黒海地方
◆アマスラ Amasra
◆トラブゾン Trabzon
◆東部山間部 Doĝu
Daĝları
◆リゼ Rize
黒海地方、アマスラの町
トルコの北側、黒海に面した地方で、サフランボ
ル、シノップ、サムスン、トラブゾンといった街があります。東の端はグルジアとの国境です。トルコ語で黒海
はカラデニズ(「黒い(暗い)海」の意)。日本語と同じですね。やはり地中海とはだいぶ違う印象を受けます。
湿潤温暖な気候で、トルコでは一番雨が多い地域です。海岸線にけわしい山が迫り、内陸部は山々の裾野に湖や牧草地が広がります。緑が多く豊かな自然に恵ま
れているため、夏の避暑地としてトルコ国内で人気のある地方です。ただし黒海は急に深くなっているので、海水浴には要注意。流れも速く、トルコの海では一
番危険な海だそうです。松や杉などの多い山あいの風景はどこか日本を思わせます。夏場の湿度の高さも日本並かもしれません。
この地方は古代都市のパフラゴニアPaphlagonia、ポントスPontusにあたります。一部地域では15世紀までビザンティンの流れをくむ帝国が
存続していました。青銅器時代の遺跡が発見された地域もあります。
温暖で霧が多いためお茶の栽培が盛んで、あちこちでチャイの工場を目にします。ヘーゼルナッツ、米、とうもろこしなど農作物の他に、山岳部でとれる薬用効
果のある蜂蜜が有名です。酪農も盛んで良質のバターやチーズ、ミルクが作られます。
この地方では、サフランボル市街地が1994年に文化的世界遺産となっています。〈2011.9.25.〉
古い町並み
こんな家がたくさん並んでいます
かわいい「総支配人」
サフランボルはイスタンブールからバスで7時間ほど、黒海沿岸地方の山の中にあります。オスマン時代には商業が盛んな町でした。「ボル」はトルコ語でたく
さん、豊かなという意味ですが、昔はその地方の中心的な町の名前につけられたそうです。
いまは伝統的な民家が残る町並みが世界遺産に登録され、観光でにぎわっています。とはいえ小さい町のせいか、観光客向けのホテルや土産物店が多い割に落ち
着いたいい雰囲気です。町全体に昔の面影が残っているせいかもしれません。いまだに手作業で金属製の食器や革靴などを作る職人の店も軒を連ねていました。
この町では名前の通り、かつてはサフランが多く採れたそうです。一時は非常に少なくなりましたが、最近はサフラン栽培を復活させ、町の名物にしようという
動きもあるとか。レストランではサフランづくしの料理やサフランのお茶を出します。サフランのコロンや石鹸、化粧品などを扱うお店も。写真の「総支配人」
はそんなお店の一つで。週末や夏休みにはこうしてお店のお手伝いをしています。大人顔負けの立派な仕事ぶりで、サービスも満点。この笑顔を見たらお土産を
買わずにはいられませんね。
カイマカムラル・エヴィ
一階の土間
食堂
お風呂
民家は19世紀初頭に建てられたものが多く、いくつかは博物館として公開されています。カイマカムラル・エヴィKaymakamlar Evi
もその一つです。無休、9:00〜20:00(冬期9:00〜17:30)。土台は石造りで、一階は納戸や土間、その上に土壁や煉瓦、木材を多用した居住
部分があります。窓には木の鎧戸がついていて、屋根にひさしがあるというのが特徴的です。外から見ると二階から上に張り出し部分があります。これはオスマ
ン建築に多く見られる様式です。
内部は風通しのいい夏用の部屋、女性専用、男性専用の部屋と分かれています。いずれも作りつけのソファーが窓際いっぱいに設けられ、なかなか快適な空間で
す。天井や床が板張りのせいか、暖かい家庭的な雰囲気が濃厚。壁に埋め込み式の戸棚が多く、台所で作った料理を棚に置いて、隣の部屋から取り出すという双
方向利用可能の棚もあります。ある戸棚を開けると何と中はお風呂!古い家屋では屋外や離れにお風呂があったりしますが、こんな形で屋内にあるというのは
びっくり。でも日本人としては今ひとつくつろげない感じです。
博物館やホテルになっている民家の他に、今も実際に人が住んで生活している家屋もたくさんあります。家を勝手に改造したりすることはできず、改築する場合
は昔ながらの方法でやらないといけません。行政からの補助金はそれほど多くないため修復ができず、泣く泣く家を手放す人もいるとか。確かに「売り家」の看
板が出ている建物もありました。町全体を残そうとすると、住んでいる人々には現実的な問題がついて回ります。町並み保存のむずかしさでしょう。
キョプルル・メフメット・パシャ・ジャーミー
門前市場
涼しい葡萄棚の木陰
早朝から煙たなびくハマム
町中の狭い道も伝統的な石畳。かなり大きな石が使われ、年月とともにすり減っているのがわかります。でこぼこしている上、石が滑るので観光の際は足下にご
注意。民家を見上げて気を取られているうちにずっこけている人も目につきました。
町にはかつてキリスト教の教会だったキョプルル・メフメット・パシャ・ジャーミーKoprulu Mehmet Pasa
Camii、今はホテルになっている17世紀の隊商宿、ハマムなどがあります。お土産物店がひしめく路地は葡萄棚が日よけになり、カフェなども出て恰好の
お休みどころ。町の西側の城塞跡には歴史博物館や時計台、旧刑務所の建物なども。
緑の中にある町なので、季節ごとに違った風景が楽しめそうです。地元の人は冬の雪景色が一番素晴らしいと勧めてくれました。〈2011.9.25.〉
村の一角
改装済みおしゃれなカフェ
改装前の古民家
