炊き込みご飯)とともに「鱒の塩焼き定食」といったおもむきです。ピラウに混ざっている茶色の米粒状のものは、米粒型のパスタ。お米とショートパスタを 一緒に調理してしまうなんて、ちょっとびっくりする発想ですね。〈2009.8.26.〉



ディ ヴリーイ Divrigi
 


ディヴリーイの町



ウル・ジャーミー。城塞の中腹から。

ディヴリーイは中央アナトリアのカッパドキアから東へ約500キロの山あいにある小さな町です。
この地方で一番大きいシヴァスからミニバスで山道を行くこと約2時間半。バスはシヴァスのターミナルから3時間おきに出ています。あまり便利のいいところ ではありません。周辺の村落もあわせて人口1万2000人という牧歌的な町ですが、ここには1985年世界遺産に登録されたセルジュク時代の大きなジャー ミーがあります。



  病院入口の西門



  北側「天国の門」



  北門の越境するモティーフ



  生命の木

ウル・ジャーミーUlu Camiiは1229年、周辺を統治していたメンギュジュク朝のアフメット・シャーAhmet Sahによって建てられました。建築家はトルコ東部のワン湖沿岸アフラットAhlat出身のヒュッレム・シャーHurrem Sah。ジャーミーの南側は医療施設Darussifaになっており、こちらはアフメット・シャーの妻トゥラン・メレクTuran Melekによって同じ時期に建設されました。一本だけあるミナーレは破損したため、後にミマール・シナンが補修したそうです。
オスマン建築を見慣れた目には驚くべき建造物です。一見すると縦横32メートル×90メートルのただの四角い箱形をした建物です。ドームも中庭もありませ ん。しかしジャーミーの東、西、北と病院の西側に計4つ巨大な門があり、いずれも装飾が圧巻。精緻な彫刻で文字通りあふれかえっています。
特に北側の門は「天国の門」とも呼ばれ、最も絢爛豪華な装飾が施されています。その大きさたるや高さ14.5メートル、幅11.5メートル、奥行き4.5 メートル。幾重にも重なるアーチには天国にあるという「生命の木」や連続する植物紋様、幾何学紋様、装飾文字がびっしり。単なる浅彫りではなく、アーチか らはみだすような立体的かつダイナミックな彫刻も見られます。
門の左下には釜から燃え上がる炎のモティーフがあります。管理人のゼキさんによると、この門を通って寺院に入る者に天国と地獄を連想させ、敬虔な信仰心を 抱かせるために「地獄の業火」を表しているとか。また、彫刻の一部に彩色跡が残っていますが、この地方では鉄鋼石が採れるので、ヘマタイトの赤色顔料が使 われていたそうです。



  ジャーミー西門にある双頭の鷲



  何となく人の影

イスラムは偶像禁止の宗教です。そのため装飾として動物の姿を描くことはありませんが、西門の脇に双頭の鷲のモティーフがあります。これはセルジュクの権 力の象徴するものです。そしてその横には首を曲げた鳥の彫刻も。こちらは時の権力者に頭を垂れ尊敬の念を表しています。イスラム建築に動物の姿があること 自体驚きですが、首をかしげたような鳥は何とも人間的というか愛らしい様子です。
さらに驚くべきことにこの西門、午後のある時間になると彫刻の影が男性の横向きの姿に見えるとか。わたしが行ったときはすでにその時刻が過ぎていてきれい な姿は見られませんでしたが、何となく彷彿とさせる感じの影が出ていました。



  ジャーミー内部



  病院内部の泉

門の過剰な装飾に比べると、寺院内部はたいへんすっきりしています。黒檀のミンベルに外の装飾と関連するような精密な彫刻が見られるぐらいです。今も現役 のジャーミーのため、礼拝時間には中に入れません。
付属する病院は、主にメンタルな病気の治療を行っていました。中央の泉には独自の潅水システムがあり、その水音が患者の心を穏やかにさせていたとか。また 泉の真上に天窓がありますが、夜に水面に映る星や月を見て天体観測をしていたそうです。二階の壁には日時計も刻まれていました。
寺院の北側の丘には城塞の跡が残っており、頂上に新しいジャーミーが建てられています。かつてはここに宮殿があり、そこから見たとき素晴らしい門が見える よう、北の門がいちばん豪華に作られたと考えられています。



  町のメインストリート



  早朝の八百屋

なぜこんな山の中の小さな町にこれほど大きな寺院があるかというと、このあたりはシルクロードに近く、鉄鋼も採れるためにかつてはたいへん繁栄していまし た。当時の人口は約10万、現在のほぼ10倍。しかしいまはその面影もありません。世界遺産とはいえ、ジャーミーの周辺には小さな売店が一軒ぽつんとある だけです。町全体もおよそ観光っ気がなく、素朴なたたずまいを残しています。この時はたまたま国営テレビ局TRTのドキュメンタリー制作隊がジャーミーを 撮影中。スタッフのひとたちから話を聞いたり、ホテルまで車で送ってもらったり、親切にしてもらいました。〈2011.8.1.〉