サフランボルの東15キロほどのところに、ヨリュク村があります。サフランボルと同様、古い民家が残っている小さな村です。ヨリュクはアナトリアの遊牧民
をさします。かつて遊牧していた人々がここに定住して村になったそうです。この村の一番古い民家は450年前のもの。新しい家でも90年前にできたとか。
サフランボルに来た観光客が立ち寄るようになったため、民家を改装した博物館やカフェ、ペンションがあります。
博物館
サロン
はしごの向こうが夏の部屋
食堂の天井装飾
スィパヒオウル・コナーウ・ゲズィ・エヴィSipahiogle Konagi Gezi
Evi(無休、8:30〜日没)は博物館として公開されています。基本的な構造はサフランボルの民家と同じですが、この家には暖炉で沸かしたお湯を壁の後
ろに通すという暖房設備がついていました。今でいうセントラル・ヒーティングの走りですね。そしてまたこの家も押し入れがお風呂になっていました。
博物館の近くに洗濯小屋が残されています。80歳近くになるフィリズさんが案内をしてくれました。この方、石畳の坂道を走って駆け上る元気いっぱいのお婆
ちゃま。洗濯の時の歌を歌いながら、当時の様子を再現してくれます。当時は中央に据えられた巨大な洗濯石に洗う物を置き、棒で叩きながら洗濯していまし
た。この石自体は平らですが地面に傾斜がついていて、石の片側は低く、ぐるりと回るにつれて高くなるというもの。洗濯する人の背の高さにあわせて立つ場所
が決まっていたようです。洗濯にお湯を使っていたので、蒸気が室内から抜けるよう建物の天井近くは格子作りになっています。いろいろな工夫がされていて
びっくり。昔はここで女性たちが井戸端会議ならぬ洗濯場会議に花を咲かせていたわけですね。
洗濯小屋
夕暮れ時
洗濯石は12角形をしています。スィパヒオウルの室内も12という数に合わせた装飾がされていました。これはベクタシュ教団Bektashismと関係が
あるそうです。ベクタシュ教団は13世紀にペルシャ人のハジュ・ベクタシュHaci
Bektasが設立したシーア派の一派で、イスラム神秘主義とキリスト教的要素が混ざった教義を持っています。アルバニアやギリシャにも信徒が多く19世
紀にオスマン帝国で異端として禁止された後はバルカン半島で生き延び、一時解散したものの20世紀末に再建。現在もアルバニアやマケドニアを中心に活動が
続いています。ハジュ・ベクタシュ自身は長い間アナトリア各地を漂泊していたそうで、この村の住民となった遊牧民にも支持されていたのかもしれません。
村を訪れたのが夕方だったせいかひなびた感じがいっそう強く、路地にはどこかなつかしく心安らぐ雰囲気が漂っていました。〈2011.9.25.〉
内陸部から望むアマスラ
サフランボルからアマスラに向かう山道
東側にある大きなビーチ
石柱のある入り江
内陸にあるサフランボルから90kmばかり北上すると黒海に出ます。そこにある小さな半島がアマスラの町です。三方を海に囲まれ、風光明媚で静かな保養地
としてトルコでも人気の場所になりつつあります。ほんとうにかわいらしい町で、人口は6640人(2013年)。半島を中心にして東側と西側にビーチと港
があり、夏場は海水浴を楽しむ人たちでにぎわいます。
アマスラは前6世紀ごろにはセサモスSesamus
と呼ばれ、ホメロスの『イリアス』にも記述されているように小アジアでもっとも古いパフラゴニア王国Paphlagonia
に属していました。パフラゴニアは前333年にアレクサンダー大王に支配された後、ポントス王国、ローマ帝国を経て、1460年征服王メフメット2世に
よってオスマン帝国の配下に置かれます。メフメット2世はこの町があまりに美しいため破壊して征服することを望まなかったため、戦うことなしに無傷の状態
で城が明け渡されたそうです。
城門
城壁の家
城壁
ファティフ・ジャーミー
教会ジャーミー
現在の町の名前は、アケメネス朝ペルシア最後の王ダレイオス3世の姪、アマストリスAmastris
に因みます。彼女はマケドニアの将軍クラテルスCeaterus (前370-321)
に嫁いだ後に離別、ヘラクレアの僭主ディオニシウスDionysius
と結婚してパフラゴニアにやってきました。しかし前306年に彼と死別、前302年にリュシマコスLysimachus
(前360-281)と結婚します。やがて彼とも離別し、後にアマストリスと呼ばれるこの町の建造に熱中したと伝えられています。彼女はまた、自分の名前
を冠した硬貨を発行した最初の女性でもありました。
紆余曲折の人生を送ったアマストリスですが、最期は前284年にふたりの息子によって暗殺されたということです。
博物館
庭の展示物
西側の小さなビーチ
半島の先には、海岸沿いに堅牢なアマスラ城壁が残されています。これはビザンティン時代のもので、当時ここが海運上重要な町だったことがわかります。城
門、半島に隣接する島を結ぶ石橋などもあり、海の景色を眺めながら散策するのにぴったりです。城壁といってもその内部に城跡があるわけではありません。
しゃれたプチホテルや民家の密集地帯です。よく見ると城壁の上に民家が建っている箇所もあり、それが独特な景観を醸し出しています。
「教会ジャーミーAmasra Klisesi
」も9世紀に建造されたビザンティン教会です。メフメット2世征服後ジャーミーに転用されましたが、1940年以降閉鎖されたままとなっています。
町の土産物屋
日曜市場
町の西側海岸沿いに、平屋石造りのアマスラ博
物館Amasra
Müzesiがあります。月曜日休館、9:00〜17:00。
1955年、町役場の一部屋で近在の発掘品を展示していたのがそもそもの始まりです。収蔵品の増加に伴って1969年に移転しましたが、それからもコレク
ションが増え続けたため、さらに現在の場所に移ったということです。博物館の建物は1884年建造の学校だったそうで、数年かけて修復した後1982年に
開館となりました。
規模は小さいながらも、ヘレニズム時代からの遺物、彫像、アンフォラ、装飾品などが展示されています。後期オスマン時代の民族誌的なさまざまな生活用品の
展示室もあります。「小さいけれども素敵な博物館トップ10」のなかに数えられていると聞き、訪れるのを楽しみにしていました。
が、しかし。何とその日は停電で入館できませんでした。中庭には例によって大理石のかたまりが陳列されています。仕方ないので、その写真だけ撮ってきたの
でした。
海沿いに魚料理レストランがたくさん
飾り切りのサラダ
魚のフライ盛り合わせ
城壁のふもとには土産物店や雑貨屋などが並びます。ちょうど週末だったせいか、海岸沿いにテント掛けの小さな市場が出ていました。新鮮な野菜や果物、自家
製のチーズやジャムなどを近隣のひとたちが売りに来ているのでしょう。観光客も地元のひとたちも、一緒になって買い物を楽しみます。
海に面した通りには、見晴らしの良いカフェやシーフードレストランが何軒もありました。お天気のいいときに、こういう開放的なお店で食事をするのはなかな
か気分が良いものです。レストランの裏手に魚屋もあり、店のおじさんは「すぐ目の前の港で揚がった魚を売っているんだ。だから新鮮まちがいなし!」と自信
満々。
こぢんまりした歴史ある町で海は美しく、黒海の新鮮な魚も手頃な値段で堪能できるとくれば、なるほど、アマスラが評判になるのもおおいに納得できるのでし
た。〈2014.10.29.〉
くもり空の黒海
街の中心、アタテュルク広場
夕方の繁華街
広場はお休み処になってます
トラブゾンは黒海地方の東寄りにある大きな港町です。現在のトラブゾン県は人口約75万8千人(2013年)、そのうちのほぼ半数以上が県都のトラブゾン
に集中しています。黒海地方ではもっとも洗練された街という評判もあるトラブゾンは、古くから交易の要所として栄えました。
紀元前756年にエーゲ海地方のミレトスからやって来た人々が街を興し、ここをトラペズスTrapezous
と呼んだのが現在の名前の由来です。トラペズスとはテーブルという意味だそうで、前4世紀のドラクマ銀貨にはテーブルの上に果物のようなものがたくさん積
んである絵柄が描かれています。
一時ペルシアに支配された後、前337年のポントス王国Pontusを経て前63年にローマの支配下に置かれました。1204年第4回十字軍によってコン
スタンティノープルが陥落した際、ビザンティン帝国の皇子たちがこの地に逃れ、亡命政権としてトレビゾンド帝国Trebizond
を築きます。同じ13世紀に『東方見聞録』を書いたマルコ・ポーロは、アジアを巡った帰路、ホルムズから陸路を北上してこの街から出航、コンスタンティ
ノープル経由で故郷のヴェネツィアへ戻りました。
トレビゾンド帝国は、1461年オスマン帝国に滅ぼされるまで存続しました。メフメット2世によるコンスタンティノープル征服は1453年。黒海沿岸に残
されたビザンティン帝国の末裔は、その後8年間生き延びたということになります。こうした歴史を物語るように、街にはビザンティン様式の建築物が多く残さ
れています。
トラブゾン周辺を訪れたのは2011年8月でした。暑いイスタンブールを逃れて北の方に行けば涼しいかもしれないと思い立ったのですが、いざ行ってみたら
気温も湿度もイスタンブールより高く、おまけに曇天が続いて夏らしい青い海を見ることもできません。どこも水蒸気というかモヤで霞んでいるようです。
ちょっと当てがはずれましたが、この地方には興味深いものがたくさんありました。
ビザンティン建築の聖アンナ教会、現在廃墟
オスマン様式の建物、現在食堂
ヨーロッパ建築、現在役所関係のオフィス
オールドマーケット(ベデステン)、現在も現
役
街はアタテュルク広場を中心として、にぎやかな大通りや狭い路地にうねうねとした商店街が続いています。広場には椅子とテーブルが並び、ひとびとの憩いの
場になっています。日曜日だったため広場や繁華街の人出は多いものの、昔ながらの商店街はほとんど閉まっていて残念。
通りをぶらぶら歩いていると、一目でビザンティン建築だとわかる建物に出くわしました。おそらく教会だろうと思いましたが、その後ジャーミーに転用された
気配もなく、廃墟同然で荒れ果てています。付近のひとにたずねると、「確かに昔は教会だったようだ」。写真だけ撮って後で調べてみたら、このこぢんまりし
た建物は聖アンナ教会St. Anna Church (Küçük Ayrasıl Kilisesi
)だと判明しました。この地方でもっとも古い教会のひとつで、建造は7世紀ごろ。884年から885年にかけて修復されたというプレートが入口についてい
たそうです。外見からもわかるように3つの後陣を持ち、拝廊はありません。内部には多くのフレスコ画が描かれていましたが、その後かなり破壊されてしまっ
たということです。
2014年になってから、トルコ文化観光省はこの教会を地域の歴史的文化財として修復するプロジェクトを立ち上げました。オリジナルに忠実な修復が待たれ
ます。
チャルシュ・ジャーミー
開放的な窓のジャーミー
日本バザール?