シ ヴァス Sivas
   


  チフテ・ミナーレ



  ブルジエ神学校



  ギョク神学校

シヴァスは中央アナトリアのちょうど真ん中あたりにある高原の街です。標高は約1300メートル。13世紀セルジュクの支配にあったため、そのころの建造 物が多く残されています。ガイドのフズリさんはこの地方の出身で したね。世界遺産のジャーミーと付属病院があるディヴリーイへ行くバスはここから出ていま す。
歴史的な建物は街の中心部に集まっていて、すべて徒歩で回れます。
街の中心にある広場ですぐ目につくのがチフテ・ミナーレ神学校Cifte Minare Medresesi。1271年、シェムセッディン・メフメット・ジュヴェイニSemseddin Mehmet Cuveyniによって建てられました。チフテはふたつ一組という意味で、その名の通り二本のミナーレがそびえ立っています。学校部分は残されておらず、 巨大な門とミナーレだけです。ミナーレに残っているタイル部分に日が射すと、そこが光って美しく見えます。現在は野外博物館になっていますが、この時は改 築中で内部に入れませんでした。たまたま知り合って案内してくれた歴史の先生は、改築するのはよいが、当時使われた素材や建築方法などを無視してただきれ いにするだけなのは問題がある、と渋い顔をしていました。
チフテ・ミナーレのすぐ隣はシファイエ神学校SifaiyeMedresesi。1217年セルジュクのスルタン、イッゼッディン・ケイカヴス Izzeddin Keykavusの建造。かつては医学学校と病院で、セルジュク時代の学校としてはもっとも古くて大きいもののひとつとされています。内部にスルタンとそ の家族の廟があります。
さらにその隣に1271年建造のブルジエ神学校Buruciye Medresesiがあります。ペルシア人ムザフェル・ブルジェルディMuzaffer Burucerdiによるものです。中庭はチャイバフチェ(カフェテラス)になっていて、昔の学生はここで勉強しましたが現代の学生はお茶を飲んでくつろ いでいます。中庭を囲む教室はクラフトセンターとして使われ、この地方のさまざまな手工芸品を製作、販売していました。
ギョク神学校Gok Medreseは街の中心部から南東へ歩いて15分ほどのところにあります。ここも改築中で立ち入り禁止でした。1271年ファフレッディン・アリ Fahreddin Aliの建造。ギョクとは天空、青空の意で、その名の通り青いタイルが装飾に多用されて印象的です。今にも雨が降り出しそうなお天気だったので、タイルの 色がいまひとつ映えなくて残念。



  ウル・ジャーミー



  ジャーミー内部



  歴史的クルシュンル・ハマム



  ベフラム・パシャの商館

歴史のあるこの街で一番古いジャーミーがウル・ジャーミーUlu Camiiです。1196年建造。アナトリアにあるセルジュク時代のものとしては、ウルファにあるウル・ジャーミーに次いで2番目に古い寺院です。ミナー レは後に加えられました。しかしこのミナーレ、何だか傾いていてちょっと心配です。内部はアーチが多用されており、幾重にも重なって美しく見えます。現役 のジャーミーです。
他にも1576年に建てられ今も営業中のハマムや、同じ年にできた商館など、ちょっと歩けば歴史的建造物に次々とぶつかります。当時たいへん力のあった街 だということがよくわかりますね。
高原だから涼しいかと思ったら、着いた日は雨になり6月末というのに気温も10度前後。涼しいどころか寒い思いをしましたが、ディヴリーイの帰りに寄った ときは晴れて高地の夏らしい一日でした。かなり大きな街ですが道ゆく人々はみんな気さくで、案内をしてくれた先生を始め地元の人たちにすっかりお世話に なってしまいました。〈2011.9.25.〉



 


  堂々たる建物です



  「共和国の礎ここにあり」



  二階にある会議室



  一階廊下に置かれた展示ブース

月曜日休館・8:30〜12:00、13:30〜17:00
チフテ・ミナーレがある広場の向かいに、ルネッサンス様式の大きな建物があります。コングレ博物館です。
第一次大戦後の1919年9月4日、連合軍のオスマン帝国分割に対してムスタファ・ケマルMustafa Kemal (アタテュルク)が国内の各方面に呼びかけ、トルコ独立のための会議が行われた場所です。これはエルズルム会議に次ぐ2回目の会議でした。
建物自体は1892年シヴァスの知事メフメット・メムドゥフMehmet Memduhにより学校として建てられ、会議の後も1981年まで高校として使われていました。博物館として公開されたのは1990年。昔はこの隣に学生 寮や校庭がありましたが、今はもうありません。屋上の煙突はもっと装飾的だったそうです。
1階は民俗誌的な展示になっており、おもにオスマン時代の装飾品、食器などが並んでいます。ディヴリーイに あるウル・ジャーミーの木製ミンベルや、キリム のコレクションなども。
2階は会議が行われた部屋、ムスタファ・ケマルの執務室、寝室などが保存されています。彼は9月2日から12月18日までここに滞在したということです。



  ウル・ジャーミーのミンベル





  オスマン時代の装飾品やガラス製品



  趣のある階段部屋と天井の装飾



  消火道具もディスプレイ?

学校だった建物をうまく利用して、こぢんまりとしたいい雰囲気の博物館になっています。天井や階段など内装も凝った造りで、当時の様子がしのばれます。教 室だった部屋や広い廊下に展示ブースが置かれ、やや照明が暗い感じですが見やすいディスプレイです。ガラスや食器類は色別に展示するなど工夫され、全体に センスよくまとめられています。階段脇の消火道具も展示物のように並んでいて、ちょっとした遊び心も感じられました。〈2011.9.25.〉

〈この項続く〉