子供向け洋品店のウィンドウ
街には他に風格のあるヨーロッパ建築やジャーミーなど、美しい建造物が目につきます。ベデステンはトラブゾンでもっとも古いマーケットとして1647年に
建てられました(2001年修復)。現在も内部には工芸品などを扱う店が入っています。
路地には「日本バザール」という看板の金物屋というか、百均ショップみたいな店もあり、けっこう買い物客でにぎわっていました。もちろん、日本製品を売っ
ているわけではないようでしたが。〈2014.7.29.〉
アヤソフィア博物館
ドーム裏のフレスコ画
4人の福音書記家
月曜日休館・夏期9:00〜19:00・冬期9:00〜17:00
アヤソフィアはイスタ
ンブールにあるものが有名ですが、実はトラブゾンにもあります。こちらの方はとてもこぢんまりした佇まいで、黒海に面した小高い丘の
上に美しい姿を見せていました。イスタンブールと同じように、現在は博物館として公開されています。
このアヤソフィアはトレビゾンド帝国のマヌエルManuel
1世(在位1238年-1263年)によって、1250年から1260年ごろ建造されたと考えられています。5世紀建立という説もあるようですが、現地で
入手した資料などで5世紀説は確認できませんでした。後期ビザンティン様式の優れた宗教建造物であることを考えると、13世紀建造の方が自然に感じられま
す。
ただし、重要な修道院や教会はそれ以前の時代にあった宗教の聖地跡に建てられることも多いので、最初はこの場所に何かの神殿や祠のようなものがあったのか
もしれません。現在は街の中心から近いところにありますが、かつては城壁の外だったということです。
脇にある鐘楼は1427年に加えられました。1461年にトレビゾンド帝国が滅びた後もしばらく教会として使われていましたが、1584年ジャーミーに転
用されました。その後荒れ果てていた時期があったようです。1864年に修復され、第一次世界大戦中は倉庫や病院として使われていました。1958年から
再び修復され、1964年に博物館となりました。
色鮮やかなフレスコ画の細部
内部のフレスコ画が見事です。破壊されたり剥落した部分もありますが、ダイナミックな絵柄と色遣いに驚かされます。キリストの誕生、洗礼、最後の晩餐、昇
天など、聖書のさまざまな場面が描かれています。
後陣
南側のファサード
反対側
庭の展示品
黄色い夾竹桃?
南側のファサードにはアダムの創造や、イヴが楽園で禁断の木の実を採る場面がレリーフになっています。劣化しているため部分的にしかわかりません。庭に大
理石の巨大な展示物が転がっているのは、他の博物館でもよく見かける光景です。こういうものがあると、「博物館」らしい感じがします。
内外の観光客が多く訪れるせいか、周囲には土産物屋やカフェなどが並んでなかなかにぎやかです。近くの茂みに、きれいな花が咲いていました。葉の形や樹形
からすると夾竹桃(キョウチクトウ)のようですが、薄いクリーム色でしかも八重咲きです。赤や白の花しか見たことがなかったので、ちょっとびっくりしまし
た.〈2014.8.15.〉
夜の黒海
アタテュルク・キョシュク
無休・夏期8:00〜19:00・冬期8:00〜17:00
アタテュルク・キョシュク(アタテュルク・パヴィリオン)はトラブゾンの中心部から南西に約5km、緑に包まれた閑静な高台にあります。キョシュクは別
荘、別邸、離宮というほどの意味です。
この美しい邸宅は、1890年コンスタンティン・カバヤニディス Konstantin Kabayanidis
というロシア人の夏の別荘として建てられました。その後トラブゾン市の所有となり、1924年9月15日トルコ建国の父ムスタファ・ケマル=アタテュルク
が初めてトラブゾンを訪れた際、ここで休憩してたいそう気に入ったそうです。市はこの建物をアタテュルクに進呈し、彼は1930年と1937年の2回、ト
ラブゾン訪問の時に滞在しました。
アタテュルクが亡くなった後、彼の妹メクブレ・ボイサンMekbule Boysan
に譲られましたが、1943年トラブゾン市に寄贈され、1964年から博物館として公開されています。内部の写真撮影は禁止です。
地下階を入れて4層の建物は、クリミアの黒海沿岸地方に見られる典型的な様式ともいわれています。1階にサロン、休憩室、食堂、台所など、2階は執務室や
寝室、浴室、3階は収納部屋、地下階にはボイラー室と大理石でできた小さいハマムという造りです。調度品も当時のままで、往年の様子がうかがわれます。
日本でもお馴染みの花々
八重の山吹と紫陽花
ヘーゼルナッツの樹
室内の写真が撮れないのは本当に残念ですが、広大な敷地のなかにさまざまな花が見事に咲いています。起伏のある自然の地形をそのまま活かした西洋式庭園で
す。庭の中心となる明るい花壇には華やかな種類、針葉樹がうっそうと茂っている部分には半日陰で生長する種類が上手に配置されています。とてもよく計算さ
れた庭園です。
造園用の植物がこれだけきれいに咲いているのは、この場所が適度な太陽の光と雨に恵まれているばかりではなく、庭師が丹精こめて手入れをしていることを表
しています。トルコでこれほど規模が大きく美しい庭園にはなかなかお目にかかれません。ここがどれほど大切にされているのかが伝わってくるようです。
日本では山吹は春、紫陽花は梅雨時に咲きますが、ここでは8月に並んで花をつけています。池には夏の睡蓮も。それぞれわたしたちに馴染み深い花とはいえ、
いっぺんに咲いているのを見るとちょっと不思議な感じです。日本とは微妙に気候風土が違うということなのでしょう。〈2014.9.4.〉
断崖絶壁の修道院
途中で渓谷を見下ろすと
本当に貼りついています
複雑な構造
無休・夏期9:00〜19:00・冬期9:00〜16:00
トラブゾンから南に50km
足らず、マチカMaçkaの奥にあるアルトゥン渓谷Altındere国立公園のなかにシュメラ修道院があります。標高1200m、渓谷から300m
の切り立った断崖絶壁に、文字通り貼りついているように見えます。山の麓まで車が入りますが、その後はつづら折りの坂道を40分ほど歩いて登らないといけ
ません。冬は雪が降るので通行止めになることもあります。
ここはギリシャ正教の修道院だったところで、「メラ山の聖母マリア修道院 Moni Panagia Soumela
」というのが正式名称でした。メラ山は「黒い山」という意味で、トルコでもこれに基づいて同じ意味のカラ山Karadağ と呼ばれています。
伝説によると、386年アテナイ人のバルナブスBarnabus とソフォロニウスSophronius
というふたりの修道士が不思議な夢に導かれ、この山の洞窟でイエスの使徒ルカが描いた聖母マリアのイコンを発見し、ここに教会を造ったといわれています。
その後たびたび荒れては修復を繰り返し、6世紀のユスティニアヌス1世の時代にはかなり拡大されました。現在の形になったのは1204年トレビゾンド帝国
のアレクシオウス3世の命によってのことです。1461年以降のオスマン時代にも、歴代スルタンから特権を与えられて修道院として機能していました。しか
し1923年トルコ・ギリシャ間の住民交換協定の際に無人となり、現在は博物館として公開されています。
フレスコ画
住民交換の際、ここにいた修道士たちはギリシャに物品を持っていくことを許されませんでした。彼らは近くの聖バルバラ礼拝堂の床に聖母マリアのイコンを隠
し、数年後こっそり戻ってこれを掘り返し、ギリシャに新しくできた「メラ山の聖母マリア修道院」に運んだそうです。新しい修道院はギリシャのマケドニア地
方、ヴェリアVeria近くのヴェルミオンVermion
山麓に建てられました。ルカの造ったイコンは数枚あったとされ、他のものはダブリンとオックスフォードにあるということです。
イコンについてはまた別の伝説もあります。ルカが亡くなった後、イコンはアテネにありました。しかしテオドシウス1世統治(379年〜395年)の間に、
天使がイコンをこの地に運んだといわれています。
不思議なエピソードに充ちた場所ですが、それも本当かもしれないと思わせる神秘的な雰囲気が漂っています。時折霧がかかってきたりすると「深山幽谷」その
ものです。
フレスコ画は破壊されたり剥落している部分も多くありますが、思ったより良い状態でした。
「岩の教会」
垂直
山道の花
下界
ふたりの修道士が最初に造ったのは「岩の教会」だと伝えられています。この部分の外壁は雨ざらしの状態です。ごつごつした岩肌から突然教会の平らな壁が出
現し、そこにびっしりフレスコ画が描かれています。
全体にカッパドキアの洞窟教会とはまったく趣が違います。そもそも「黒い山」と呼ばれるように岩肌は黒々とした岩盤で、カッパドキアのように白く柔らかい
石灰岩ではありません。掘ったりくり抜いたりして造ったというよりも、洞窟外側の垂直な岩盤を削ぎ、別の石材を積み上げて外壁を作り足したという感じで
す。増改築を繰り返して複雑に入り組んだ境内には、いくつもの礼拝堂、台所、僧坊、ゲストハウス、図書室などがあります。
人里離れた天上の世界から再び山道を下りてくると、そこは俗世そのもの。土産物屋やカフェなどがあり、観光客がひしめいています。つかの間仙境に遊んで下
界に戻ってきた、という思いがしました。〈2014.9.4.〉
トラブゾンの美味 Lezzetli Trabzon
片口鰯のパンケーキ
ムフラマ
コーンブレッド
焼き魚定食
黒海地方の名物は何といっても鰯料理です。冬に黒海で捕れる片口鰯は最高においしいといわれています。もちろん夏でも出回っていて、とうもろこしの粉をつ
けて揚げたり、お米と一緒に炊いたり、調理法もさまざまです。鰯のパンケーキは薄いお好み焼きというか、韓国料理のチヂミみたいな感じで、表面がかりっと
して中がもちっとしています。鰯はあまりたくさん入っていないようでした。
この地方は乳製品も有名で、確かにどこで食べてもバターやチーズは濃厚でいい香りがします。それを十分に堪能できるのがムフラマMuhlama
というチーズ料理です。クイマックKuymak
とも呼ばれます。チーズをバターで煮て、とうもろこし粉を混ぜ込んだフォンデュのようなものです。あつあつのびよ〜んと伸びたチーズをパンにからめて食べ
ると、この世のものとは思われない味わいです。地元では朝食時に食べるそうですが、毎朝食べたら長生きできそうにありません。それでもいいからたっぷり食
べたい、と思わせるたいへん危険な料理です。
片口鰯のフライもムフラマもとうもろこし粉を使います。実際に黒海地方はとうもろこしの産地で、あちこちにとうもろこし畑が広がっています。とうもろこし
粉のパンもこの地方独特のものです。プレーンタイプ、片口鰯入り、野菜入り、香草入りと、種類もいろいろあります。最初はちょっとざくざくした食感で、後
から口の中でほろほろと溶けていくような感じです。
山の渓流ではマスの養殖が盛んです。渓流沿いのレストランで3種類の焼いた川魚を頂きましたが、養殖と天然のニジマス、もうひとつは何だかよくわからない
小さな種類のものが出てきました。
トルコではイスタンブールや地中海地方といった沿岸部以外では、それほど魚を食べません。淡水魚は内陸部の川や湖の近くでは食べますが、一般に海の魚以上
に馴染みがないようです。川魚は食べられないというトルコ人観光客が何人かいました。それにこういう微妙な大きさの尾頭付きをナイフとフォークで食べるの
はちょっとやっかいで、みなさん悪戦苦闘しています。
トルコでも「日本人は魚好き」と知られているせいか、一番小さな魚を食べるのを放棄してわたしに分けてくれる人もいました。確かにこれは食べにくい大きさ
です。せっかくだからありがたく頂戴しましたが、食べ終わったお皿を見るとみなさんびっくりします。「どうしてこんなにきれいに食べられるの?」などと言
われます。こちらとしてはごく常識的な食べ方をしているだけなのですが。
実はこの時食べた中で、一番小さなものが一番繊細な味わいでおいしかったのでした。
チーズ各種
ホテルの朝食
街のチーズ屋
バターやチーズいろいろ
乾物屋
ホテルのブュッフェ式朝食では、ムフラマを始めいろいろなチーズが並びます。カテージチーズに似たぽろぽろした白いチーズをバターで煮た温かい鍋、茹でた
青菜とスパイスを混ぜたチーズもありました。街のチーズ屋にもさまざまな種類があり、バターも量り売りで扱っています。
八百屋の一角
道ばたでニジマス売り
シュトラッチ
伝統菓子屋
ヘーゼルナッツ
シュメラ修道院があるマチカの山あいに、ハムシキョイHamsiköy という人口数100人の村があります。ここの名物はシュトラッチŞütlaç
というミルク風味のライスプディングです。そもそもお店もあまりないような村ですが、そこにぽつんとあるレストランで食べることができました。
シュトラッチはトルコ中どこにでもあるデザート菓子で、お米を煮て作るためもっちりした食感のものが一般的です。しかしここのシュトラッチはもっちりして
いません。とろっとしたゆるさで、スープのようにスプーンですくって食べる感じです。お米のつぶつぶ感もなくてなめらか、ほどよい甘さとミルクのおいしさ
が際立っています。砕いたヘーゼルナッツがたっぷり振ってあり、とろりとしたプディングにかりかりしたナッツがいいアクセントになっています。
ところでトルコ語でハムシとは片口鰯のことです。何でこんな山奥の村に「片口鰯村」という名前がついているのか不思議でしたが、このあたりはかつてハムセ
キョイHamse köy
と呼ばれていたそうです。ハムセとはアラビア語で5という意味で、昔ここに5つあった村を総称してそう呼んでいた名残ということでした。
トラブゾン周辺では、ペスティルPestil やキョメKöme
という伝統的なお菓子があります。いずれも、熟した桑の実と蜂蜜を長時間煮詰めて作ったゼリーにナッツを混ぜたお菓子です。日本では果物のお菓子に「のし
梅」がありますが、それよりももっと歯ごたえを強くしたような感じです。
ゼリーをシート状にしてナッツを挟み込んだり、お団子にして外側にナッツをたっぷりまぶしたものがペスティル、ナッツ入りゼリーをソーセージ形に固めたも
のがキョメと呼ばれています。ガラスケースの中で黒々と横たわっているのはキョメです。カッターで適当な大きさに切り分けて売っています。
イスタンブールにも似たようなものがたくさん出回っていますが、ゼリーの部分がゴムのように固く、小さく切ったものをさらに引きちぎらないと食べられませ
ん。あまりおいしいと思ったことはありませんでした。ところがこの地方のはゼリーが柔らか、かつ適度な歯ごたえもあります。100%天然の自然な甘さを売
り物にしている通り、さっぱりとした甘さで意外と後を引きます。
後ろの棚に並んでいる瓶詰めは、桑の実を煮詰めたシロップ「ペクメズPekmez
」です。カッパドキアなどでは葡萄を煮詰めて作ることが多く、地方によっていろいろな種類があるようです。
トルコのヘーゼルナッツfındıkは世界の総生産量の75%を占めるといわれており、黒海地方、とりわけトラブゾン周辺はその産地でもあります。何でも
ない普通の道ばたにヘーゼルナッツの樹が茂り、ちょうど実をつけているのをたびたび見かけました。
写真はアタテュルク・キョシュクの庭になっていたものです。緑のガクのような薄皮をむくと、中に薄いハシバミ色の殻に包まれた実があります。庭園内の植物
を勝手にむしって食べていいのかどうかわかりませんが、みなさん殻を歯で割って食べ始めます。真似してやってみると、殻は非常に固くてとても割れません。
世話好きの方が割ってくれたのを頂きました。
採れたての生のヘーゼルナッツ、まだ若い味です。かすかに新鮮な青臭さも感じられます。海の幸と山の幸に恵まれた黒海地方の豊かさを実感したひとときだっ
たのでした。〈2014.9.4.〉
ウズンギョル
対岸
現役の古民家
高台からの眺め
湖畔に咲く花
トラブゾンから黒海沿いに40kmほど東に向かい、そこから内陸部に入ってうねうねとした山道を60km行くとウズンギョルにたどり着きます。標高
1127m。「長い湖」という名前の通り、細長い湖は静かに水をたたえ、山々の緑を映し取っています。この湖は、ハルディゼン渓谷Haldizen
deresi から転がり落ちた岩がソラクル川Solaklı çayı の流れを堰きとめてできたそうです。
あたり一帯の山間部はトルコ国内で人気の避暑地で、ウズンギョルはトレッキングの拠点にもなっています。避暑地といっても風光明媚な山あいの村、人口は
4000人程度です。あくまでも静かに自然を楽しむといった風情で、にぎにぎしい物売りや大型ホテルなどは見られません。湖を囲むようにバンガロータイプ
のホテルやペンション、レストランなどが点在し、たいへんのどかな雰囲気です。
涼しげな高原の湖とはいえ日中はかなり気温も上がり、湖畔を散歩していると蒸し暑く感じます。遊歩道は整備されて歩きやすいものの、脇道は未舗装です。湖
から少し登った先に、昔ながらの民家がぽつりぽつりと建っています。一階が石造りで家畜小屋や物置、二階から上が木造の居住部分という、田舎でよく見かけ
るタイプの家でした。
険しい山が連なっています
渓流のあるヤイラ
流れのすぐそばで
水は冷たくいい気持ち
ウズンギョルからさらに山奥に入り、小型車しか通れないような細い畝道を歩いていくと、緑豊かな牧草地に行きあたります。こうした場所をヤイラyayla
と呼びます。ヤイラは一般に高原という意味ですが、とくに山あいにある夏の放牧地帯を指す言葉だそうです。
観光客と村の人々
可憐な野の花
観光客がやって来るとどこからともなく近所の村人が現れ、ちょっとしたお土産物やら乾燥ハーブなどを売り始めます。自家製の塩味パンやヨーグルトドリンク
を並べているひともいました。周囲にはお店も何もないので、一息つくにはちょうどいいかもしれません。〈2014.8.22.〉
トルコのアルプス?
ウズンギョルの北東には、標高3937mのカチカル山Kaçkar Dağı を中心とする山々が連なっています。チョルフ川Çoruh nehri
沿いに200kmあまり続く山脈は、一部国立公園に指定されており、とりわけ豊かな自然に恵まれた地域です。アイデルはちょうどこの山脈の入口にある保養
地で、トラブゾンからは約120km、標高1265mに位置します。アルプスにたとえられることもあるヤイラです。
周辺の山々でトレッキング、きれいな渓流でラフティングや水遊びを楽しむ人々で、とくに夏場はにぎわいます。人口は約2500人ですが、夏は倍の5000
人になるとか。バンガローやコテージ風のホテルやペンション、レストラン、お店がたくさんあり、ウズンギョルよりも観光地らしい雰囲気です。渓流を利用し
たマスの養殖が盛んで、ホテルやレストランで食べられます。ここには温泉もあり、湯煙が上がっている浴場がありました。
ヘムシン人の伝統楽器
ツーリスティックなレストラン
一天にわかに
広場ではおじさんが弾くバグパイプにあわせて輪になって踊ったり、山の斜面で思い思いに遊んだりして、みなさんゆったりくつろいでいます。家族連れで夏の
休暇を楽しむ人が多いようです。さっきまで青空だったのに、あれよあれよという間に霧が立ちこめ、あたりはすっかり暗くなってしまいました。変わりやすい
山の天候です。さすがに肌寒い思いをしました。
しかし何でトルコでバグパイプ?と思いましたが、実はこれはこの地方に住む少数民族ヘムシン人Hemşinliler
の伝統楽器です。ヘムシン人はアルメニア系の人々で、トルコ、アルメニアの他にロシア、グルジア、カザフスタン、キルギスタンなどに住んでおり、総人口は
15万人から20万人といわれています。アルメニアのヘムシン人はアルメニア教会に属してアルメニア語のヘムシン方言を話し、トルコではイスラム教徒でト
ルコ語を使う人が多いそうです。
豊かな水と緑
渓流でラフティング
オスマン時代の橋
シェンユヴァ橋
黒海沿岸からアイデルに向かう途中でも、充分山深い景色を楽しめます。本当にこれだけ緑と水が多い地方は、トルコでは他にないでしょう。家の造りが違うの
を除けば、日本とよく似た風景です。川の少し広いところで水遊びをする人の姿が見えましたが、流れはゆるやかというわけでもありません。ちょっと心配にな
ります。
このあたりにはオスマン時代にできた橋がいくつか残っていました。車は通れませんが、現在も人々の生活におおいに役立っているようです。シェンユヴァ橋
Şenyuva köprüsü には1696年建造と書かれた立派な看板が立っていました。
ズィル・カレ
この花で冠を編むとすごくかわいい
緑の木立の間から白いお城が見えてきます。13世紀のトレビゾンド帝国時代に建設されたズィル・カレZilkale
(鐘の城)です。チャムルヘムシン村Çamılhemşinの南15km、フルトゥナ渓谷Fırtına deresi
の西岸に位置するズィル・カレは、この地域の重要な歴史的建造物とされています。アルメニア教会の礼拝堂だったという説もあるようですが、はっきりわかり
ません。チャムルヘムシンという地名の通り、この村にはヘムシン人が多く住んでいるそうです。
お城はシルクロードの近くにあるため、16世紀のオスマン時代には警備とチェックポイントの要塞として使われ、常時30名ぐらいの兵士が詰めていました。
三重の城壁と5層の塔から成っていますが、屋根や床がないので城壁の上しか歩けません。そうでなくても川から100mの断崖絶壁に建っているお城です。高
所恐怖症の小心者は足場のいいところで何枚か写真を撮って、あとは野の草花などを眺めていました。〈2014.8.22.〉
街の中心にあるアタテュルク像
シェイフ・ジャーミー
郵便局
チャイ博物館
よろず屋
海岸沿いの茶店
リゼはトラブゾンから黒海沿岸を東に75km行ったところにある街です。人口は約20万人(2013年)。このあたりはお茶の産地で、お茶の段々畑やチャ
イ工場がたくさんあります。霧が多く湿潤、昼夜の寒暖差があるため、お茶の栽培に適しているそうです。とくに観光地ではありませんが、街の中心には民族博
物館や紅茶メーカーが運営するチャイ博物館などもあります。シェイフ・ジャーミーŞeyh camii
は1711年に建立された後、1953年から65年にかけて改築され、現在リゼで一番大きいジャーミーになっています。
お茶畑
お茶の講習会
チャイ工場
トルコ人向けのツアーに参加すると、お茶畑でお茶の葉刈り取り体験をさせてくれます。日本でお茶の葉は手で摘みますが、トルコでは刈り込み鋏の片方に衝立
状のプレート、もう片方に袋がついている専用鋏でばりばりと刈り取っていきます。なかなかダイナミックです。写真のお兄さんはお茶刈り専門家ではなく、ツ
アーに参加した観光客です。
その後チャイ工場に連れていかれ、まずはチャイを一服頂きながら工場の人からお茶の製造法についてレクチャーがあります。それから工場内を見学、内部はお
茶のいい香りでいっぱいです。一通り見学を終えると、売店でお買い物。ここで扱っているものはイスタンブールでは手に入らない高級品だそうで、みなさんキ
ロ単位で大量に買っています。わたしも友だちのお土産用に一番小さいパックを買いました。
国境の村サルプ
ゲート付近で
グルジア方面
リゼから沿岸沿いに100kmほど北東へ行くと、グルジアとの国境です。サルプSarp
の国境ゲートはいたってのんびりムードで、両国の人々は徒歩でも行き来しています。ちょうどこの年、2011年6月にトルコ・グルジア間の往来がパスポー
トなしでできるようになったばかりです。ゲート近くに車を停めて、三輪のリヤカーみたいな手押し車に荷物を載せて移動する人もいました。
緩衝地帯の向こう側、グルジアに入るとすぐ海水浴場になっていて、地元の人々が甲羅干しをしている様子が見えます。グルジア側にはちょうど小さな砂浜が
あってラッキー。
ゲートと黒海以外にめぼしいものは何もないところですが、整備された公園のなかに小さな店があり、そこでアルコール類を免税価格で売っているそうです。雰
囲気的には合法ではないように感じましたが、同行のトルコ人は気にする風でもなく、ウォッカやらウイスキーやらを嬉しそうに仕入れていました。
〈2014.8.22.〉
〈この項続く〉
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